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現代文明学研究:第4号(2001):297-310
ミニスカートの文化記号学
―<男力主義>による男性の差別化と抑圧―
沼崎一郎



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はじめに

 ミニスカートが日本に初めて登場したのは、1965年のことだと言う。前年にクレージュがパリコレでミニスカートを採用したのを受けて、国産アパレルメーカーが生産を開始したのだそうだ。1967年には、ファッションモデルのツイッギーがミニスカートで来日、これが第一次ミニスカートブームを巻き起こしたと、歴史の本は教えてくれる。
 しかし、当時小学生だった私にミニスカートを印象付けてくれたのは、永井豪の『ハレンチ学園』だった。1968年に少年ジャンプに連載が開始されたこのマンガは、スカートめくり流行のきっかけともなった。私を含め、性の知識などほとんどなかった少年たちは、スカートめくりとともに、ミニスカートと白いパンティが女性の秘密に関する一連の記号であることを、しっかりと脳裏に刻み込んだ。上野千鶴子流に言うなら、永井豪は、性に目覚め始めた男の子たちを「スカートの下の劇場」へと招き入れたのである。
 もうひとつ、当時のミニスカートブームについて忘れられない思い出がある。どこのテレビ局かは記憶にないが、あるクイズ番組にミニスカートのアシスタントが登場したことがあった。アシスタントと言っても、何人かの回答者の横にただ立っているだけである。その役割は何かと言うと、回答者が間違えるたびに、スカートの裾を少しずつ切り取られるというものだ。膝上あたりから、スカートが何段か輪切りになっていて、不正解の回答者が、ニヤニヤしながら、輪を外すという趣向だった。今にして思えば、恐ろしいセクハラ番組だが、小学生の私はハラハラドキドキしながら見ていた。ところが、一人だけ全く正解しない老年男性の回答者がいて、その隣りのお姉さんだけ、どんどん輪が外されていった。もちろん、全部外れてもパンティが見えるわけではない。それでも、彼女が気にして精一杯裾を伸ばす姿を見て、痛々しいなあ、可愛そうだなあと思った。
 このような原体験を持つ私にとって、ミニスカートは常に両義的である。それは、女性の秘密へと私を誘い惑わす記号であると同時に、女性の羞恥や当惑を私に思い知らせる記号でもある。それは、女性/女体へと私を引き付ける記号であると同時に、女性/女体へと私が近づくことを躊躇させる記号でもある。私は、ミニスカートを前にして、欲情しそうになりながら、欲情することをためらう。
 そんな私は、森岡正博の「なぜ私はミニスカに欲情するのか」(森岡2000)という論考に、共感と同時に違和感を覚えた。以下、本稿では、私と森岡正博との意識のズレにこだわりつつ、ミニスカートとは男にとって何なのか、そしてまたミニスカートから男について何が分かるのかを検討していきたい。まずは森岡正博の「ミニスカ論」を追ってみよう。

森岡正博「ミニスカ論」の展開

 森岡は、ふたつの「印象的な体験」からミニスカの現象学的考察を開始する(1)。ひとつは、女装クラブの男性のボディコン・ミニスカに「思わず」欲情したという体験である。もうひとつは、電車の中の女性のミニスカが実はキュロットだったと気付いて欲情が「一気に冷め」たという体験である。このふたつから、森岡は、自分の欲情の「核心部分」には「意味付与作用」があるらしいと結論する。生物学的な男性であっても、あるいはキュロットの女性でも、森岡自身がミニスカとそれに連なる意味体系を付与することができれば、それは欲情装置となるからだ。平たく言えば、女体という刺激物に単純に反応しているのではなく、<一人で勝手な想像をしてその気になっている>というわけである。
 それでは、ミニスカとそれに連なる意味体系とは、森岡にとってはどういうものなのか。テニスウエアやロングスカートとの比較を通して、森岡は次のように述べる(2)。
 

ミニスカのポイントは、スカートの丈が短いというところにだけあるのではない。ミニスカは、ミニスカの下に隠されているはずの何物かと相関関係にある装置なのだ。すなわちミニスカは、その下にあるパンツとセットになって、暗黙知の次元で捉えられている。(p.373)

見えないように裾を下げようとするにもかかわらず、自然に上がってきてスカートの中身が見えそうになる。何物かを隠そうとする意志と、それに逆らって真理を暴こうとする運動。その緊張溢れるダイナミズムに知覚弓となって参与する第三者としての私。この三者関係のただ中にこそ、ミニスカへと欲情を固着させるオートポイエーシス装置が構造化されているのである。(p.373)


 要するに、<見せてくれそうで見せてくれないところ、見えそうで見えないところがいいんだなあ>というわけだ。しかも、隠そうとするのに、見えそうになるし、見えそうになるのを承知で、見えそうになる程度に隠している。そこのところに、<そそられる>ということだろうか。
 しかし、本当に隠したいのか、本当は見せたいのか。森岡は、隠してくれなければ味気ないと告白する。
 

私の欲情装置からすれば、ミニスカの中身は白いパンツに限る。私のセクシュアリティから言えば、女性器は「包まれていなければならない」のである。その向こうに何があるのかわからないように、白い布によっておごそかに包まれていなければならない。(p.374)

「包まれている姿それ自体がいまにも見えそうになっている」というのがここでの核心なのである。この図式のうえに、隠そうとする意志と、暴こうとする運動、それに参与しようとする私の知覚弓の三者が構造化される。それが、私の欲情装置のトリガーとなり、私を性的な身体へと変容させていくのである。(p.374)

いま見えていないからこそ欲情するという構造。言い換えれば、私が何物かから遠ざけられているがゆえに、私はその何物かに対して欲情するという構造があるのだ。(p.374)


