2013年10月22日
ちょっとその論理は独善的です
先方のコメント欄に書こうと思ったのだが、長文になりそうなので、ここに書きます。
決して批判ではないですよ。
心地を九識に持ち修行をば六識にせよ
たった一行のご金言ですが、非常に深い仏法の法理だと思います。
これを身で読むのは並大抵ではないと、私は確信しています。
そもそも、ご金言の真意(文底)を拝することさえ、難しいと思うからです。
つまりは、自分自身を100%信じれば、仏界は湧現するという理論が、少々強引だということをお話ししたいと思います。
ここは娑婆世界です。
ですから、我々の生活は、縁によって全てが起っています。
ゆえに、他者との関係性が最も大切です。
その中でも特に大切なのが「信頼関係」「信じあう」ことでしょう。
では、批判をするということは、どういう意味があるでしょうか?
そうです、「不信」であり「猜疑心」であり「疑心暗鬼」です。
ゆえに、私はここで、これまで何十回も「批判することに意味はない」そう訴え続けてきました。
つまり、自分自身を100%信じる。
これは自行にあたり、心地を九識(南無妙法蓮華経)に持つことですよね。
で、他者を信じること、あるいは他者から信じてもらうことが、六識にて修行せよ、に当たると思うのです。
ですから、自分が批判の対象になるということは、
他者から信じられていない、そういうことですよね。
しかし、そういうことを感じ取っているのは正報である、自分の心なわけです。
つまり、あー、あの人は私を批判し、私のことを信じていないんだな、と感じているのは、私の心なわけです。
三重構造になっていますが、私は私の心の中で、自分の依報に不信があることを知っているわけです。
はい、そういう状態で自分を100%信じて、仏界が湧現するでしょうか?
無理です。だって、依報(他者)の中にある依報(他者から見た自分)に不信がある、とそう
私の正報は感じているのですからね。
ゆえに、批判された場合、いいや、そうではないですよ、
こうですよと事実を伝え、私を信じて下さいとそう行動を起こすことが大切なのです。
これが、冒頭の御文にある、「修行をば六識にせよ」になるのでしょう。
批判されたなら、批判で返すのではなく、事実を提示し、問いかけるべきなのです。
そうしなければ、いくら自分を100%信じていても、仏界は湧現しないからです。
ただしこれは、娑婆世界における、環境と他者との関係性にあってのことでしょう。
つまり化他の唱題であり、言論という実践・行動なわけです。
もちろん、自行という、ご本尊に向っての祈りも欠かせないことは当然です。
ようするにこれが、心地を九識に持ちにあたるのではないですか。
しかし、化他においてもそれは実践可能です。
相手を信じること、信じあえる関係を築くことがそれにあたります。
ですから、批判を受けても、受け流してスルー。
そして自分だけ信じていればいい、という理論は、御書にてらしておかしいのではないでしょうか。
そもそも、この信心は、
仏と法(自分)と僧(他者)との関係性にあって、娑婆世界では仏界が湧現するのです。
ゆえに、それが三重構造であろうが、自らの中(正報)に不信があると感じたならば、
それを正してゆく行動が不可欠なのです。
これは、福運です。化他とは福運をつむことですからね。
そして、自行である唱題行は功徳にあたります。
このふたつが揃って、はじめて幸せになれるということは、先生のご指導にも明確です。
「福智の二法」、そう先生は仰せです。
もちろん、究極的には、内道ですから、
相手はあんなことを言っていても、会うのも話すのも嫌だけど、
生命の底では、私のことを信じて受け入れ認めてくれている。
そう思えればいいわけですが、これはそう容易なことではないでしょう。
なにせ、人間は感情の生きものですから、そう思うことは非常に困難なのです。
ゆえに、現実の娑婆世界の中で、自他の関係性において、
「信じあうこと」「信頼関係」を築いていこうとする、言論や行動をしたほうが良いという一面があると思うのです。
もちろんそれは、批判に批判で返すのではなく、
事実を提示し、問いかけ、相手の心に「動執生疑」を起こすという言論であるべきです。
あれが正しい、これが間違いだ。そういう指摘は必要ないのです。
これが事実(真実)だと思うけど、どうかな?
