第二章
(神への祈り) | |
I | 神が〈それより大なるものが考えられ得ないもの〉 (aliquid quo maius nihil cogitari potest)(以下〈DD〉と略す)と定義される。 |
II | 神の存在を否定する者(愚か者)といえども〈DD〉ということを聞いて理解する。すなわち〈DD〉は少なくとも理解の内には存在する(in intellectu est) 。 |
* | 「ものが理解の内にある」ことと、「ものがあると理解する」こととの区別 |
III | 〈DD〉は単に理解の内にあるのみならず、ものの内にもある(in re est) (=実在する)ことが帰謬法により証明される。 |
[証明1 :〈DD〉が存在すること] | |
1 | [結論の提示] 〈DD〉がただ理解の内にのみ存在するということは確かに有り得ない。 |
2 | [理由]というのは、もし〈DD〉が少なくとも理解の内にだけでも存在するならば、〈DD〉はまたものの内にも存在すると考えることはできる。そしてそのほうがより大きい。 |
3 | 従って、もし〈DD〉が理解の内にのみ存在するのであれば、〈DD〉(それより大なるものが考えられ得ないもの)は それより大なるものが考えられ得るものであることになる。だが、確かにこれはあり得ない。 |
4 | [結論] 従って疑いもなく〈DD〉は理解の内にも、またものの内にも存在する。 |
第三章
IV | 〈DD〉は存在しないとは考えられ得ない程に、真に存在することが帰謬法により証明される。 |
[証明2: 〈DD〉は存在しないとは考えられ得ないこと] | |
1 | [結論の提示] 〈DD〉は存在しないとは考えられ得ない程に真に存在する。 |
2 | [理由] 存在しないとは考えられ得ない程の何か或るものが存在するとは考えられ得る。そのようなものの方が、存在しないと(も)考えられ得るものより大きい。 |
3 | 従って、もし〈DD〉が存在しないと(も)考えられ得るならば、〈DD〉(それより大なるものが考えられ得ないもの) は〈DD〉(それより大なるものが考えられ得ないもの)ではないことになる。こういうことは成立し得ない。 |
4 | [結論] 従って、〈DD〉は存在しないとは考えられ得ない程に真に存在する。 |
(神への呼びかけ) まさに〈DD〉が二人称で呼びかける相手である神であり、神は全ての被造物に勝った存在である。 |
第四章
では何ゆえ〈DD〉を理解しているはずの愚か者が神の存在を否定するのかが説明される。
1 証明1 は「<DD>は現に存在すると考えざるを得ない」ことを証明するものである。というのはまずV−2で「そのほうがより大きい」というときに比べているのは「ただ理解の内にのみ存在すると考えられた<DD>」と「実在しもすると考えられた<DD>」とであるからである。また、−2、3に出て来る「もし<DD>が(少なくとも)ただ理解の内にだけ(は)存在するならば」という条件は「もし<DD>が(少なくとも)ただ理解の内にだけ(は)存在すると考えるならば」 ということに外ならない。さらに、こう考えたときに起きる矛盾として、「<DD>が<DD>ではない」ということになることがいわれて「確かにこれはあり得ない」とされるときの「あり得ない」も「考えられ得ない」ということである。このように考えるのでなければV−2、3の帰謬法は成立しないのである。
「確かに」「疑いなく」という表現もこのことを示している。「確かに云々である」「疑いなく云々である」という<確かさ><疑いのなさ>は事柄の側に存在についての動揺がないことを言うものではなく、事柄を把握している私のその把握についての確かさを言うものである。「確かに(疑いなく)<DD>は存在する」とは「<DD>は存在すると考えざるを得ない」ということなのであり、この結論こそが「<DD>は理解の内にのみ存在すると考えると矛盾が生じる」という議論から出るものである。
2 ここで我々は「理解の内にのみ存在すると考えられた<DD>」と「実在しもすると考えられた<DD>」との比較を「想像上の千円札と現実の千円札」といった例を引き合いに出して論じることは正鵠を射てはいないことに注意しなければならない。なぜならばここでアンセルムスがしていることは個物の存在の証明ではなく、普遍の存在についての議論であるからである。すなわち「時空間の或る特定の点に千円札があるかどうか」にではなく、「千円札というものは存在するものかどうか」に対応する議論がここではなされている。そしてこの例で言えば我々はたとえ今自分が千円札を所持していなくても、千円札は存在すると考えているのである。
従って我々がここで引き合いに出すべき例は、「想像上の動物と考えられたユニコーン」「過去に実在したと考えられるマンモス」「実在すると考えられているライオン」等々である。これらにおいて「想像上の動物」とか「実在する動物」といったことは確かに個体の存在についての判断を含みはする。「ユニコーンは実在しない」「ライオンは実在する」とは「いかなるユニコーン個体も存在しない」「何らかライオ ン個体が存在する」ということであるから。しかしこれらは特定の個体について言明するものではなく、不特定の個体についてのものである。むしろそれは(普遍についての或る立場から言えば)「ユニコーン」「マンモス」といった普遍の存在についての言明だということになろう。