 一言で言えば、<隠して焦らす貴女がニクイ>のである。
 それでは、女性は何を隠して焦らしているのか。「女装」の男性のミニスカにも欲情するとうことから、それは生物学的な女性器ではないと森岡は主張する。ここでも、物自体ではなく意味が、森岡にとっては鍵となる。「女」を「装う」というコミュニケーション行為が、森岡に何かを与え、森岡の中の何かを動かすのである。
 それは、フェミニズムが指弾するように、女性に対する男性の優位感覚や支配感覚なのか。そうではないと森岡は言う。
 

私の欲情装置は、私がそこから決定的に遠ざけられているところの何物かを包むものの姿を、一方において露出させ、他方において無理やり隠すというダイナミズムを見せつけられたときに、自動的に発動する。その欲情の発動は、その何物かに手を伸ばしてその実態を暴こうとする「身体の構え」として具現化される。しかしながら、その何物かの実態がけっして露わになってはならないという快楽の知が刻印されているのであり、ここにおいて身体と精神の相克のダイナミズムが立ち上がる。(p.375)

女性のミニスカは、「女性の身体=快楽」という通俗的連想回路によって、男の快楽刺激を発動させるための、単なるトリガーとして利用されたにすぎないのかもしれない。だとすれば、ミニスカへの欲情とは、それを履いている女性自身とはまったく無関係な、男の頭の中の自閉回路であることになる。(p.375)

男たちはミニスカのイメージを無限に反芻しながら、果てしのない麻薬物質の海の中へと窒息死させられていくほかはないのである。(p.375)


 確かに、男は、己が欲望のために、女体の神秘を暴こうと「構え」る。それは、女性に対して優位な位置に立ち、女性の身体を支配しようとする態度である。そこまでは、フェミニズムの指摘は正しい。しかし、森岡は動かない。痴漢にも強姦魔にもならないのだ。そういう意味で、森岡は優位と支配を現実に手にしようとはしない。むしろ、そうすることは、少なくとも彼のような男にとっては、欲情を冷ますだけである。
 もしも森岡がミニスカ女性を<所有>するとすれば、それはあくまでも彼の頭の中でだけだ。ミニスカに隠された女体の神秘を<思念する>ことが、森岡にとっては所有行為なのである。ミニスカは、「高次の存在に出会うための宗教的な通路」であるとさえ森岡は言う。
 これもまた「女を道具として利用している」ことだと森岡は認める。しかし、「生身の女は実は必要ですらない」のだと森岡は強調する。<実用のための女体>を支配することが重要なのではなく、いわば<情報としての女体>があれば、それでいいのである。女体は記号化され、記号として所有される。現実存在としてのミニスカは、必要な契機ではあるが、それはいわば<理念的マスターベーション>の契機に過ぎないのであって、森岡にとって本当に重要なのは、実は<理念的マスターベーション>行為なのだということにならないだろうか。

