徳島と 北朝鮮、拉致、朝鮮総連、核ミサイル、よど号、中核派、赤軍派、チュチェ @
裁判も近いので、徳島について、事実関係の整理
まとめメモ、雑記
よど号と、拉致 神戸と徳島の闇 メモ
神戸から拉致された、1983年7月頃 拉致されたのは有本恵子さん
1979年の4月、家正治(キムジョンイル著作研究会全国連絡協議会代表世話人)が神戸市外国語大学の教授に就任。
同大学生だった有本恵子さんがロンドンから拉致されるのは、この4年後である。なお、有本さんは須磨高校の(当時)朝文研に所属。
有本恵子さんが拉致された
その2年後、1985年 川西市から神戸の大学に通う秋田美輪さんが
神戸で拉致されている
有本さんを拉致した八尾恵は、1977年 よど号犯人の柴田 泰弘と
結婚している。
柴田泰弘が北朝鮮からに日本に戻って、工作活動を開始したのが
1985年、春
その年の12月に 秋田美輪さんは、神戸で拉致されている。
八尾恵が尾上健一によって引き入れられたチュチェ研究会の主要メンバーであった複数の女性活動家は、八尾と同じく、北朝鮮で「よど号」グループの「妻」となっている。
神戸市立須磨高校
学生運動が、当時、関西で盛んであり、高校にも波及していた。
1969年当時は高校も学園紛争の嵐に見舞われており、高校生の活動家は珍しくなかった。
関西でも過激派に参加する高校生は数多く、その中でも柴田が在学していた神戸市立須磨高校は過激派(ブント)の拠点として有名で、1969年9月には正門がバリケード封鎖された。
関西は元々共産同(ブント)の強いところで、京大、同志社、大阪市大、桃山学院大などがブントの拠点だった。
柴田氏も高校生ながらブントの一員であり、赤軍派がブントから分派した後は、同派に移行した。
関西のブントは赤軍派とそのシンパが多数派で
ちなみに高校赤軍は約70名いた。
赤木邦弥の妻・美智子は、よど号乗っ取り犯人の赤木志郎の妹ですが、彼女は有本恵子さんと同じ「神戸市立須磨高校」を、昭和47年(1972)に卒業しています。同じく乗っ取り犯で一足早く帰国して、既に服役を終えた柴田泰弘(八尾恵の元夫)も彼女と同級生でした。有本恵子さんとは7年の差があるので、学内で一緒になったことはないはずです。
2007年の記事
70年の日航機「よど号」乗っ取り事件で北朝鮮に渡った元赤軍派メンバーらに87年に合流したとされる赤木(旧姓・米村)邦弥容疑者(52)=旅券法(渡航制限)違反容疑で逮捕状=が5日午前、北朝鮮を出て北京空港に到着した。同日夕、関西国際空港着の航空機で帰国する予定。警視庁公安部は、赤木容疑者を確認し次第、同容疑で逮捕する。
柴田泰弘
有本恵子さんが青春時代を送った「須磨高校」は、赤軍派によるバリケード封鎖を経験しています。更によど号事件発生と同じ年(昭和45年)9月28日には、同メンバーによる焼身自殺が発生しました。自殺した学生は、北朝鮮に渡った柴田の1年先輩で、柴田と同じ柔道部に所属していました。あまりにも重複事項が多く、「須磨高校人脈」は疑わざるを得ないのです。
柴田→有本恵子さんへと繫がる教師の情報があるそうです。現在その教師は、持ち家をそのままにして、長期間海外に滞在しています。
神戸市立須磨高校の教員が何等かの形で関与していた可能性がある
(救う会 兵庫のブログより)
1970年に神戸市立須磨高校一年の 柴田 泰弘は、最年少でよど号事件に
関与した。 その後、1970年(昭和45年)3月には日航機「よど号」を乗っ取り、北朝鮮に渡った
1985(昭和60)年春、よど号犯の一人、柴田泰弘が日本に
降り立った。10数年前に北朝鮮に渡った中尾晃という人物になりすまし、その印鑑や戸籍謄本、健康保険証も持っていた。これで国内でも大手を振って仕事ができる。
柴田は現役会という高校生の進路指導の仕事を始めて、多くの高校生の住所、氏名のリストを入手した。さらに、身よりのない子供たち
の養護施設へのボランティア活動にも関わった。将来の革命戦
士を見つけ、育てていく為の巧妙な罠である。
しかし、88(昭和63)年5月6日、柴田は兵庫県警に逮捕された。
柴田 泰弘
1969年、神戸市立須磨高等学校に入学。その頃赤軍派に参加し、大菩薩峠事件に関与した
