聖書は神の存在を科学的に証明しようとして書かれた本ではありませんが、しかし、聖書には神の存在を示す知恵と力が書き示されています。
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。(ローマ1章18節ー20節)
ここで聖書は神の存在は被造物によって明らかである、と言っています。被造物とは、神によって創造されたものを指しています。つまり、自然にあるものすべてであり、人間もそこに含まれます。(神の創造の不思議)
そこで、私たちのまわりの自然の営みを観察してみましょう。 まず私たち自身の体を見てみましょう。比較としてコンピューターについて考えてみましょう。現代はコンピューターの時代です。これからもどんどん発達していくでしょう。しかし、どんなに発達しても人間の脳にはかないません。大人の人間の脳の重さは約1.5kg弱です。その小さな脳に、ありとあらゆるコンピューターが行なう以上の考える力、感じる能力が与えられているのです。心臓はどうでしょうか。365日止まらず動いているのです。眠っている時でさえ動いているのです。平均寿命を80才としますと、85年間休まず動いているのです。このようなコンピューターが出現するでしょうか。たとえ出現したとしても、それは人間によって作られたものです。人間の目を見てください。これは世界中のどんな優秀なカメラでもかないません。どんな時にも自動フォーカスです。それも瞬時にフォーカスできるのです。コンピューターやカメラを見ると、デザインがあるのがわかります。目的があるのを見出せます。そこにはデザイナーがいて当然でしょう。
それと同じように私たちの体、手、目を見て、目的を私たちは見出せます。デザイナーがいると確信できるのです。 自然界にはいろいろな物理的な法則があります。ある物を空中に投げれば落ちてきます。法則があればその法則を与えた者がいた、と考えてもおかしくはありません。
たとえば、道路の標識を見てください。その標識を見て、それが元からあったのだと考える人はいませんし、突然そこに降って沸いたように現われた、と考える人もいません。その標識を決めた交通関係の機関があるはずです。同じように、法則があればその法則を与えた方がいるはずです。私たち人間には見えない方です。その方は天地万物を創造された唯一の神です。
生物的な法則もあります。命がどのように生まれるか、人間がいくら研究しても、その法則は人間が与えたものではありません。私たちの体内の細胞が、どのように変化して体を動かしているかも非常に興味深い研究ですが、私たちが法則を与える事は出来ません。そこには必ずその法則を与えた方がいます。