森岡正博「ミニスカ論」への不満と疑問

 以上の森岡の考察は、確かに納得できる部分が多い。ミニスカートに<そそられる>かどうかはともかく、私自身を含め、多くの男たちは、女性の服装や身体部位を「快楽刺激を発動するための、単なるトリガー」として利用した経験を持っている。マスターベーションである。実際に射精するマスターベーション行為においては、「トリガー」となるのは、<手の延長>としてのヌード写真やポルノグラフィーだ(沼崎2000)。これは、俗に「おかず」と呼ばれる。主食は射精による直接的な「快楽刺激」だが、それを味わうには道具としての女性/女体のイメージが必要だというわけである。
 森岡の考察は実際の射精行為を伴うマスターベーションの分析ではないが、彼が考察の対象とする経験は、意識の中に留まるとはいえ、自己完結的な「性的刺激の発動」であるという点で、マスターベーションと相同性を有する。彼もまた、一種のマスターベーションを分析しているのである。恥ずかしくて大きな声では言えないが、街中で様々な「トリガー」に接するたびに、私たちは密かに欲情している。それもまた、マスターベーションではないか。それが、森岡の問題意識であろう。これに、私は大いに共感を覚える。
 しかし、共感してばかりもいられない。第一に、森岡の考察は、私の問題意識の半分にしか答えてくれない。それが不満だ。そして第二に、森岡の考察には、看過してはならない沈黙がある。それが疑問だ。
 森岡は、なぜ私がミニスカートにドキドキハラハラするかというメカニズムを、見事に解きほぐしてくれた。しかし、これは最初に述べた私の原体験の半分に過ぎない。もう半分は依然として謎である。なぜ私はクイズ番組のお姉さんに痛々しさを感じたのか、なぜ私は彼女が可愛そうだと思ったのか、その理由は森岡の論考からは得られないのだ。というよりも、ミニスカート姿に痛々しさを感じるという可能性は、森岡の視野には入っていない。もちろん、これは「ないものねだり」である。だから、私は彼を非難するつもりはない。
 だが、森岡の欲情メカニズムには、「隠そうとする意志と、暴こうとする運動、それに参与しようとする私」が不可欠の契機として含まれている。ところが、彼の説明には、「隠そうとする意志」の主体が欠落しており、「暴こうとする運動」は「自然に上がってきてスカートの中身が見えそうになる」と、いわば<自然化>され、「参与しようとする私」は「知覚弓」という純然たる認識主体である。したがって、彼も「隠そうとする意志」には気付いている。ところが、そこを掘り下げることは避けている。ここに、男性権力の隠蔽工作の臭いを嗅ぎ取ろうとするのは、フェミニズムの教条に毒されているからだろうか。
 私の不満の根源は、森岡理論に即して言えば、「隠そうとする意志」の主体であるところの「生身の女」の姿が見えてこないということなのだ。クイズ番組のお姉さんは、必死にスカートの裾を下げようとしていた。「生身」のお姉さんは、確かに痛々しかった。彼女は、そこに存在したのだ。独立した他者として、人間として存在する<はず>の、このお姉さんの痛々しさに、私はこだわってしまうのである。
 誤解されると困るのだが、私が感じ、こだわり続ける<痛々しさ>は、決して同情や憐憫ではない。そうではなくて、<僕だって嫌だなあ>という直接的な痛みの感情である。胸がキュンとなり、私自身が<痛い>のだ。
 この<痛み>は、街中を闊歩するミニスカートの女性たちを見ても感じない。セクシュアリティの自己表現としてのミニスカートであれば、<眩しい>とは感じても<痛い>とは感じない。しかし、深夜番組のアシスタント役で出てくるような、ミニスカを見せる以外には何の機能も果たしていないお飾りアシスタントや、客の好みに合わせて「装う」キャバクラ嬢やファッションヘルス嬢のように、仕事の一環としてミニスカを<着せられている>女性たちを見ると、<本当に好きでやっているのかなあ>という疑問とともに、シクシクとした<痛み>を感じる。「隠そうとする意志」の持ち主に対する<主体性の侵害>が気になるからである。
 次に、森岡の現象学的アプローチは、あくまでも彼の意識の中に立ち現れる限りでのミニスカを記述し分析するものである。彼の哲学的考察は、彼の自我の外に出ることはない。森岡の問う「意味付与作用」は、彼の、彼による、彼のための「意味付与作用」であって、「付与」する主体は森岡正博ただ独りなのだ。だからこそ、ミニスカを契機とした彼の「快楽刺激の発動」は、他者へと向かうことなく、ひたすら「頭の中の自閉回路」を循環する。私が<理念的マスターベーション>と呼ぶ所以である。
 もしかすると、<理念的マスターベーション>について哲学的に語ること自体「高次」の<理念的マスターベーション>すなわち<メタ・マスターベーション>なのかもしれない。それでは、いつまでたっても「自閉回路」から脱出することは不可能であろう。しかし、実は、この「自閉回路」という認識自体が問題なのだ。
 ミニスカートを穿いた女性(あるいは女装の男性)が、ミニスカとして記号化され、森岡の意識の中に取り込まれた瞬間に、森岡自身が告白しているように、「それを履いている女性自身」は「まったく無関係」な存在すなわち非存在と化す。「生身の女」こそが、本来は「隠そうとする意志」の主体であるにもかかわらず、その独立した他者性は掻き消され、人間性は剥ぎ取られて、「生身の女」とミニスカとの関係は切断される。能記としてのミニスカに対応する所記は、もはや「生身の女」ではなく、ミニスカに森岡自身が「付与」したところの「意味」となる。この、男性が想像=創造(捏造?)したところの「意味」すなわち概念による「生身の女」の<置き換え>は、実は<権力作用>なのではないか。
 森岡は、女性/女体の記号化を通して、己が欲情装置としての「自閉回路」を、まさに「自閉」的に構築する<力>を持っている。そして、その<力>を現実に行使することによって、「生身の女」と彼との関係性を、変形させつつ、意識の中に取り込んでいる。
 そして、「生身の女」のほうは、そうされることを拒否できない。特に、仕事としてミニスカを纏う、いや纏わされる女性たちは、まさにそのような<権力的>記号化の客体となるために、ミニスカを身に付けるのではないのか。ミニスカを身に付けるという行為が、ミニスカを履いた自己を消去する行為であるにもかかわらず。こう考えるのもまた、私がフェミニズムに<染能>されたゆえの曲解であろうか。
 要するに、問題はこういうことである。ミニスカを身に纏うという行為が、森岡や私のような男を欲情させる、ある種の「女」を「装う」行為であるとするならば、そこで装われる「女」とは、森岡や私のような欲情する男との関係性において、どのような女であるのか。また、そのような女との間に、森岡や私のような男は、どのような関係性を構築しているのか。そして、もしもミニスカが、単に森岡や私が「付与」する「意味」だけでなく、ある種の男性セクシュアリティを含意する記号であるならば、それは、どのような男性セクシュアリティなのか。
 「隠そうとする意志」の主体は、「生身の女」という人間存在である。「暴こうとする運動」は、自然な運動ではなく、「参与しようとする私」の<権力作用>である。そして、「参与しようする私」は、けっして純然たる「知覚弓」ではなく、恣意的に女性/女体を記号化する<力>を持った、社会的存在としての男である。
 以下、本稿では、「生身の女」と<この私>との社会的な関係性を真正面から見詰めつつ、ミニスカという記号について、批判的な再検討を試みよう。