そもそもここで神を<DD>と定義した上で、<DD>に対応する存在を論じる以上はこれは特定個体の存在の問題ではないことは明らかである。そのうえ、普遍と個体という点で「神」は少なくともアンセルムス当時においては特別な位置にあった。 つまり神は決して個体的に存在するものではないのである。「神は存在する」は決して「或る神個体が存在する」ということではない。唯名論者ロスケリヌスの三位一体論批判は、神を個体として理解した上での「もし神において三位が一つの実在であって、三つの実在ではなければ、子と共に父と聖霊も受肉したことになる」とするものであるとアンセルムスは理解した上でこれに対立したのであり、その際には神を個体 的に把握するのではなく普遍として把握することによって三位一体論を弁護していると解せられる(4) 。そうであればなおのこと「(唯一の)神が存在する」は個体についての言明を含まない普遍の存在についての言明であって、この点で他の存在者の存在の言明とは身分を異にする。しかしながら他の存在者についての言明も普遍の存在についての言明だとも受け取り得る限りで、それらを引き合いに出し得るのである。
このようにして普遍としての神の存在がここで論じられているのであれば、普遍の存在をめくる例の普遍論争においていかなる立場に立っているかということとこの証明とは密接に関係していることが予想されるのである(後述)。 3 アンセルムスの証明をめぐってなされる、概念から存在は帰結し得ないではないかという議論は、この証明を個体の存在についての証明と受け取りつつなされるように思われる。とはいえ、では普遍の存在ならば概念から帰結するかというと、アンセルムス自ら一般的には否定的に答えるであろう。では神の概念の場合には特に存在が含まれているというのであるか。そうではない。むしろ神の概念ないし定義に存在・非存在が明示的に含まれていないにもかかわらず存在・非存在についての帰結がもたらされるところにアンセルムス的証明の特徴がある。すなわち、これを概念が存在を含むならば存在が帰結すると説明するのでは不充分である。なぜならただそういうことならば、我々は通常ユニコーンのことは「馬に似た、一角の想像上の動物」などと理解しており、「想像上の」ということはことばの了解のうちに含まれているのであるから(5) 、これをユニコーンの定義とするならば、「ユニコーンは存在しない」が論理的に帰結することになってしまうだろう。存在するとすれば、ユニコーンは想像上の動物であり、かつないという矛盾が生じてしまうからである。同様に人間の存在も概念から帰結する。そればかりかユニコーンは存在不可能であり、人間は必然的存在者とすらなってしまうだろう。なぜならユニコーンが存在し得るとすればその場合には「想像上の動物が想像上の動物ではない」ことになり、逆に人間(その概念には「実在の」ということが含まれると看做せばの話であるが)が存在しないことがあり得るとすれば、その際には「実在のものが実在しない」ことになってしまうからである。このようなわけで、アンセルムス的証明が有効であるためには一般的に概念は存在を少なくとも明示的には含まないというテーゼがむしろ必要である。
<DD>という神の定義・概念には明示的には存在が含まれていない。しかしその定義のみから論理的にその存在が帰結するという所にアンセルムスの証明の論点があるというべきであろう。
1 では証明二(W)は何を問題にしているのであるか。これの証明一との違いを端的に示すものが、先の「確かに」「疑いなく」に対する、ここの「真に」という表現である。すなわち「確かに存在する」は我々が「存在すると考えざるを得ない」という思考の確かさについての表現であったのに対し、「真に存在する」は存在者の存在の程度を示すものだといえるのである(6) 。というのはこの証明では、「存在しないとは考えられ得ない程のもの」と「存在しないとも考えられ得るもの」とが比較され、<DD>を後者と解すると矛盾が帰結するという途を辿っているのであるが、ここでも我々の思考が判別基準になっているとはいえ、比較されているのは思考の確かさないし恒常性といったことではなく、存在のありかたなのである。すなわち<DD>は証明一が提示したように現に存在するとしても、存在しないという事態もあるようなものなのか、それともそういう事態は有り得ない程の必然的な存在であるのかが問われるのである(7) 。