私の経験から言うと、こうだと思うよ、どうかな? そういう言論、問いかけですね。
なぜか?
さる方のブログでこれは答えるべきかもしれないが、ここで答えさえてください。
無明を法性に変えるのではないからです。
無明即法性だからです。
無明は法性と一体不二であるからです。
どちらか一方として現れるのは、娑婆世界においてのみです。
言語に変換された瞬間に、不二のものが、二面性を持つのです。
ゆえに、心地も言論に対してのスタンスも、中道実相にしていくべきだ、そう語るのが正確な表現かと思います。
何度も触れてきました。
言葉にすると、どうしても一面しか表せないのです。
無明と法性は一体であるものを、
「無明」と「法性」に分けて説明するしかないのです。
それが言語のもつ、特徴であり、どうしても乗り越えることの出来ない、言語の壁なんです。
そこに迷わされるのが凡夫です。何にでも正邪をつけようとするのが凡夫なのです。
仏は、正邪など決めません。全てありのままに、二面性を持つ者すら、一体不二であると見るのです。
娑婆世界のものは、すべて二面性を持っている。
だが、本来の心地(九識)にあっては、一体不二である。そういうことです。
先生も、この「即」や「不二」という感覚を仏法的に理解するのは、非常に難しい、そう仰っています。
まあ、私がさんざんここで言ってきた言葉でいえば、
「善悪一如」がそれですね。
これが生命で感じられると、境涯は一気に開ける。
私はそう確信しています。
これを生命で感じると、「正しい」とか「正しくない」とか、
そんなことは枝葉でしかないと思えるのです。
だから、まずもって人と争うにしても、ただの喧嘩で終わることはないのです。
まあ、今、私の心にあるものを、ここに表現することは不可能です。
ですから、私の今している喧嘩は、ただの喧嘩でも何でもないのです。
善悪を超克できる自分になるための、ステップ、そういうことになるでしょうか。
ちなみに、私の説明じゃわかんねー!
という方は、ここに、なかなか良い資料がありますので、一読してみてください。
要点は、「三大秘法の御本尊を信じて、わが身が即、仏であると定めて、純真に信心に励む心、清純な心で不幸な人を救おうとする信心の心、それを九識心王真如の都というのです。」の部分でしょう。
自分を信じるだけじゃ不十分。
そのうえで、不幸な人(不信にまみれている衆生)に、現実のうえで、言論や行動をもって、関わっていく。
そういうことですよね。
もちろん、そこで一番重要なのが、「人の振るまい」なことは、言うまでもないことでしょう。
相手を敬う、不軽菩薩としての振る舞いですね。
決して批判ではないですよ。
心地を九識に持ち修行をば六識にせよ
たった一行のご金言ですが、非常に深い仏法の法理だと思います。
これを身で読むのは並大抵ではないと、私は確信しています。
そもそも、ご金言の真意(文底)を拝することさえ、難しいと思うからです。
つまりは、自分自身を100%信じれば、仏界は湧現するという理論が、少々強引だということをお話ししたいと思います。
ここは娑婆世界です。
ですから、我々の生活は、縁によって全てが起っています。
ゆえに、他者との関係性が最も大切です。
その中でも特に大切なのが「信頼関係」「信じあう」ことでしょう。
では、批判をするということは、どういう意味があるでしょうか?
そうです、「不信」であり「猜疑心」であり「疑心暗鬼」です。
ゆえに、私はここで、これまで何十回も「批判することに意味はない」そう訴え続けてきました。
つまり、自分自身を100%信じる。
これは自行にあたり、心地を九識(南無妙法蓮華経)に持つことですよね。
で、他者を信じること、あるいは他者から信じてもらうことが、六識にて修行せよ、に当たると思うのです。
ですから、自分が批判の対象になるということは、
他者から信じられていない、そういうことですよね。
しかし、そういうことを感じ取っているのは正報である、自分の心なわけです。
つまり、あー、あの人は私を批判し、私のことを信じていないんだな、と感じているのは、私の心なわけです。
三重構造になっていますが、私は私の心の中で、自分の依報に不信があることを知っているわけです。
はい、そういう状態で自分を100%信じて、仏界が湧現するでしょうか?