換喩としてのミニスカ

 主体的な他者である「生身の女」を想起するならば、<この私>の「意味付与作用」以前の問題として、まずは「生身の女」とミニスカとの関係性を考えなければならない。
 既に述べたように、能動的なセクシュアリティの表出としてのミニスカの着用もあれば、受動的なセクシュアリティの演出としてのミニスカの着用もある。しかし、いずれの場合も、ミニスカは、それを着用する個が<どのような女>であるかの記号となる。女性の全体性を、服装の一部に過ぎないミニスカが表象するのである。すなわち、ミニスカは換喩なのだ。それでは、換喩としてのミニスカは、どのような女を表象しているのだろうか。
 森岡の分析を参考に検討を進めよう。ミニスカが表象するのは、「隠そうとする意志」を持ち、「見えないように裾を下げようとする」のだが、そのような意志と行為「にもかかわらず」、歩いたり、立ったり、座ったり、足を組んだり、足を組替えたりといった普通の動きのなかで、「自然に上がって」くるスカートの「暴こうとする運動」に抗しきれず、彼女自身の「中身が見えそうになる」ような存在である。そして、「暴こうとする運動」とは、実は「自然」なものではなく、<この私>の視線であることを思い出すなら、彼女は、<この私>の現前で、<この私>に対して、その身体を開かれ得る女性ということになる。
 既に開かれているのではない。常に開かれているのでもない。しかも、「白い布によっておごそかに包まれ」かつ「包まれている姿それ自体がいまにも見えそうになっている」という、可能態としての性的身体。<この私>の働きかけ次第では開かれる可能性を秘め、開かれそうになりながら必死に抵抗している性的身体。これが、ミニスカの換喩する女性ではないだろうか。
 しかも、彼女は、自ら「トリガー」と化して、いまだ欲情していない<この私>に「快楽刺激を発動」させようと挑発しているのではないのか。そして、彼女は、<この私>が欲情して彼女に直接働きかけるならば、性的に応えようとしているのではないのか。彼女は、一見「自然」な「運動」によって開かれそうになるだけに、あたかも<この私>の働きかけを招いているかのような見える。
 ここで、ミニスカが換喩する性的身体はあくまでも<可能態>であるという側面に注意を喚起したい。それは、開かれ得る女性ではあるが、いつでも開かれているとか、誰に対しても開かれているというわけではない。「隠そうとする意志」の主体である「生身の女」は、開かない選択肢も持ち合わせている。この点は重要である。
 もちろん、痴漢やレイピストのように、女性の主体性を暴力的に侵害する男もいるので、女性が必ず<開かない選択>が可能であるとは言えないだろう。むしろ、そのような暴力的な侵犯の可能性を利用することで、レイピストではない男たちさえ、女性に対する強制力を行使し得るのが、現代の性差別社会である。それは、フェミニズムが一貫して指摘してきた通りだろう。
 しかしながら、森岡や私のような「知覚弓」タイプは、女性の<開かない選択>を尊重したいと考えている。だから、ミニスカの換喩する女性が<可能態としての性的身体>であるとしても、森岡が正しく主張しているように、ただそれだけで、それが男性の優位と支配に直結するとは断言できない。社会全体としてはともかく、個々の男にとっては、ミニスカートを纏う女性を開かせ得ない可能性と現実があるのであって、<この私>が、ある特定の「生身の女」に対して、優位を確保し、その女性を支配できるかどうかは、<この私>が男であるというだけで保証されるものではないのである。
 だが、ミニスカートを纏う女は、本当に<この私>の働きかけを招いているのか。この問題については、後に改めて考えることとする。ここでは、とりあえず、ミニスカが換喩するのは<可能態>としての性的身体であるということを確認すれば、それでよい。

陰喩としてのミニスカ

 <可能態>としての性的身体を<現実態>に変えるものは何だろうか。結論的に言えば、それは、「隠そうとする意志」の主体である女性に、「隠そうとする意志」を捨てさせ、己が身を開こうと意志させる、男性主体の<力>である。少なくとも、多くの男が、そう信じているのではないかと、私は考えている。
 もちろん、対等で自由な性関係においては、男の側も、自己のセクシュアリティを表出させるべく「装い」を凝らし、自らも<可能態>としての性的身体を曝け出して、それを女性に「知覚」してもらおうとするのであろう。そして、お互いに、相手の中に、自分が欲するところの<可能態>としての性的身体を見出したならば、その時は、そしてその時のみ、性的関係を取り結ぶことによって、お互いに<可能態>から<現実態>へと身体の性的変容を遂げるのであろう。
 しかしながら、たとえばミニスカートを履いた女性と背広を着た姿の男性との関係を考えるならば、そのような互酬性が働いていないことは明らかであろう。ミニスカに欲情する森岡が、どのような服装で、どのような姿態で、自らのセクシュアリティを表現しているのか、私は知らない。しかし、同年の大学教員という立場から想像するならば、職業上の要請もあって、通常はセクシュアリティの表出を抑えているはずである。もちろん、外見的には男だろうが、それだけでは、どのような男か、まして、どのようなセクシュアリティを持った男かは不明である。ところが、教室の中の女子学生が、もしもミニスカートを纏っていたとしたら、記号化作用が働いて(より正確には、森岡や私のような男性教師が「意味付与作用」を行うことでミニスカートの女子学生を記号化することによって)、彼女は、学生という非性的存在ではなくなり、<可能態>としての性的身体を教室でも曝け出すのである。一方、森岡や私の服装は、おそらく我々のセクシュアリティを換喩することはないから、女子学生が「意味付与作用」を行ったとしても、それによって森岡や私のセクシュアリティが暴かれることはない。おそらく、彼女の意識の中でも我々は教師という社会的存在に止まる。せいぜいオヤジを曝け出すくらいだろうか。そして、言うまでもなく、オヤジは性的存在からは程遠い。ここに、ミニスカ女性と多くの男性との間に存在する性的非対称を見ることができる。