1970年3月31日に仲間8人とともによど号ハイジャック事件を起こした際には、グループ最年少で高校入学してから約1年の16歳の少年であった。北朝鮮に亡命後、1977年5月4日に八尾恵と結婚、娘2人をもうける
1990年代後半に離婚)。
1985年春によど号グループ最高幹部の田宮高麿から革命のために日本で人と金を集める命令を受けて極秘帰国
他人になりすまして潜伏活動をしていたが、1988年5月6日に兵庫県警外事課により偽造旅券の疑いで逮捕
指紋の照合でよど号メンバー柴田であることが確認される。よど号メンバー初の逮捕であった。
よど号事件で強盗致傷、国外移送略取罪等で起訴され、1990年12月20日に東京地裁で懲役5年の判決が言い渡される。上訴をするも1993年11月に懲役5年が確定、刑務所に収監される
未決拘置期間を差し引いて、1994年7月21日に出所
大阪市内で一人暮らしをしていたが、2011年6月 病死。
「よど号」グループに下された金正日の「親筆指令」のなかには、次のようなことが述べられている。
「軍隊(自衛隊)工作も含め、あらゆる戦線で軍事クーデターを準備せよ! 軍にいる人間を獲得し、さらに、育成して送り込め! そして軍事クーデターに必要な人間をあらゆる要所要所に配置せよ!」
ここで重要なのは「育成して送り込め!」という部分である。実際、「よど号」グループが注目し、実践に移そうとしたのもこの部分だった。メンバーの一人、柴田泰弘が国内に潜入した任務も、ここの部分の比重が大きかった。
彼らが考えたことは、国内で年若い青少年を選び、出身や身元の調査(北朝鮮の工作用語で「人定了解活動」という)を終えたのちに、身元(北朝鮮の用語で「出身成分」という)が問題なければ北朝鮮に送り込む。北朝鮮で思想教育を受けさせたのち、日本に帰国させる。この段階で問題を生じたケースでは、そのまま「拉致事件」になるケースもあった。日本国内から10代の青少年がそのまま消息を絶つことになる。
思想教育あるいはブレーン・ウオッシング(洗脳)がうまくいった場合には、若者は日本に帰国させられ、指示に従って防衛大学校を受験させられる。仮面の下に金日成思想を隠した将来の幹部候補生がひとり誕生する。防衛庁および自衛隊に潜入工作員が送り込まれたことになるのである。
この潜入工作員は、普段は普通の隊員として目常生活を送り、自ら金日成主義の思想を語ることもなければ、それらしいそぶりを見せることもない。金日成主義の工作活動員にとって、自らの思想信条を明かさないことは工作活動上の鉄則である。ひそやかに、ゆっくりと工作員は培養される。そして、ある決定的な事態が引き起こされたとき、この工作員は、はじめて自分の任務を果たすことを要求される。
実際、そのような形で「よど号」グループの手によって北朝鮮に送り込まれた人間は多数にのぼる。彼らの日本人獲得工作の秘められた、もうひとつの真の意図は、そこにこそあった。これは、彼らの政治組織拡大のため、「中堅幹部養成」要員としてヨーロッパ留学生を「拉致」していた事件とは、はなはだしく事情の異なる工作の一面だった。
国内に潜入していた柴田泰弘が、「現役会」と称する高校生対象の進路指導の会に指導員として潜り込んでいたのも、じつは、そこに狙いがあったようである。
この工作活動は、'80年代の前半に、主として北朝鮮と日本を往来していた「よど号」の「妻」たちによって担われていた。当時の獲得者の何人かは、すでに自衛隊内部で幹部の地位にいてもおかしくはない。
八尾恵
八尾恵は1983年有本さん拉致に加担した後、日本に戻り、横須賀で防衛大学学生を相手にするスナックを開き、自衛隊内に金正日政権のスパイを作ることを目的に活動したが、日本警察の捜査能力の高さで、そのたくらみは露呈し彼女は逮捕される。しかし、スパイ防止法がないため微罪で終わる。
「よど号」ハイジャック事件犯人 柴田 泰弘の妻となり、
有本恵子さん拉致を実行した 八尾恵という女性の『謝罪します』(文藝春秋社)という本の中に、彼女をオルグし北朝鮮行きを指示した人物として、日本青年チュチェ思想研究会のリーダー・尾上健一 の名が出てきます。
彼は《何度も北朝鮮へ渡航して、朝鮮労働党から直接指示を受けて日本で活動しているようでした。労働党から勲章もいっぱい受け》(『謝罪します』p.45)
(八尾恵・「謝罪します」文芸春秋刊から)