無理です。だって、依報(他者)の中にある依報(他者から見た自分)に不信がある、とそう
私の正報は感じているのですからね。
ゆえに、批判された場合、いいや、そうではないですよ、
こうですよと事実を伝え、私を信じて下さいとそう行動を起こすことが大切なのです。
これが、冒頭の御文にある、「修行をば六識にせよ」になるのでしょう。
批判されたなら、批判で返すのではなく、事実を提示し、問いかけるべきなのです。
そうしなければ、いくら自分を100%信じていても、仏界は湧現しないからです。
ただしこれは、娑婆世界における、環境と他者との関係性にあってのことでしょう。
つまり化他の唱題であり、言論という実践・行動なわけです。
もちろん、自行という、ご本尊に向っての祈りも欠かせないことは当然です。
ようするにこれが、心地を九識に持ちにあたるのではないですか。
しかし、化他においてもそれは実践可能です。
相手を信じること、信じあえる関係を築くことがそれにあたります。
ですから、批判を受けても、受け流してスルー。
そして自分だけ信じていればいい、という理論は、御書にてらしておかしいのではないでしょうか。
そもそも、この信心は、
仏と法(自分)と僧(他者)との関係性にあって、娑婆世界では仏界が湧現するのです。
ゆえに、それが三重構造であろうが、自らの中(正報)に不信があると感じたならば、
それを正してゆく行動が不可欠なのです。
これは、福運です。化他とは福運をつむことですからね。
そして、自行である唱題行は功徳にあたります。
このふたつが揃って、はじめて幸せになれるということは、先生のご指導にも明確です。
「福智の二法」、そう先生は仰せです。
もちろん、究極的には、内道ですから、
相手はあんなことを言っていても、会うのも話すのも嫌だけど、
生命の底では、私のことを信じて受け入れ認めてくれている。
そう思えればいいわけですが、これはそう容易なことではないでしょう。
なにせ、人間は感情の生きものですから、そう思うことは非常に困難なのです。
ゆえに、現実の娑婆世界の中で、自他の関係性において、
「信じあうこと」「信頼関係」を築いていこうとする、言論や行動をしたほうが良いという一面があると思うのです。
もちろんそれは、批判に批判で返すのではなく、
事実を提示し、問いかけ、相手の心に「動執生疑」を起こすという言論であるべきです。
あれが正しい、これが間違いだ。そういう指摘は必要ないのです。
これが事実(真実)だと思うけど、どうかな?
私の経験から言うと、こうだと思うよ、どうかな? そういう言論、問いかけですね。
なぜか?
さる方のブログでこれは答えるべきかもしれないが、ここで答えさえてください。
無明を法性に変えるのではないからです。
無明即法性だからです。
無明は法性と一体不二であるからです。
どちらか一方として現れるのは、娑婆世界においてのみです。
言語に変換された瞬間に、不二のものが、二面性を持つのです。
ゆえに、心地も言論に対してのスタンスも、中道実相にしていくべきだ、そう語るのが正確な表現かと思います。
何度も触れてきました。
言葉にすると、どうしても一面しか表せないのです。
無明と法性は一体であるものを、
「無明」と「法性」に分けて説明するしかないのです。
それが言語のもつ、特徴であり、どうしても乗り越えることの出来ない、言語の壁なんです。
そこに迷わされるのが凡夫です。何にでも正邪をつけようとするのが凡夫なのです。
仏は、正邪など決めません。全てありのままに、二面性を持つ者すら、一体不二であると見るのです。
娑婆世界のものは、すべて二面性を持っている。
だが、本来の心地(九識)にあっては、一体不二である。そういうことです。
先生も、この「即」や「不二」という感覚を仏法的に理解するのは、非常に難しい、そう仰っています。
まあ、私がさんざんここで言ってきた言葉でいえば、
「善悪一如」がそれですね。
これが生命で感じられると、境涯は一気に開ける。
私はそう確信しています。
これを生命で感じると、「正しい」とか「正しくない」とか、
そんなことは枝葉でしかないと思えるのです。
だから、まずもって人と争うにしても、ただの喧嘩で終わることはないのです。
まあ、今、私の心にあるものを、ここに表現することは不可能です。
ですから、私の今している喧嘩は、ただの喧嘩でも何でもないのです。
善悪を超克できる自分になるための、ステップ、そういうことになるでしょうか。
ちなみに、私の説明じゃわかんねー!