 フェミニズムが正しく指摘するように、男性は職業を持った社会的存在として認知されながら、女性だけは、特に若い女性は、その社会性を超えて、常に性的存在としてのみ「知覚」されるという不平等が、ここに如実に現れている。しかし、ここで思考を停止してはならない。フェミニズムの指摘が正しいことを私は承認するが、フェミニズムがいまだに解明していない問題が、それどころか、フェミニストは問いかけようとさえしていない問題が存在することを、私は認識しているからである。
 それは、ミニスカが、<可能態>としての性的身体を換喩するだけでなく、そのような<可能態>を<現実態>へと変容させる<力のある男性セクシュアリティ>を隠喩しているのではないかという問題だ。この点について、詳しく検討してみたい。
 既に述べたように、ミニスカが換喩する性的身体はあくまでも<可能態>である。それは、開かれ得る女性ではあるが、いつでも開かれているとか、誰に対しても開かれているというわけではない。「隠そうとする意志」の主体である「生身の女」は、<開かない選択肢>も持ち合わせているのである。
 それでは、どのような男性なら、「隠そうとする意志」の主体である「生身の女」に、<自らの性的身体を開く>という主体的な行為を選択させることができるのであろうか。平たく言えば、ミニスカートの女性がキャーッと寄って来る男とは、どんな奴だろうか。
 一言で言えば、それは<男らしい男>である。<男っぽい男>と言ってもいい。露骨に言えば、<抱かれたい男>だ。女性週刊誌を開けば、<抱かれたい男>のランキングがある。テレビには、<抱かれたい男>の代表みたいな男性タレントが多数登場する。たとえば、ステージの上で胸をはだけて歌い踊るジャニース風の男の子たちを、観客席の女のこたちはキャーキャーと迎える。いささか古風だが、「○○クン結婚してぇ」という歓声も聞こえる。結婚すれば、当然セックスもするだろう。それどころか、独占的にセックスしたいということではないか。
 <可能態>としての性的身体を持つ女性が好み、選ぶ男性は限られている。男性の目から見れば全てのミニスカが<可能態>としての性的身体を意味するのに対して、ミニスカ女性から見ると全ての男性が<可能態>としての性的身体を意味することはないのだ。特定の男性だけが、真に<男らしい男>だけが、いかにも<男っぽい男>だけが、<抱かれたい男>なのであり、そのような選ばれた男性のみが、<可能態>としての性的身体を<現実態>へと変える<力>を持つのである。言い換えると、そのような<力>を持つ男だけが、<本当の男>であり、そのような<力>に欠ける男は、不完全な男性性、不十分な男性セクシュアリティの持ち主という烙印を押されてしまうのである。
 これはどういうことか。簡単に言えば、ミニスカは<モテル男>の隠喩であり、<モテル男>を意味する記号であるということだ。同時に、それは、ミニスカが<モテナイ男>の欠如の記号になるということでもある。<モテナイ男>を意味しないことによって、<モテナイ男>を男から排除するのだ。すなわち、ミニスカは、<女性を現実態としての性的身体へと変える力を持つ男>というカテゴリーの能記であることによって、その外に、<女性を現実態としての性的身体へと変える力を持たない男>というカテゴリーを創出するのである。
 ミニスカートは、一方的に男性によって「意味」を「付与」される対象ではない。確かに、森岡が明らかにしたように、「自閉的」な男性の意識のなかにあっては、男性の一方的な「意味付与作」用の対象となり、<理念的なマスターベーション>の道具となることもあるだろう。しかし、現実の社会関係に目を転じ、「生身の女」と<この私>との関係を直視するならば、ミニスカが、男性を差別化する記号として、<この私>の男性性(の欠如?)を逆照射することに気付かざるを得ないのである。
 なぜならば、<この私>は、自らの主体的な「意味付与作用」によってミニスカートに欲情しつつ、同時に、そのミニスカートを纏った「生身の女」が決して<この私>を選びはしないだろうということ、すなわち<この私>には<女性を現実態としての性的身体へと変える力>が欠けているということをも明確に「知覚」するからである。
 その時に<この私>が味わう敗北感は、しかし女性に対するものではない。それは、<力ある男>に対する敗北感である。<選ばない女>が私を苦しめるのではなく、<選ばれる男>が私を惨めにする。女性が私を差別し排除しているようでいて、その実<男らしい男>が私を差別し排除しているのである。
 もちろん、私は<男らしい男>になるべく努力することもできるだろう。いや、ミニスカートの氾濫は、そのように努力しろという社会的プレッシャーとなって私を襲う。おそらく、私だけでなく、多くの男たちが、そのようなプレッシャーによって<男を磨く>競争へと駆りたてられる。<男らしい男>になるために、<抱かれたい男>になるために、ひたすら頑張るわけである。
 しかしながら、<選ばれる男>は少数であり、<選ばれない男>のほうが多いのも、また事実であろう。自分が<選ばれない>という事実に直面して、多くの男たちが思い悩むこととなる。その弊害については、最後に考えることとする。その前に、ミニスカが隠喩する男性性について、もう少し考察を深めよう。

