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「他山の石」の直筆原稿の一部(写真の右にある図版の文面10行目「迅速に運用」以降の直筆部分) |
戦前の言論統制の時代に軍部批判を貫いたジャーナリストで、信濃毎日新聞主筆を務めた桐生悠々(きりゅうゆうゆう)(1873〜1941年)が残した直筆原稿が、21日までに孫の桐生浩三さん(71)の自宅=東京都練馬区=で新たに見つかり、当局の検閲によって出版段階で削除された文章の一部が判明した。発禁処分などの弾圧を受けながら亡くなる直前まで発行を続けた個人誌「他山の石」の4本の記事で、全体主義的な政策への批判が一文ごと削除されるなど、言論が封じられていた当時の実情を物語っている。
1934(昭和9)年から41年まで出版された「他山の石」は、検閲で削除命令が出た部分を伏せ字にしたり、空白にしたりして発行された。伏せ字や空白は計450カ所あり、87年出版の「他山の石」復刻版は、このうち2分の1弱を既に見つかっていた直筆原稿などを基に復元した。今回見つかった原稿69枚を復刻版と突き合わせたところ、新たに記事4本の15カ所で削除された内容がほぼ分かった。
記事は日米開戦直前の41年6〜7月発行の同年第11〜13号に掲載された。このうち悠々のコラム「緩急車(かんきゅうしゃ)」が3本、米国雑誌に掲載された記事の悠々による翻訳が1本となっている。
緩急車「再検討さるべき新体制」(「他山の石」41年第11号)で新たに分かった削除部分は、当時の近衛文麿内閣が推し進めた国民総動員政策「新体制運動」について「何事も知らしめずして、依(よ)らしめんとするならば、国民の不安は、日毎(ごと)に募るのみであろう」と指摘した文章や、「政策の動揺、及び政治の貧困に伴う国民側の不安の念は、おのずから一切の方面に於(お)ける『闇』を発生せしめる」と、統制経済や政治不信が違法な活動を助長すると指摘した部分など。
このほか、緩急車「生物学的国家より道徳的国家へ」(同13号)で天皇を中心とする国家の在り方「皇道」について論じた文章と、緩急車「文明の脅威と世界復興」(同12号)で戦争と歴史に関して記した文章で、直筆原稿にあった「軍備競争」などの熟語6カ所が出版時点でそれぞれ空白になっていた。米国雑誌の翻訳「誰が戦争に勝つか」(同11号)は、ドイツと英国の戦争を論じた内容で、英国の力について記した部分など2カ所が削除されていた。
浩三さんは少しずつ悠々関連の資料を整理している中で、復刻版でも復元されていなかった原稿があることを見つけ、今年夏以降、読み取りにくい部分の解読作業などを進めていた。浩三さんは悠々について「事態を客観的に見つめ、おかしいと思ったことを発信し続けた」とし、「多くの人に業績を知ってもらいたい」と話している。現在、集めた悠々関連の資料を展示する場所を探している。
戦前の検閲制度に詳しい前坂俊之・静岡県立大名誉教授(ジャーナリズム論)は「悠々は弾圧の中で真実を書くことを貫いた存在として際立っている。特定秘密保護法など、国民の知る権利や取材・言論活動を制約しかねない法案が審議されようとしている今にあって、当時の言論人がどのような制約を受けていたかを知ることは有意義だ」と話している。