すなわち我々は証明一において引き合いに出したような他の存在者をここでも引き合いに出すことによって、証明二のしていることをより明らかにすることができよう。例えば「ユニコーンは(現に存在してはいないが)存在するという事態も考えられ得るようなものである」「マンモスは現に存在してはいないが、過去においては存在していたこともあるという意味で存在する事態が考えられ得るものである」「人間は現に存在しているとはいえ、存在しない事態を考えることはできるものである(人類が滅亡するという事態を考える場合など)」等々の事例と比較すればよいのである。
つまり、証明二によって示されているのは神は「あったり、なかったり」するような偶然的存在者ではなく、「ある」とのみ言われる必然的存在であることに外ならない。まさにこのような文脈であるからこそ、証明のXにおいて神とその他の被造物とを比較して次のように言うのである。
「そしてあなた以外のものは何であれすべて、存在しないとも考えられ得るのです。ですから独りあなたのみが全てのうちで最も真に、したがって全てのうちで最大に存在を備えておられます。というのは他のものは何であれ、かくも真には存在を備えず、したがってより少なく存在を備えるからです(8) 。」また証明一と二の相違に例のガウニロの次の言及は対応している。
「また私は私が存在するということを最も確実に知っているが、それに劣らずまた私が存在しないこともあり得ると知っている。これにたいし存在するところの最高のもの、すなわち神については、存在すると、また存在しないことはあり得ないと、疑いなしに私は理解している(9) 。」2 だがここで次のような疑義が提出されるかもしれない。すなわち、我々は証明一を「<DD>は存在すると考えざるを得ない」ことの証明と解したのではないか。 この「存在すると考えざるを得ない」は目下の証明二の「<DD>は存在しないと考えることはできない」と同義ではないか。そうであれば証明一と二の相違は判然としないではないか。これについては私は次のように応じたい。
確かにこの二つの言い方をラテン語でいえば共に non potest cogitari non esse となるであろう。しかし二つの相違は文脈によるのである。すなわち、証明一は存在しているかどうかを問うところで「あると考えざるを得ない」というのであるから、これは<現にあるかどうか>の話である。これに対し証明二は「現に存在する」ことが確認された上で「存在しないと考えることができるかどうか」を問い、これに「そうは考えられ得ない」と答えているのであるから、これは現実の事態についてではなく可能性の問題、つまり<ないという事態が考えられ得るかどうか>の話である。この区別のために私は以上で時に、証明一については「現に存在しないとは考えられない」と、また証明二に関しては「存在しない事態が考えられ得ない」というように訳し分け、また記述してきたのである。
3 このようなわけで我々は証明一と二とから存在者の次のような分類を抽出することができる。すなわち前者からは、
「ただ理解のうちにのみあると考えられるもの」とという分類、言い換えれば
「現実に存在すると考えられるもの」、
「現に存在しないと考えられるもの」とという分類が出てくる。これに対し後者からは、現に存在すると考えられるもののうちでの
「現に存在すると考えられるもの」
「存在しないとは考えられ得ないもの」・・(第一種と呼ぶことにする)という分類が抽出される。もしここでこの考え方を現に存在しないと考えられるものに適用するならば、
「存在しないとも考えられ得るもの」・・・(第二種と呼ぶことにする)
「存在するとも考えられ得るもの」・・・・(第三種と呼ぶことにする)という分類も成立しよう。このようにして存在をめぐり、ものについて四種の類別が成立する。第1種の例として神が考えられ、以下、第2種は人間、ライオンなど、第3種はユニコーン等、第4種は(中世論理学の伝統に従って言えば)キマイラがこれの例となる。
「存在するとは考えられ得ないもの」・・・(第四種と呼ぶことにする)
アンセルムスの証明一は、一般化して言えば、或るものの定義ないし概念からその存在・非存在が言えるかどうかに関わっていた。そしてアンセルムス的には、<DD>という神の定義は、その定義から存在が帰結する、おそらくは極めて稀な例と考えられるものであった。それが人間やユニコーンのような定義からは現に存在するともしないともいえないものとの基本的な相違である。この相違は証明二においては必然的な存在と偶然的な存在との相違として提示されることになる。すなわち、我々は定義から存在・非存在が帰結するということと、必然的存在であることとの間に対応関係を見出すことができる。
このことは第4種と第3種との相違からも確かめられる。なぜユニコーンは存在し得るのにキマイラは存在し得ないというのか。それはキマイラの定義のうちに矛盾が含まれることによる。つまりそれは例えば「Aであり、かつAでないもの」というように定義されるのである(10)。この定義からキマイラについては「現に存在するとは考えられない」が帰結する。もし存在するとすると矛盾が生じるからである。これはまさにアンセルムスの存在論的証明と同じ仕方で帰結するものである。