支配的な男性セクシュアリティとしての<男力主義>の構築

 隠喩としてのミニスカは、<力ある男性>と<力なき男性>という区別を産み出し、<力ある男性>を意味することによって、意味されない<力なき男性>を<力ある男性>の劣位に置く。<モテル男>と<モテナイ男>との差別化が行われるということが、明らかになったと思う。繰り返すが、<モテル男>とは、「生身の女」の「隠そうとする意志」を克服し、彼女が自ら<身体を開く>ように仕向ける<力>を持つ男だということがポイントである。そして、そのように女を変える力を持つ<モテル男>こそが、<真の男>だということになる。
 この<力>は、強引に女性の身体へ侵入することを可能にするものではない。そうでなくて、「生身の女」が、「隠そうとする意志」を喪失し、自ら進んで裸身を晒し、男を受け入れざるをえなくさせる、そういう<力>である。女性に、<この男になら抱かれてもいい>いや<この男にこそ抱かれたい>と<思わせる>ことができる、いわばマインド・コントロールの<力>である。普通は「男の魅力」とでも言うのだろうが、それでは、この<力>の社会的・政治的意義が曖昧となる。
 たとえば、「男の魅力」と言うと、美貌やスタイルの良さといった「女の魅力」と同等の身体的特徴のように思えてしまう。しかし、女性の美貌やスタイルの良さは、ミニスカ同様、<可能態>としての性的身体の換喩であって、いわば単なる記号である。それは、男に、自ら服従しようと<思わせる>ような<力>ではない。むしろ、男に征服心を起こさせる、支配の対象でしかない。女性が、男性をマインド・コントロールしうる<力>を持つ可能性は、現状ではほとんどない。もちろん、男を惑わす「魔性の女」といった言説はあるが、「魔性」は<女らしい女>の特性とは見なされない。逆に、<男らしい男>が、女性を意のままに操ったとしても、それで「魔性の男」と呼ばれることはない。
 性差別的な体制にあっては、女性は支配の客体であるから、男性を意のままに操ることは期待されないし、ありえない。あったとしても、許されない。それが「魔性の女」言説の暗黙の前提である。一方、男性は、女性を意のままに操ることが期待され、当然とされている。しかも、女性の身体を支配する物理的な威力だけではなく、それ以上に、女性の意志を支配する精神的な威力が、男性には期待されている。女性をマインド・コントロールできる男が、<真の男>なのだ。
 そこで、このようなマインド・コントロールの<力>を<男力>と名付けよう。そして、<男力>を持つ男こそが<男らしい男>だとするイデオロギーを<男力主義>と呼ぼう。
 このように一見奇妙な命名を行う理由は、ふたつある。ひとつは、いわゆる「性的弱者論」との違いを強調するためである。もうひとつは、「男権」と「男権主義」との差異を明確にするためである。
 いわゆる「性的弱者論」は、性的魅力やコミュニケーション・スキルなどの資源に欠け、そのために性的パートナーを獲得できない男の存在を「性的弱者」として、そのような資源を豊かに持ち、それゆえ「女に不自由しない男」である「性的強者」に対置した。このように、「性的弱者論」もまた、<モテナイ男>と<モテル男>の差異を問題とするのだが、そこで問われているのは、単なる資源の多寡である。それも、性の自由市場における交換財としての性的資源の多寡が論じられているに過ぎない。したがって、そこで想定されている男女関係は、単なる資源の交換関係である。資源に欠けて交換が成立しにくいか、それとも資源に恵まれて交換が成立しやすいかという違いはあるが、一方の性が他方の性を支配するかどうかという権力関係は問題にされてはない。「性的強者」は必ずしも「性的支配者」ではないわけだ。
 これに対して、私の言う<男力>とは、単なる交換財ではなく、支配力である。<男力>のある男性と、それに惹かれる女性との間には、支配従属関係が構築されると、私は考える。しかも、それは、暴力的な強制による支配ではなく、主体的・積極的な服従を導く支配である。<男力>のある男には、女は喜んで従うのだ。逆に言うなら、女が喜んで従うような男、女に喜んで従いたいと<思わせる>男が、<男力>のある男だ。そこで成立する性関係は、一見レイプではなく、あくまでも「合意の関係」であり、表面的には平等で自由な性の交換関係に見えるのだが、その実は一方の性が他方を支配する権力関係なのである。
 このように性的な権力関係を問題にする点で、私の議論は、いわゆる「男権」批判、「男権主義」批判と軌を一にする。しかし、フェミニズムの男性性批判、また杉田聡(1999)のような親フェミニスト男性による「男権」批判、「男権主義」批判だけでは男性性の問題、特に男性にとっての男性性の問題は解明できないと思うのだ。
 杉田(1999)は、女性を支配し従属させ、時には暴力的に征服することを性的で官能的(erotic)な男女間の関係と見なす性的「構え」を「男権主義的セクシュアリティ」と呼び、批判する。杉田によれば、「男権」とは、女性を支配し従属させることを当然とする男性の特権である。例えば、夫婦・恋人といった関係において、女性の意志や欲求を問うことなく、男性に性的サービスを要求する特権を与え、性的暴力をも正当かつ正常な性関係と認めるとすれば、それは「男権」の社会的承認に他ならない。
 もしも、<この私>が、単に主観的な意味付与作用によってミニスカに欲情するに止まらず、そのように欲情させた「生身の女」を暴力的に征服するという行為すなわちレイプに及ぶとしたら、それは「男権」の行使であり、<この私>は「男権主義的セクシュアリティ」の持ち主ということになる。実際そのようなレイピストが存在し、また欲情させる女にこそ責任があるとばかりに、そのようなレイピストを黙認する社会体制が存在することを、私たちは知っているから、「男権」と「男権主義」の批判は重要な課題である。
 しかしながら、森岡も私も、レイピストではないし、おそらくレイピストにはなれない非男権主義的男性である。私たちが「男権主義」の恩恵に浴していないというつもりはない。そうではないが、<この私>は、「男権」が嫌いであり、「男権」を行使したいという欲求はない。なぜならば、「男権主義」的征服によって、女性を従属させることは可能かもしれないが、それが不本意な従属であるならば、私の征服欲は充足されないからである。
 心から喜び、自ら進んで性的に服従して欲しいという欲求が、私にはある。おそらく、多くの男性も、同じ欲求を持っている。それは、女性が自ら屈服し、男の意のままになりたいと思うようになることが、<男力>の証明には必要だからだ。女性が主体的に<この私>を選ぶことによって、しかもそのことを社会的に公表することによって、<この私>にも<男力>が備わっているということを他の男性に対して証明する必要があるのだ。
 <俺の女>を開示すること、多くの「生身の女」が<俺の女>になりたいと思っており、実際に多くの「生身の女」が<俺の女>になっているということを開示すること、それが「男力」の証明には必要なのである。ミニスカートを履いた女性たちが、キャーッと<この私>に寄って来ることを、他の男性に見せつけなければならない。そうすることによって初めて、<この私>が<真の男>であることが、社会的に証明されるのだから。
 すると、<俺の女>になることを<選ぶ>女性がいないということは、あるいはとても少ないということは、<この私>が<真の男>ではないということを証明してしまう。しかも、<この私>に寄って来るのは、ミニスカートを履いたような、<可能態>としての性的身体を晒す女たち、すなわち<力ある男>を隠喩する女たちでなければならない。なぜなら、ミニスカのように、<可能態>としての性的身体を換喩する記号のみが、<力ある男>という<真の男>の記号として社会的に機能するからである。
 「男権」とは、ある意味では<男力>の対極にあり、その代用品でしかない。<男力>があれば、「男権」を振りかざさなくても、女は「隠そうとする意志」を失い、自ら身体を開いてくれる。無理に押し入る必要はなく、喜んで受け入れてくれるのだ。それは、「男権」以上の<力>である。
 さらに、「男権主義」社会にあっては、「男権」は全ての男に保障されている。ポルノグラフィーはタダで、あるいはタダ同然で手に入る。ポルノグラフィーという形で、女性の性的身体を<道具化>することは、いともたやすいことである(沼崎2000)。金さえあれば、買春もできる。金力を行使すれば、「生身の女」を性的に支配し服従させることも容易なのだ。極論すれば、レイプするという選択肢もある。それでも免責される可能性は大きい。だからこそ、「男権」と「男権主義」は徹底的に批判されなければならない。
 しかしながら、ほとんど全ての男性に「男権」が保障されているがゆえに、「男権」は、男性を差別化することはない。「男権」は、ダメな男、タダの男から、<真の男>を区別する指標にはならない。差別化の指標となるのは、<男力>のほうだ。<力ある男>を<力なき男>から峻別し、<真の男>を浮き彫りにする<男性性のメルクマール>は、<男力>なのである。
 そして、<男力>を備えた男こそが<真の男>であるというのが、イデオロギーとしての<男力主義>だ。これは、「男権主義」とは異なり、近代的なロマンチック・ラヴ・イデオロギーとも相性がいい。性関係の非対称と不均等が隠蔽され、<男力>の行使が、<男の魅力>の発露として正当化されるからである。自由恋愛、フリーセックス体制の下では、男たちは、<男らしさ>を証明するために<男力>を競うこととなる。それは、性的支配力をめぐる男同士の競争だ。
 「男権主義」の貫徹した社会であれば、自由恋愛の余地はない。フリーセックスも認められない。それでは、性と生殖の支配と管理が不自由になる。しかし、<男力主義>は、競争の場としての自由恋愛とフリーセックスを前提とする。性と生殖の支配と管理のタガが緩むし、女性による選択も可能となるので、一見男女関係が自由化し平等化したようにさえ見える。しかし、そこでは、女性/女体を媒介としつつ、男性の男性による差別化が行われ、<力ある男>だけが<真の男>として賞揚され、<力なき男>が貶められる。アッシー君やメッシー君が嘲笑の対象となることは、その好例であろう。
 渡辺淳一の小説などは、一見<男らしくない>男性が実は<男力>の強い男だったという話の連続である(例えば『失楽園』を見よ)。<そこのあなた>にも<男力>は潜んでいるかもしれない、だから頑張れというのが、渡辺淳一のメッセージである。<この私>にも<男力>が隠れているのかもしれない、よし頑張ろうと、男性読者は<その気>になる。あるいは、<男力>溢れる主人公に自己投入して、つかの間<男力>を味わう。
 現代社会における支配的な男性セクシュアリティは、「男権主義」ではなく、<男力主義>である。そして、「男権主義」が男性全体を特権化するのに対して、<男力主義>は男性を差別化し、特定の<力ある男>だけを<真の男>として賞揚する。ミニスカートの文化記号学は、こうして、男性セクシュアリティの差別的な構築を明らかにするのである。