という方は、ここに、なかなか良い資料がありますので、一読してみてください。
要点は、「三大秘法の御本尊を信じて、わが身が即、仏であると定めて、純真に信心に励む心、清純な心で不幸な人を救おうとする信心の心、それを九識心王真如の都というのです。」の部分でしょう。
自分を信じるだけじゃ不十分。
そのうえで、不幸な人(不信にまみれている衆生)に、現実のうえで、言論や行動をもって、関わっていく。
そういうことですよね。
もちろん、そこで一番重要なのが、「人の振るまい」なことは、言うまでもないことでしょう。
相手を敬う、不軽菩薩としての振る舞いですね。
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コメント一覧
1. Posted by あべひ 2013年10月22日 18:25
では説明させていただきます。
はた京阪さんが公開された記事よりも後にイプシロンさんの、
「働かざるもの食うべからずだと?なめてんのか」
が公開されましたよね。
はた京阪さんが「働かざる者・・」をどのように書かれたのかは削除もされずに原本が公開されたままです。
あえてその記事へのリンクは貼りませんが、
問題はその記事を受けてイプシロンさんが
「なめてんのか」と表現したのか、がポイントになっているのです。
はた京阪さんの話しを要約すると、その部分・・
つまり京阪さんのブログに対して「なめてんのか」と
記事にされたと憤慨されているわけです。
じゃぁその誤解を解くためには、イプシロンさんの記事の
復元がもっとも手っ取り早いと思います。
「働かざるもの食うべからずだと?なめてんのか」を私も全文拝見していないので、判断ができかねるからです。
復元できないとイプシロンさんが拒む理由が解りません。
このままでは、イプシロンさんが仕掛けた事を隠そうとしていると思われても仕方がありませんよ。
貴殿に非がいっさいない事を客観的に証明するためにも
「働かざるもの食うべからずだと?なめてんのか」を公開して、はた京阪さんのほうが言いがかりをつけているのかどうかを皆さんに判断してもらうのが一番手っ取り早いと思います。
はた京阪さんが公開された記事よりも後にイプシロンさんの、
「働かざるもの食うべからずだと?なめてんのか」
が公開されましたよね。
はた京阪さんが「働かざる者・・」をどのように書かれたのかは削除もされずに原本が公開されたままです。
あえてその記事へのリンクは貼りませんが、
問題はその記事を受けてイプシロンさんが
「なめてんのか」と表現したのか、がポイントになっているのです。
はた京阪さんの話しを要約すると、その部分・・
つまり京阪さんのブログに対して「なめてんのか」と
記事にされたと憤慨されているわけです。
じゃぁその誤解を解くためには、イプシロンさんの記事の
復元がもっとも手っ取り早いと思います。
「働かざるもの食うべからずだと?なめてんのか」を私も全文拝見していないので、判断ができかねるからです。
復元できないとイプシロンさんが拒む理由が解りません。
このままでは、イプシロンさんが仕掛けた事を隠そうとしていると思われても仕方がありませんよ。
貴殿に非がいっさいない事を客観的に証明するためにも
「働かざるもの食うべからずだと?なめてんのか」を公開して、はた京阪さんのほうが言いがかりをつけているのかどうかを皆さんに判断してもらうのが一番手っ取り早いと思います。
2. Posted by イプシロン 2013年10月22日 18:42
あびへさん、
どうしようもない、勘違いをされているようですね。
私の削除した記事「働かざる者、食うべからずだと? なめてんのか」を公開し、削除したあとに、
はたさんが、「問題の記事」を書いて公開しているのです。
そんなことは、はたさんの公開した「問題の記事」を読むだけでもハッキリ明確にわかることです。
私の削除した記事を見たあと、
はたさんが「問題の記事」を書かれたことは、十分に、はたさんの記事からでも判断できることです。