ただし、第4種の場合、例えばキマイラが存在しないことは確かであるが、「理解の内にのみ存在する」とは言えるかどうかは問題が残る。むしろ「理解の内にも存在しない」というべきであろう。矛盾が含まれるようなものは理解すらできないということだと解せるからである。実際こう考えるほうがアンセルムス解釈としても正しい。証明1−2の「Aが少なくとも理解の内にだけでも存在するならば、Aはまた実在すると考えることはできる」の対偶は「Aが実在すると考えることができないならば、Aは理解の内にすら存在しない」となるからである。以上をまとめると 表1 のようになる。
1 アンセルムスの証明は個体ではなく普遍としての神の存在についてのものであ るということがすでに指摘された。ここからこの証明をいわゆる普遍論争との関係に おいて見直す必要がでてくる。以下はこの点についての考察である。
普遍論争というのは要するに普遍(多くのものについて述べられるという性質を帯 びたもの* )すなわち「人」といった種、「動物」といった類が実在的なものか、そ れともただ思考においてのみあるものなのかという問いを初めとするポリュフィリオ ス『エイサゴーゲー』冒頭の問題提起にいかに答えるかをめぐって生じたものである 。それはアンセルムス当時には論理学(弁証学)が扱う問題であったのであり、問い は<ことば>は<もの>の記号・名前であるという枠組において考えられていた。
ところで、「AはBの記号signumである」は「AはBを表示significare する」と いうことであり、「AはBの名前nomen である」は「AはBを名指すappellare 」と いうことに相当するのであるが、アンセルムスの用語法に従って言えば、この二つは 区別せねばならない。例えば次のように説明される(13)。
「グラマティクス(文法的な者)」は文法家である人を名指す。
「グラマティクス」はグラマティカ(文法)を表示する。
すなわち名指しは個体を名指すのに対し、表示は或る個体がその名前で呼ばれる所 以であるところの(その個体においてある)ものに向かうのである。であるから同様 にして
「白いもの」は白いところの個体を名指し、(その個体がそれによって白いも のであるところの)白を表示する
ことになる(14)。
以上の例は内属性について成り立つ説明である。白が或る個体実体においてある時、その個体は白いということだからである。だがこの表示と名指しの区別は実体に適用されるとどうなるのか。すなわち
「人間」は諸個人を名指す。ではこれは何を表示するのか。
ここで表示の対象として諸個人と何らか区別された普遍的なものを定立するのが実 在論に外ならない。すなわち、それは「多くのものに共通」とか「多くのものについ て述べられる」といった性質を持つものが単にことばの側にあるのみならず、ものの 側にもあると認め、言いかえれば普遍を実在的なものと認めるのである。この普遍的 なものは個々人がこれによって人間であるようなもの、いわば普遍的な人であって、 <可死的・理性的動物>という定義によって示される存在、また、<人間性>という 語で示されるもののことであるなどと言われる。
ただし普遍的な人と個人との関係については様々な見解がある。普遍的なものは個 人(の創造)に先立つ存在であるとするか、普遍的なものの個体なしの存在は認めず 、個体に即してのみ存在を認めるかの相違が哲学史教科書において普遍は<ものに先 立つ> universalia ante rem とする立場と<ものにおいてある> in reとする立場 という特徴づけによってよく指摘されるところである(15)。ここでは細かい議論は割 愛して前者を<きつい実在論>、後者を<緩い実在論>と呼ぶことにする(16)きつい 実在論においては「人間」が名指す個体と、表示する普遍とはものとして区別される ことになるが、緩い実在論においては「人間」の名指しと表示の対象はほとんど一致 する。ただ例えば「ソクラテスである限りでのソクラテスを名指し、人である限りの ソクラテスを表示する」といった区別はある。アンセルムスの立場はこれに類するも のと言えるであろう。「『人』という名前は実体を表示し、かつ名指す」としている からである(17)。また緩い実在論が個体なしの普遍を認めないという点は限定つきで 考えなければならないであろう。つまり、これは本論の主題にも関係することである が、神についてはこの考えを適用していないと看做すべきであろう。神は個体的な存 在ではなく、まさに普遍的存在であるからである(18)。
これに対し、「人間」は諸個人を名指すということ、つまり諸個人の名前であるこ とのみを認め、これとは区別される表示作用を認めないのが普遍をことばの側にのみ 帰し、名前的なものと看做す唯名論である(19)。従ってこれはものの側に普遍といわ れるものがあることを否定する。
2 以上で導入された普遍に関する三つの型の理論に対して個体の存在と普遍の存 在の関係に関する次のような問いを試みに問うてみよう。
「バラは存在しない」という命題において「バラ」はいかなる表示作用を為し得 るのか?