「日本青年チュチェ思想研究会」のリーダーは尾上健一という人物でした。彼は群馬大学医学部の学生でしたが、大学を中退したと聞いています。現在は日本キムイルソン主義研究会常任委員長兼チュチェ思想国際研究所事務局長です。
彼の著書『輝かしい未来、あたたかい愛情』によると、学生運動の挫折を経て、新しい運動を模索している中で、被差別部落、在日朝鮮人やハンセン病といった社会の矛盾に関心を寄せていったそうです。
草津の栗生楽泉園というハンセン病療養所で多くの在日朝鮮人の患者に出会い、「朝鮮について学ぽうとするなら、南だけでなく北について知らなくてはならない」という助言を受けて、七一年十月に朝鮮総聯群馬県本部を訪ねたということです。
総聯青年同盟委員長から渡された『金日成伝』に感銘し、その年の十二月に群馬大学医学部校舎で、金日成主席の現地指導に関する記録映画『人民とともに』を上映し、これがチュチェ研の前身の「群馬朝鮮問題研究会」の結成になったと記しています。
七四年五月に日本青年チュチェ思想研究連絡協議会第一回総会を開催。青年チュチェ思想研究会を全国に組織化する方針が出され、「派遣と移住」による活動で三年の間に日本全国で百を超えるグループができたということです。
尾上氏は何度も北朝鮮に渡航して、朝鮮労働党から直接指示を受けて日本で活動しているようでした。労働党から勲章もいっぱい受けていました。
私が大阪に来てすぐの頃、大阪支部での学習会に尾上氏がやって来たことがありました。彼は指導のために全国各地を飛び回っていました。ミーハーな私は、幹部の人から尊敬されている創始者に会えると期待に胸を膨らませました。
尾上氏は、眼鏡をかけた丸顔の三十歳前後の男性で、落ち着いた話し方をする、どこにでもいるおじさんのような人でした。私は尾上氏と二人だけで話すチャンスに恵まれました。
「どうして研究会に入ることになったのですか」
面接のように、彼は尋ねてきました。
「やたら元気いっぱいでいいですね。その元気さを活かしてください」
チュチェ研会員は、生真面目な雰囲気の人が多く、何でもジョークでおもしろく返そうとする傾向のある私は異質な人間でした。明らかに浮いていました。
尾上氏からは「感心ですね。一緒に勉強しましょう」と、言われたことも記憶しています。
七月の終わり頃、世間では夏休みに入った頃でした。チュチェ研の合宿が修善寺の寺で行われることになりました。私は専門学校の実習勉強などで忙しく、はじめは行くつもりはありませんでしたが、説得されて参加することにしました。
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尾上健一
68年 兵庫県立東神戸高校卒の
尾上健一は、群馬大学で、中核派に所属していた。中核派を離脱後、群馬ハンセン病訴訟をきっかけにチュチェ思想に心酔する
1974年(昭和49年)、尾上健一(青年チュチェ研事務局長)、大広直(教職員チュチェ研事務局長)、花輪不二雄(自治労・世田谷区役所・全国チュチェ研事務局長)、栗木安延(専修大学教授・故人)。この時、北朝鮮から日本での活動方針を指示されている。
1978年(昭和53年)
チュチェ思想国際研究所が東京に設立
この研究所の活動範囲は、世界を対象としたもの。
尾上健一事務局長、理事長井上周八(立教大教授)、他に事務局員数名が専従。そのうちの一人が森泰人(もり・ひろと)。森は日下美恵子(みえこ)と結婚、夫婦でスペインに行き年3回日本を往来。日下と離婚後森はオウム真理教の信者となる。(詳しくは2000年8月21日、28日「週刊現代」合併号”『オウム真理教と北朝鮮』の闇をといた”を参照)
この研究所の維持費は全て総聯から支出されている。
金子恵美子は、新潟の責任者だったが既に出国、後任が森氏の元妻の日下美恵子である。新潟のメンバーには、倉田、はたの末子、平柳まゆみなどがいた。
「金日成主義を指導理論とする『前衛党』」
92年4月29日「赤旗」から