もしも、私の書いた「働かざる者、食うべからずだと? なめてんのか」という記事で、はたさんのHNを名指ししているなら、問題になりますが、あれは一般論であり、誰かに宛てて書いたものではありません。
百歩譲って、特定の誰かに訴えかけたとしたら、
それはアンチの粘着某に対してであることも、はたさんの記事からも明確です。
その不特定多数への発信を読んで、もしもはたさんが、侮辱されたと思い、私を名指しで批判したとしたら、
それは、縁に紛動されて、自分の中の不平不満を私にぶつけてきたということになりませんか? あるいは親切心から、軽く説教(指導)してやるか、そう考えたのではないですか?
たとえそうでなくとも、世法で考えても、それは理不尽です。
不特定多数向けの記事に被害妄想を抱いて、
自分に向けて言って来たのかと受取ったとしたなら、
それこそ私にしたら、いい迷惑です。
そもそも、あべひさん、
あなたの時系列に関する記憶は、滅茶苦茶すぎます。
事実の認識があまりにも不十分です。
おかしな言いがかりをつけるられるのは非常に迷惑です。
(つづきます)
どうしようもない、勘違いをされているようですね。
私の削除した記事「働かざる者、食うべからずだと? なめてんのか」を公開し、削除したあとに、
はたさんが、「問題の記事」を書いて公開しているのです。
そんなことは、はたさんの公開した「問題の記事」を読むだけでもハッキリ明確にわかることです。
私の削除した記事を見たあと、
はたさんが「問題の記事」を書かれたことは、十分に、はたさんの記事からでも判断できることです。
もしも、私の書いた「働かざる者、食うべからずだと? なめてんのか」という記事で、はたさんのHNを名指ししているなら、問題になりますが、あれは一般論であり、誰かに宛てて書いたものではありません。
百歩譲って、特定の誰かに訴えかけたとしたら、
それはアンチの粘着某に対してであることも、はたさんの記事からも明確です。
その不特定多数への発信を読んで、もしもはたさんが、侮辱されたと思い、私を名指しで批判したとしたら、
それは、縁に紛動されて、自分の中の不平不満を私にぶつけてきたということになりませんか? あるいは親切心から、軽く説教(指導)してやるか、そう考えたのではないですか?
たとえそうでなくとも、世法で考えても、それは理不尽です。
不特定多数向けの記事に被害妄想を抱いて、
自分に向けて言って来たのかと受取ったとしたなら、
それこそ私にしたら、いい迷惑です。
そもそも、あべひさん、
あなたの時系列に関する記憶は、滅茶苦茶すぎます。
事実の認識があまりにも不十分です。
おかしな言いがかりをつけるられるのは非常に迷惑です。
(つづきます)
3. Posted by イプシロン 2013年10月22日 18:44
もしそれでも、あなたの主張が事実であると仰るなら、
全て日付を明確にして説明してください。
でないと、なんの客観的証拠にもなりませんからね。
ここは娑婆世界です。
時間のある世界です、どちらが先にいった、どちらが先に記事を公表した。
そういうものは、明確にできる証拠であり、事実ですからね。
あなたの記憶だけをたよりに、物事を語るべきではありません。
大変に失礼な言い方ですが、しょせん、部外者の記憶など、
この程度である。
はからずも、そういうことを証明してくださった、あべひさんに、
ある意味、感謝申し上げますよ。
いや、真面目に、ありがとうございます、です。
いやこれ、本気で感謝してますからね。お世辞なんかじゃないですよ。
追記。
これ以上の議論は面倒なので、事実をはっきりさせておきます。
以下、ブログ村のキャッシュをコピーしたものです。
働かざるもの食うべからず、だと!? なめてんのか! イプシロン
働かざるもの食うべからず」?? こういうことを平気な顔をして言う人間が私は大嫌いだ。 じゃ、働いてないものは生きてる価値なしですか? 面白い理論ですね。生命それ自体が尊いんじゃないんですか。 まあ仕方ない。世間は...