<唯名論> そもそも「バラはない」という文は後にアベラールが、以上で導入さ れた限りにおける唯名論の欠陥を指摘し、これをアベラール的に修正・補完する際に 用いた例である。「バラ」の表示作用を、多くの個物の名前であるというところでし か認めないのであれば、バラがない場合には「バラ」はもはや何ものの名前でもなく 、従って何の記号でもなく、すなわち表示する機能を失っていることになる。言い換 えれば「バラはない」は無意味な文であり、我々はこれを理解できないことになる。 しかし我々は実際これを有意味なものとして理解している。であるからには「バラ」 の表示作用を<名指し作用>というところでのみ把握した素朴唯名論の考えは不十分 であることになる(アベラールはここから名前は個体を名指すとともに、その言葉を 聞いた人のうちに生じる理解を表示しもするという考えを提示したのである)(20)。
アベラール的な修正を加えてこの点での不整合を補正するかどうかは別として、唯 名論者は「バラはない」はバラ個体の非存在についての言明であり、バラという普遍 について何かを言っているものではないと言うであろう。この文においても何らか「 バラ」が表示作用を備えていると認められるのであれば、「バラ」ということばこそ 普遍であるからには、普遍は存在する。ただしそうであれば、逆にかかる普遍が存在 するということからは、個体の存在についての何の帰結ももたらさないということに もなるのである。
<きつい実在論> 実在論者も「バラはない」がまずもって個体の存在を否定する ものであることは認めるであろう。ではこの文は普遍的バラについては何かを言って いるのであろうか。先に導入した理解に従えば、きつい実在論は個体に先立つ、従っ て個体なしの普遍の存在を認めるものであった。そうであればバラ個体の非存在は普 遍的バラの非存在を帰結しない。そればかりか(私の推測では)ここで「バラはない 」がなお有意味であるのは「バラ」がかかる普遍的バラを表示しているからだと説明 するであろう。すなわち「バラはない」はまさに個体なしの普遍の存在を示す実例で あり、言葉が有意味であること、言い換えれば、言葉を我々が理解できるということ から、その言葉に対応する普遍の存在が帰結することになるであろう。
<緩い実在論> 普遍は個体においてあるとする緩い実在論者もまた「バラはない 」がバラ個体についての言明であることに同意する。しかし更に普遍を通常あくまで も個体に即して認め、普遍は個体においてあるとする立場であるからには、個体がな ければ普遍的バラもないと主張するはずである。すなわち「バラはない」は普遍的バ ラの非存在を言明ないしは含意する。そうであれば、この立場もまたあのアベラール の素朴唯名論に対する問いかけに答えなければならない。すなわち、その際には「バ ラ」の表示作用はどうなるのかに答えなければならない。
アンセルムスはまさにこの緩い実在論の部類に属する人として、この点に答える途 を提示し得ていると私は考える。すなわち、「バラはない」場合の「バラ」の表示作 用について、ある意味ではアベラールに先立って、理解ということを導入して答える はずだと推測できる。というのは本論の問題である存在論的証明において、「神がも のにおいてある(実在する)」ことと「神が理解においてのみある」こととを区別し ているからである。この区別は目下の問題に適用できる。「バラはない」のであれば 、バラ個体も普遍的バラも存在しない。すなわち「バラはものにおいてない」。しか しその時にも我々は「バラ」ということを聞いて理解する。すなわち「『バラ』は理 解においてある」。従って、この立場では「バラ」が理解できることのみからは(き つい実在論とは異なり)バラの存在についてはいかなる帰結も生じないのである。
3 以上の「バラはない」をめぐる理解と存在の関係についての了解をアンセルム スの証明に適用してみよう。
<唯名論> 素朴な唯名論の主張をアベラールの批判を裏返してここに適用すれば 、この立場では、語が名前として成立しているならばそれに対応する個体(普遍では ない)がもののうちにあることになるはずである。従って神という名前がある以上は 、対応する神個体の存在が帰結してしまう。しかしまた同様にしてユニコーンやキマ イラノ存在も帰結してしまうことになる。つまり、そもそもかかる素朴な唯名論は概 念ないし名前とそのからその存在を論じようとする場面では役に立たないのである。 ではアベラール的な唯名論をこの立場の標準と看做すならばどうなるか。アベラール 的に修正された唯名論を前提するならば、名前が理解されることからは、ただちにそ れが普遍として言葉の側に存在することは帰結するが、決してその名前に対応する個 体の存在は出て来はしない。そこで、アンセルムスの証明が成立する可能性があるこ とになる。ただし、これが証明しようとしているのは普遍の存在ではなく個体の存在 、それも特定の個体ではなく不特定の個体の存在であると看做されよう。ところが不 特定の個体を問題にしているとすることにおいて、例の現実のXが空想のXより大と は言えないという反論が入り込む余地が出てくる。すなわち<DD>という概念に対 応する個体が唯一であることは証明されていない以上、アンセルムスの証明をひとま ず認めるとすると、多数の対応する個体の存在が可能であるかもしれないが、そのう ち少なくとも一個体が現に存在していることの証明がされたことになる。では現に存 在している<DD>個体のほうが現に存在してはいない可能な<DD>個体よりも概 念上大であるといえるのか。答は否定的であろう。そうであれば遡ってアンセルムス の証明の帰謬法も成立しないことになろう。概念から存在は出てこないという論点が この立場では有効になり得るのである。