1980 年から81年にかけて、日本の金日成盲従集団は「日本金日成主義研究会」という団体をつくりました。前回のべた「自主の会」という組織との関係は、彼らによると、「自主の会」は大衆的な運動体で「かならずしも主体思想を学ばない団体も網羅」するが、「日本金日成主義研究会」はいわば「中核の育成」をはかる「前衛」の役割を果たすものだとのことです。「日本金日成主義研究」規約は、この会の「根本目的」を「現時代の唯一の指導思想である金日成主義を深くかつ系統的に研究し、日本人民の自主偉業の発展のために、もっとも正しく寄与していくこと」としています。そして会員は金日成主義を半年以上学んだ個人とし、会費の納入や研究会参加を義務とします。組織形態は全国委員会を最高決定機関とし、その常任委員会の下に地区委員会をおくという中央集権的なものです。つまり、金日成主義を指導理論とする「前衛党」を日本につくろうとしたのです。その全国委員会の報告文書はいつも、機関紙「金日成研究」に発表されています。しかしあの「自主の会」同様に、この研究会の機関メンバーは公表されていません。ただ、報告や論文の肩書きから、 尾上健一がその常任委員長だということだけが公然化しています。82年4月、金日成は、その70歳の誕生日にあたっての演説で「現時代は自主性の時代」として「全世界の自主化」をとなえました。日本の盲従組織の責任者の尾上も、この年平壌で金日成に接見され、「日本の自主化」の任務を直接授けられます」(石橋委員長歓迎宴での金日成演説)
1979年(昭和54年)
日共から金日成の個人神格化を批判され「自主の会」を「日本キムイルソン主義研究会」と呼称を変え非公然化し、「自主の会」を公然化する。
これらを掌握しているのが 尾上健一。北朝鮮の社会科学者協会と直結。
※ 青年チュチェ研は日本赤軍との関係が噂されている。尾上は平壌で日本赤軍の塩見孝也(自主日本の会)と密会していたと噂あり。
※ この年の4月、家正治(キムジョンイル著作研究会全国連絡協議会代表世話人)が神戸市外国語大学の教授に就任。同大学生だった有本恵子さんがロンドンから拉致されるのは、この4年後である。なお 有本さんは須磨高校の(当時)朝文研に所属
1987年(昭和62年)
教職員チュチェ研の全国集会を県教組が中心となって開催。
その年、県教組委員長を団長として訪朝団が組織される。また、80年から県教組は毎年の恒例行事として、朝鮮学校の授業参観を2月11日に「民族教育の日」として行うようになり、現在も続いている。実質、チュチェ研と日教組は組織上の関係はないが、会員は日教組組合員で、歴代会長は日教組幹部経験者がやっている。
12年間にわたり日教組委員長として君臨した槙枝元文は、「私は訪朝して以降、世界の中で尊敬する人はだれですか。と聞かれると、真っ先にキム・イルソン主席の名前を挙げることにしています。」と2002年の金正日総書記誕生60年の祝賀メッセージで述べている。 THEMIS2003年3月号・・自衛隊を否定してきた槙枝氏だが、「強い軍隊を率いることは国の自主性を堅持する上で欠かせないこと」と、北の軍備には理解を見せている。
91年には北朝鮮から「親善勲章第一級」を授与されている。
2001年、主体研に初の家宅捜査
2001年9月18日、北朝鮮から帰国した「チュチェ思想研究会」(「自主の会」の前身)所属だった金子恵美子(よど号・赤木四郎の妻)の逮捕後、9月27日、10月5日と二度にわたる家宅捜索は、上の住所を含む七箇所に及び百余点の資料が押収された。
これを機に、主体研メンバーの警察対策が強化されたと思われる。具体的には、核心メンバー間での「住民票の交換」等の、家宅捜索対策と言われている。
2003年、訪朝
尾上健一・主体思想国際研究所事務局長一行、2003年4月に金日成誕生日である太陽節(4・15)に合わせて訪朝。尾上健一事務局長は14日、人民文化宮殿にて講演。
2004年10月9日 サンシャインシティ文化会館にて。
朝鮮社会科学者協会代表団(団長金哲浩、李幸浩、金三鍾)、 チュチェ思想研究会全国連絡会・花輪不二男事務局長(社民党都連都民運動局長/世田谷地区労顧問)、東日本国際大学・鎌倉孝夫学長、 日朝友好連帯埼玉県民会議・吉田昭次副議長らが参加。また、
集会後、朝鮮社会科学者協会代表団、在日本朝鮮人総聯合会中央本部の徐忠彦国際局長、チュチェ思想国際研究所の尾上健一事務局長、日本朝鮮文化交流協会の清水潤事務局長、関東学院大学の大内憲昭教授、朝鮮大学校のハンドンソン助教授、笠井博之・加須市議などが参加して懇親会がもたれました。 (「チュチェ思想」2004年11月号)