生かされるまま生きる イプシロンさんをお気に入りに追加する2013年08月28日 11時32分
これで、あべひさんの仰っていることが勘違いだと証明できます。
はたさんが「問題の記事」を書いたのは、2013年08月31日なのは明確です。
きちんと調べてからコメントしてください。
全て日付を明確にして説明してください。
でないと、なんの客観的証拠にもなりませんからね。
ここは娑婆世界です。
時間のある世界です、どちらが先にいった、どちらが先に記事を公表した。
そういうものは、明確にできる証拠であり、事実ですからね。
あなたの記憶だけをたよりに、物事を語るべきではありません。
大変に失礼な言い方ですが、しょせん、部外者の記憶など、
この程度である。
はからずも、そういうことを証明してくださった、あべひさんに、
ある意味、感謝申し上げますよ。
いや、真面目に、ありがとうございます、です。
いやこれ、本気で感謝してますからね。お世辞なんかじゃないですよ。
追記。
これ以上の議論は面倒なので、事実をはっきりさせておきます。
以下、ブログ村のキャッシュをコピーしたものです。
働かざるもの食うべからず、だと!? なめてんのか! イプシロン
働かざるもの食うべからず」?? こういうことを平気な顔をして言う人間が私は大嫌いだ。 じゃ、働いてないものは生きてる価値なしですか? 面白い理論ですね。生命それ自体が尊いんじゃないんですか。 まあ仕方ない。世間は...
生かされるまま生きる イプシロンさんをお気に入りに追加する2013年08月28日 11時32分
これで、あべひさんの仰っていることが勘違いだと証明できます。
はたさんが「問題の記事」を書いたのは、2013年08月31日なのは明確です。
きちんと調べてからコメントしてください。
4. Posted by あべひ 2013年10月23日 10:07
なるほど。イプシロンさんの御主張は賜りました。
※そんなことは、はたさんの公開した「問題の記事」を読むだけでもハッキリ明確にわかることです。
いいえ。すくなくとも私には分かりませんでしたので
お聞きしてみたのです。
イプシロンさんは記事では大げさな表現を多用されますが、コメントに対してはものすごく丁寧に返答されますね。
私の実感ですが、表の記事よりもむしろコメント対応の
ほうがイプシロンさんらしいと思えてなりません。
さて、
「働かざるもの喰うべからずだと!?」の記事が
はた京阪さんの記事よりも前で一般論にすぎない
とするのであれば、なおさら「消した」理由がよく解りません。
もちろん、私は訳あって働いていない人に対して
「働かざるもの・・」を主張する人はみみっちい自尊心のなせるわざだと考えています。
※そんなことは、はたさんの公開した「問題の記事」を読むだけでもハッキリ明確にわかることです。
いいえ。すくなくとも私には分かりませんでしたので
お聞きしてみたのです。
イプシロンさんは記事では大げさな表現を多用されますが、コメントに対してはものすごく丁寧に返答されますね。
私の実感ですが、表の記事よりもむしろコメント対応の
ほうがイプシロンさんらしいと思えてなりません。
さて、
「働かざるもの喰うべからずだと!?」の記事が
はた京阪さんの記事よりも前で一般論にすぎない
とするのであれば、なおさら「消した」理由がよく解りません。
もちろん、私は訳あって働いていない人に対して
「働かざるもの・・」を主張する人はみみっちい自尊心のなせるわざだと考えています。