このようにしてアンセルムスの証明を個体の存在に関するものと看做さざるを得な い唯名論にとっては、この証明は少なくともこのままでは有効とはいえないことにな る。
<きつい実在論> この立場からみれば、名前が理解されるならば、それに対応す る普遍の実在が帰結したのである(もちろん、個体の実在については何も帰結しない が)。すなわち、<DD>が理解のうちにあることのみから、普遍としてのその実在 が帰結することになる。そうであればアンセルムスの証明は余計な付加であり、不要 のものだということになる。
<緩い実在論> この立場こそアンセルムスの証明の成り立つ場である。すなわち 、この立場では、名前が理解されるということは、それに対応する普遍の実在の必要 条件であって、十分条件ではない。すなわち<DD>が理解のうちにあることは、普 遍としてのそれの実在が可能であることを、そして可能であるということのみを帰結 する。そうであれば、理解のうちにあるということに加えて、如何なる条件が加われ ば、それの実在が帰結するかということを考察する場面が開けるのである。
では、かかるアンセルムス的実在論は、一般に普遍の存在のためには、それを表示 する名前が理解されるということに加えて、どのような条件が必要であるとするであ ろうか。「ものにおいて」というその特徴づけからいって、一つには個体の実在がそ の条件と言うことができよう。例えば普遍的バラの実在のためには「バラ」が理解の うちにあることのみでは不十分であるが、バラ個体が少なくとも一つ実在すれば十分 となる。では個体の存在が確認できない場合には普遍の存在も確認できないのであろ うか。多くの場合はそうである。例えば、「ネッシー」という名前を聞いて我々はこ れを理解はするが、個体の存在が確認されない限りは、「ネッシーはいるかもしれな いし、いないかもしれない」としか言えない(「バラはない」と同様に、これは普遍 的ネッシーに関する存在・非存在の言明を含意している)。
だが、あらゆる場合に、個体の存在確認が普遍の存在証明のために必要な条件であ るのか。アンセルムスはここで個体の存在を確認せずとも普遍の存在が言える途を、 提示しているのである。その条件こそが「存在しないと考えると矛盾が生じる」とい うこと、すなわち「現に存在すると考えざるをえない」ということにほかならない。 個体の存在を根拠にしない以上、この「現に存在すると考えざるをえない」は論理的 な要請でしかありえない。すなわち、ここで「存在する」との結論は名前の理解ない し概念・定義のみから抽き出されるものでなければならない。そのように抽き出し得 る数少ない事例がアンセルムスの証明である。
かくして「理解のうちにはある」プラス「実在しないと考えると矛盾が生じる」が 緩い実在論にとっての普遍の実在のための条件となる。そして、緩い実在論およびこ れらの条件を認めるならば、アンセルムスの証明は整合的であると言えるのではない か私は思う。すなわち、緩い実在論を前提すれば、また前提してのみ、アンセルムス の証明は有効なのである。
4 ここにおいても、先の可能性について考察した際と同様に、「実在しないとす ると矛盾が生じる」は「実在しないと考えると矛盾が生じる」と解されている。そも そも<矛盾>ということ自体がアンセルムス的な<思惟>の場、すなわち論理学にお けることである。これらは論理つまりロゴスと存在とがどのようにして一つとなって いるのかに関する、緩い実在論の基本的な理解を指し示しているように思われる。そ れを明らかにすることは今後の課題となる。
表1にまとめられているような存在とその様相に関する分類は通常の論理学ではむしろ表2のように表されよう。表1が示すようなアンセルムスの様相理解はまさにこの表2の一つの解釈であると私は考える。すなわち、それは<できる>posse を如何に理解するかにかか わる解釈である。このことを明らかにするために目下の事例における「ある(ない) ことがあり得る(あり得ない)」をどう理解するかについて考察してみよう。
[表2]
est (ある) |
| ||
non est (ない) |
|