<男力に欠ける男>という困難

 自らを性化することなく、一方的な「意味付与作用」という権力を行使して、ミニスカに欲情するということは、フェミニズムが正しく糾弾するように、女性を不当に性化し、差別する行為であろう。しかし、それだけではない。ミニスカに欲情するということは、実は、<男力主義的セクシュアリティ>と対比しつつ、自らの<性的な力>を<思い知らされる>ことでもあるのだ。それは、差別される側にある<男力に欠ける男>にとっては、抑圧体験となる。
 <男力に欠ける男>たちは、二重の疎外感を味わう。一つには、自分を<選ぶ>女がいないという、女性という性的存在からの疎外感である。なまじミニスカートが目につくために、この性的疎外感は強くなる。もう一つは、<真の男>の仲間入りができないという疎外感である。男性というホモソーシャルな空間の中で、<いごこちの悪さ>に悩むのである。
 <モテナイ男>は、<モテナイ>ということだけが悩ましいのではなく、<モテル男>に混ざれないということこが悩ましいのである。<真の男>になれないとしたら、自分は、タダの男か、それ以下の存在だ。<男力主義>に染まり、<男力>を求めれば求めるほど、<男力>の欠如は打撃となる。
 小谷野敦の『もてない男』(1999)が大きな人気を博したのは、そこに集められた彼の論考が、おそらく最初の<男力主義>批判になっていたからだ。しかも、「もてない男」の立場から書かれたと標榜していただけに、それは<男力に欠ける男>たちの共感を呼んだのであろう。
 小谷野(1999:8)は、「好きな女から相手にしてもらえない、というような男」を「もてない男」として想定していると言う。本稿の考察に即して言えば、主体的に「意味付与作業」を行ってミニスカに欲情しつつ、それが換喩するところの<可能態>としての性的身体を<現実態>へと変容させる<力>すなわち<男力>を持っていない、あるいは自らに内在するはずの<男力>を未だに証明できていない男ということだ。
 そういう<男力に欠けた男>たちの悩みを正面から取り上げたことで、小谷野は、本人の意に反して(?)、一躍<モテナイ男>のヒーローとなった感がある。そして、小谷野(1999:7)が書いているように、「世間ではジェンダー研究だのセクシュアリティー研究だの男性学だのと言っているが、こういう男が問題にされたのをほとんど見たことがない」のは確かであり、それゆえ「どうなっているのか」という彼の批判は決して的外れではない(3)。
 「こういう男が問題にされたのをほとんど見たことがない」という一番の原因は、フェミニズムも男性学も、「男権主義」に目を奪われて、<男力主義>の問題を看過してきたという事情ではないか。しかし、<男力主義>の批判的解明なくしては、「男権主義」批判も不十分に終わる。
 たとえば、なぜ多くの男が「男権」を求めるのだろうかという問いに、「男権主義」論は答えられない。せいぜい「男は男権主義者だから」というトートロジーに終わる。そして、そのために、全ての男を無差別に糾弾するという誤った結果を生みがちである。
 これに対して、<男力主義>論は、もう少し具体的な回答を提供することができる。「男権主義」は、<男力に欠けた男>たちに、異なる<男らしさ>への回路を提供するのである。「時には暴力的に」さえ女性を支配し従属させることもまた<男らしさ>であると規定することで、差別された男たちにも、<真の男>への加入を可能とするのが、「男権主義」なのだ。タダの男たちにも、最低限度の<男らしさ>への道を保障することによって、「男権主義」は、<男力主義>の貫徹による男性の分裂を阻止し、男性集団のホモソーシャルな団結を可能とするのである。そして、<男力に欠ける男>たちも、ホモソーシャルな集団から<落ちこぼれない>ために、「男権」にしがみつくこととなる。俺だって、ストリップも見るし、買春もする。立派に女を支配できるのだ。そう思わせてくれるのが、「男権」なのである。
 しかしながら、「男権」を行使しても差別が消えることはない。<真の男>の中にも序列はあるのであって、「男権」しか使えない男は、やはり<本当の男>ではないのだ。買春が虚しいのはそのためだ。ソープランドにしか行けない男は、やはりちょっと可愛そうな存在なのである。もちろん、<男力>もない上に、「男権」さえ使えない(使わない)男は、それ以下の、最低の存在となるのであるが、この問題については、稿を改めて論じたい。
 ミニスカートは、だから、多くの男たちにとって、ほろ苦い存在である。自らの主体的(独善的?)な「意味付与作用」という観念的な権力行使によって、女性を欲情の対象とすることを可能にしつつ、同時に<男力>に溢れた<真の男>を示唆することによって、自らの男性性を不安に晒す。ミニスカは、男を誘うだけではない。男のセクシュアリティを逆照射し、それを差別化することによって、男たちを困惑させる。ミニスカートの文化記号学は、こうして<男力に欠ける男>の困難を露わにするのである。

