まず「四十九日」の歴史的な経緯についてですが。
仏教ではそもそも「中有」はあまり正統な思想ではありません。釈迦の没後辺りではこのような思想はまだ生まれておらず、部派仏教の時代になって初めて出てきたものです。しかも、二十部とも言われる部派の中でこの思想を採用した部派はせいぜい2派程度にとどまります。
その中有思想が一般に流布するようになったのは、私の理解するところでは、5世紀頃のインドにおいて小乗アビダルマ仏教の理論書として成立した「倶舎論」の中に「中有」について触れた部分があり、「七七日を極多とする」という説が紹介されたことが大きな影響力を持ったと思います。後に中国にはこれが道教の冥界思想と混交しつつ偽経である「十王経」にとり入れられたのですが、日本にはそれがそのまま伝わった結果、1周間ごとに死者が裁きを受ける、というわが国の現在の中有イメージの骨格が作られました。
また倶舎論はチベット訳が現存しており、チベットへの仏教導入時に伝えられ影響力を持ったことが知られています。従って、その随分と後に作られた「死者の書」に四十九日の中有思想がとり入れられていることは不思議なことではありません。「死者の書」はインド成立の中有思想をそのまま受け継いでいるのであって、この思想の発端ではないのです。
ではこの倶舎論の四十九日の思想はどこに源流を持つのか、ひいてはそれが汎文化的な一般性を持つのかどうかについてですが。
前者については、仏典では倶舎論より少し前まで遡ることができます。少し細かなはなしになりますが、倶舎論は先行して成立した「大毘婆沙論」というカシミール有部という部派の理論書を批判的に受け継いでできているのですが、この「婆沙論」には中有の長さについて正説を含め4つの説を紹介しているのです。やはり「極多を四十九日とする」という立場も併記されていますが、一方で婆沙論の正統な立場は「(中有には)少時住す」、つまり「中有とはごく短い時間である」とだけ記されています。
ここでわかるのは、中有といってもすぐに7や49に結びついたわけではなく、実はごく一部の人々がそのような数字を採用したに過ぎない、ということです。7という数時にそれほどウェイトが置かれていないのは、実際に7を重視しない思想状況だったのか、それとも中有を重視しない仏教的な抑制が働いた結果なのか、残念ながら私には判別できません。
ただ、倶舎論にはこれ以外に興味深い点もあります。中有を経た後、母親の体内に託胎して新たな人生が始まるわけですが、その期間(母親から言えば妊娠期間)が7日を単位とする5つのグループ(託胎から数えて第1週~4週がそれぞれ独立した1期間とされ、残り34週間が第5の期間)と分類されているのです。
死後と生前についてそれぞれ7日が出るところをみると、どうやら、7という抽象的な数字が何か数秘的意味合いを持ったというよりは、人という動物の生態の変化を7日を単位として見る感覚があったのではないか、という類推は可能ではないか、と思えます。もちろんそれを言い出すと7日ごとの月の変化とのアナロジー、従って古代ローマにまで遡る暦の成立と伝播うんぬんという事から考えないといけないのでしょうね。
私自身は、7という素数がその大きさの手頃感からいろいろに理由づけの根拠として採用されたのではないか、という気がしていますが、あまり根拠はありません。
ユングについて言えば、49日という期間の想定を念頭にアーキタイパルと評したのではなくて、「死者の書」に描かれるような「光明に溢れた人格との遭遇」といったイメージを評したもの、と私は理解しているのですがどうでしょうか。
ピンチョンについて言えば、「競売ナンバー~」の創作された時代背景、特に彼はそれを十分に相対化しているとは言えカウンターカルチャーの大いなる影響を考えれば、志村正雄氏の言うように「49」に「死者の書」が引かれている可能性は十分にあるのでしょうね。もちろんピンチョンについて頭の中はおろか私生活すら誰も確認はできないことですし、その真偽に関わらず作品の秀逸さは変わるわけではないわけですが。
とりあえず短時間で書き散らしたような回答ですが、参考になる部分がもしあればご活用下さい。ピンチョンの30年来のファンとして、彼にわずかでも関連した回答ができたことは大変光栄です。
投稿日時 - 2003-09-11 22:54:44