例えば我々はかかる可能性について語る際には、この可能性がそれについて語られ る範囲・世界(それは目下の事例では時空的な広がりをもった世界である)を決めつ つ語っているはずであるが、その範囲・世界において少なくとも一回は生起している ことを「あることがあり得る」と言い、一回も生起していないことを「あることがあ り得ない」と言う、などと理解することができる。この理解によれば、「神は存在し ないことがあり得ない」とは神が不在であるような時は我々が語っている世界には一 瞬たりともないことを意味することになる。だがこのように理解した場合我々は「あ り得る」ということを言うためには「現にある」ということを少なくとも一回経験す るまで、また「あり得ない」ことを正確に言うためには世界の全時空間に亙って、事 実を観察しなければならない。ということはたまたま我々が「現にある」ことと知り 得たものごとについては可能性を主張すること(もっともそれはほとんど可能性を語 る意味のないことであるが)はできるが、それ以外のことについては可能性も不可能 性も語ることはできないことになる。全時空間に亙る観察などは我々には到底できる ことではないのであるから。おまけにこの全時空間は簡単な可能性に関してさえも、 単なる現実の世界のみならず、いわゆる可能世界をも含む範囲のものとなる。「明日 、雨が降ることはあり得るか」に今答えるためには、我々は未来を見る目を必要とす るばかりではなく(それすら我々は備えていないのである)、現に次の日になって雨 が降らない場合にも、現実世界と並行している別の可能世界とやらをも見て、どこか に「雨が降る」場合があるかないかを調べなければならないことになるのだ。このよ うにして、かかる可能性の理解は我々にとって決して基本的なものではないことが帰 結するであろう。むしろ我々は別の仕方で「あり得る」かどうかを決めた上で、「あ り得ないこと」は世界において一回も起きないことと説明し、かつ、その範囲として の可能世界とやらにおいてもそれが起きるかどうかを決め得るのである。
また、可能性についての中世哲学的な次のような理解が提示され得る。それは目下 の<できる>を神の能力のこととして理解するものである。すなわち「あり得る」は 神の全能をもってすればできることであり、「あり得ない」は神にすらできないこと である(11)。アンセルムスにおいて<できる>は能力の問題であることが指摘されて いるが(12)、これは目下の問題に適用できるようにも思われる。しかし、この理解に 基づいて我々は如何に物事の可能性を判別できようか。その判別は神にできるかでき ないかのそれに依拠してなされることになるが、ここでも先の理解と同様のことが帰 結するのであって、我々は現に神がそれを生じさせないことをたとえ観察できたとし ても、神はそれができないのか、ただたまたましないだけなのかをどう区別するとい うのか(神の全能を極端に認めるならば、神にできないことなどないのであるからす べては可能なこととなるではあろうが、それでは可能・不可能について語ることは無 意味となってしまおう)。このようにして我々が神にできるかどうかについて語り得 るとすれば、それは何かもっと別の可能性理解に基づいて得た帰結を神の能力に適用 しているのでなければならないことになる。
このようにして今や求められている可能性理解こそがアンセルムス的な「考えられ 得るかどうか」に還元する理解であると私は言いたいのである。ただし「考えられ得 るかどうか」は単にその事態を想像できるかどうかという我々の想像力の問題ではな い。「考えられ得る」というときの<できる>は確かに人の能力に言及しているに違 いない。ただしそれは、アンセルムスが実際にしていることから了解できるように、 論理的な事柄に対応したものである。すなわち、矛盾したことは「考えられ得ないこ と」であり、矛盾しないことは「考えられ得ること」である。この判別基準によって 得た帰結を以上に挙げた、全世界を観察する途による説明に適用するにせよ、神の能 力による説明に適用するにせよ、厳密に可能性について語るためには、この矛盾の有 無による理解に遡らなければならない。アンセルムスにおける表2の表1に示したよ うな理解は以上の考察からすれば、可能性についての正確な洞察を反映していること になるであろう。すなわち「有り得る」は「有ることが考えられ得る」に還元される のである。
(1) 従って本論は次に掲げる研究が提示するような神学的側面には触れない。ア ンセルムスのしていることは「信仰から信仰へ」という観点からも把握できることを 否定はしないが、証明自体は、信仰を前提してではなく、むしろ「信仰の根拠ratio fidei (I.93.1)」を求めてなされている以上、その論理学的観点からの分析をまず要 するものと考える。
Karl Barth; Fides quaerens intellectum, Anselms Beweis derExistenz Gottes. 1931,1958
泉治典 「『プロスロギオン』における神存在の論証について」(同著『アウグス ティヌスからアンセムルスへ』1980年所収)
(2) Karl Barth;op.cit.論理学的観点からの主張としては、D.P.Henry;Medieval Logic and Metaphysics.1972.p.101ff.