おわりに

 以上、私は、森岡正博「ミニスカ論」が黙して語らない部分を検討することによって、ミニスカートが、単に特定の女性セクシュアリティの換喩であるばかりでなく、特定の男性セクシュアリティの隠喩でもあるということ、また、ミニスカートは男性を<力ある男>と<力なき男>に差別化する記号であって、<男力主義>の社会的構築の契機となっていることを明らかにしてきた。さらに、<男力主義>が、ある意味では、通常批判の的となる「男権主義」以上に問題性を孕むイデオロギーであることを論じてきた。
 最後に、このような議論を踏まえて、ミニスカートをめぐる私の原体験にあった、ミニスカートの痛々しさの感覚を検証してみたい。他愛もないクイズ番組の余興で、老年男性に裾を切り取られて困惑していたお姉さんに感じた痛々しさとは、一体何だったのだろうか。
 誤解を恐れずに言えば、それは第一に「男権主義」に対する素朴な疑問だったのだと思う。あらゆる押しつけが嫌いだった私、あらゆる痛みが怖かった私は、直観的に、「隠そうとする意志」への暴力すなわち<主体性の侵害>が痛かったのだ。それは、おそらく事実だろう。今でも、私のフェミニズムへの共感の源には、この痛みの感覚がある。
 しかし、事はそれほど単純ではない。なぜ「男権主義」のイヤラシサを直観できたかと言えば、多分、少年の私が既に<男力主義>を身に付け始めていたからなのだ。もしも、裾を切り取る回答者が、カッコイイお兄さんだったら、たとえ女性アシスタントが恥ずかしそうにスカートの裾を下そうとしていたとしても、私は痛みを感じなかった可能性がある。恥ずかしそうにしているが、本当は喜んでいるとさえ思ったかもしれない。
 なぜなら、カッコイイお兄さんならば、スカートをめくられても喜ぶはずだからだ。スカートめくり体験を通して、子ども心に、<めくれられて嬉しい相手>と<めくられて嫌な相手>とを女の子は区別しているということを、私は既に学んでいた。今から思えば、それは大いなる誤解であり、まさにセクシュアル・ハラスメントを正当化する男の論理なのだが、そうだと思い込んでいた節がある。
 どう見ても<男力>など備えていない老年男性の回答者が、裾を切り取っていたからこそ、私は「男権主義」のイヤラシサを感じることができたのだ。あんなジイサンにスカートをめくられて嬉しいはずがないと、私は思ったのだろう。しかし、そう感じるということは、めくられて嬉しい男の存在を暗黙のうちに前提としていることになる。その時の私は、まだ自分の<男力>には無自覚だったし、だから自分が<男力に欠ける男>かどうかなど考えもしなかったと思う。しかしながら、世の中には<男力>のある男とない男がいて、女性は<男力>のある男が好きなのだという<男力主義>に染まり始めていたわけだ。性の自由市場における競争を、私は予感し、肯定していたかもしれないのである(4)。
 ミニスカートの文化記号学は、<この私>にも深く潜んでいる<男力>への憧憬と、<男力主義>の問題性とを明らかにしてくれた。ミニスカートは、女性差別であるばかりでなく、男性差別でもあるのだ。そして、性的フェティシズムの対象がミニスカートだけではないことを思い起こすならば、<男力主義>の社会的構築は、実に広範に行われていることに気付かざるをえない。本稿は、<男力主義>の批判的考察の手始めに過ぎない。このような思考の旅へと私を誘ってくれた森岡正博に謝意を表しつつ、さらなる検討を約束して、本稿の結びとしたい。
 

(1) 本稿では、性的な記号としてのミニスカート姿をミニスカと表記し、単なる服装としてのミニスカートと区別する。
(2) 以下、森岡(2000)からの引用は、本文中にページ数のみ示す。
(3) 本稿で詳しく論じる余裕はないが、小谷野の議論全体には、<男力主義>への批判に比して「男権主義」への批判が弱いという難点があり、彼一流の諧謔的なレトリックも災いして、せっかくの<男力主義>批判が中途半端に終わっていると言う印象は否めない。
(4) いわゆる自由主義的な「性の自己決定論」の問題点の一つは、「男権主義」批判を装いつつ<男力主義>を肯定しているという点にあるのかもしれない。これはまた、稿を改めて論じなければいけないテーマであろう。
 
 

引用文献

小谷野敦1999『もてない男―恋愛論を超えて―』ちくま新書
杉田聡1999『男権主義的セクシュアリティ―ポルノ・買売春擁護論批判―』青木書店
沼崎一郎2000「マスターベーションの政治経済学―女性を"道具化"する男性セクシュアリティの
       個人的形成―」『アディクションと家族』17巻4号:377-382
森岡正博2000「なぜ私はミニスカに欲情するのか」『アディクションと家族』17巻4号:371-376
 

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