(3) I.101.15-103.2(なおアンセルムスの引用はシュミット版による。)
(4) Epistolae de incarnatione verbi prior recensio(I.281-290).,Epistola de incarnatione verbi(U.3-35)参照。
(5) というのは「ユニコーン」という語の使い方は、それが登場する物語におい て決められているからである。だから、たとえもし今後どこかでユニコーンの記述が ほぼ該当するような新種の動物が見出されたとしても「ユニコーンは実在したのだっ た」とは言わずに「ユニコーンに似た動物がいた」と言うだろう。その動物に「ユニ コーン」という名前をつけたとしても、なお我々は「空想のユニコーン」と「新種の ユニコーン」とを区別して使うであろう。現に想像上の「きりん」と実在の「キリン 」とを区別しているではないか。
(6) この点で私は『プロスロギオン』第二章に Quod vere sit Deus という表題 が付けられていることは不適当であると言いたい。証明一の本文には vere という言 い方は出て来ないのである。たとえ、この表題が正当であるとしても、この vere と 証明二に出て来る vere とは区別すべきである。
(7) D.P.Henry(op.cit.)は証明二を神が必然存在であることの証明と理解するこ とに反対して議論をしている。ここではそれに対する私の反論は割愛するが、本論を 通して、Henry の主張にもかかわらずここを神の必然存在の証明と見ることについて の私の見解を示したつもりである。なおHenry は必然存在ということならばボエティ ウス的伝統の下にあるアンセルムスにおいては諸天体も必然存在とされているとして いる(p.109) 。しかし神による万物の創造という思想の下にあるアンセルムスが諸天 体を永遠の存在と看做しているとは考えにくい。少なくとも我々が本論で主張するよ うな意味では(アンセルムス自身の表現がどうであれ)、これらは必然存在と看做さ れてはいないと考える。
(8) I.103.6-9.
(9) I.129.14-16.ただしガウニロが証明一と二を正確に理解していたかどうかは 問題が残る。「疑いなしに」という確実性を一・二双方に関わる表現に掛けている点 はアンセルムスとの或るずれを示しているといえるかもしれない。
(10) 中世論理学におけるこのような見解については拙論『様相概念と被造世界』 (『途上』第12号一九八二年所収)参照。
(11) なお或る中世的伝統においては「神にすらできない」ということは、全くで きないのかそれとも神が「しない」と決めているという意味でできないのかという区 別がされることになるがその点は割愛した。前掲拙論参照。
(12) D.P.Henry;op.cit.,p.110.
(13) De Grammatico XII (I.157.1-5)
(14) cf.I.160-164
(15) この特徴づけの是非については別に機会に論じたい。
(16) 実在論の様々な理論については次の文献を参照(ただし、どれを<きつい> とし、どれを<緩い>とするかは私見による)。
ライネルス『中世初期の普遍問題』(稲垣良典訳一九八三年)
Martin M.Tweedale; Abailard on Universals.1976.
(17) De Grammatico XII(I.156.31-34)
(18) in re の普遍と個物の関係を示す際の意味と、アンセルムスの証明において 我々が「実在する」と解した際の意味の異同については改めて考える要はあろうが、 ここでは論じない。
(19) ただし、この説明はあくまでも素朴な唯名論についてのものであって、より 洗練された理論には適さない。