注目すべきは朝鮮社会科学者協会代表団の一員であり、朝鮮社会科学院経済研究所所長の李幸浩が参加していることだろう。北帰者である李幸浩は、金日成総合大学で金正日の同級生。元通産省通商産業審議官・細川恒が李幸浩と京都府立桂高校での同級生。田中均は京都府立洛北高校出身だが、京大時代の先輩・細川と親しい関係にある。そのため金正日の「知恵袋」「事実上の側近ナンバー1」とも呼ばれ、田中均の「ミスター X」との噂高き人物でもある。
訪朝
2005年1月8日、
尾上健一・主体思想国際研究所事務局長一行が平壌に到着。
現在
尾上健一は 豊島区東池袋に出版社(白峰社)を構え、北大塚に託児所(つくしんぼ保育所)を経営。また、これまで経営していた池袋西口ロサ会館付近の飲み屋(「きさらぎ」→「竹」)は2004年時点で閉店が確認されている。
池袋にはまた部屋(事務所)を二ヶ所(一説によれば三ヶ所)に持っており、練馬の自宅マンションは9階ワンフロアー(100坪)規模である。
なお現在では、黄長Y亡命以降の井上周八らとの大論争の末、尾上健一が全国チュチェ研の実権を完全に掌握したとみられる。
饗場和彦(徳島大学教授)
篠原晴美
四国チュチェ思想研究連絡
会の名田隆司事務局長
日本キムイルソン主義研
究会の海老沢靖彦会長
神戸市外国語大学教授であるキムジョンイル
著作研究会全国連絡協議会の家正治代表世話人
チュチェ思想研究会全国連絡会の佐久川政一会長
日朝国交促進国民協会の村山富市会長、 徳島市長の小池正勝氏、 参議院議員の清水澄
子氏と高橋紀世子氏、 衆議院議員の仙谷由人氏、 山口俊一氏、 遠藤和良氏、 七条明氏
<北朝鮮>日本の主体思想研究会が訪朝
2012年2月17日 15:55 twitter.gif facebook.gif
◆「金正恩閣下と共に永遠にチュチェの道を歩く」とメッセージ
朝鮮中央通信は16日、日本の尾上健一主体思想国際研究所事務局長らが、故金正日氏の生誕日に合わせて平壌を訪問したと報じた。
同通信によると、尾上氏の他、家正治氏ら日本金正日著作研究会の代表団も訪朝し、「金正日花祝典」場を参観した
追加致しました。 投稿者:水泡 まつ太朗 投稿日: 1月22日(月)07時54分53秒
>for communismさん
白峰社サイト追加しておきました。そう言えば「自主の道」などの版元は白峰社でしたね。
しかし日本でのほぼ全てのチュチェ(主体)思想系団体を尾上氏が握っているとは。彼がそんな重鎮だとは知りませんでした。
拙サイト「ひだりんく」
(「現古研」リンクの方が遙かに充実していてめっきり更新サボり気味&粗い分類)
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/6529/marukyo/
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ingnet 投稿者:for communism 投稿日: 1月22日(月)06時37分44秒
I visited the "ingnet" website from your links page. These people are clearly burnt-out ex-Marxists. In this historical epoch of counterrevolution there are a number of such exhausted ex-revolutionary people who are retiring from politics.
They have no significance at all, but we must be careful of the demoralised influence from these burnt-out people.
http://homepage2.nifty.com/ingnet/
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mistake 投稿者:for communism 投稿日: 1月22日(月)06時07分59秒
>The 尾上健一 clique own a kindergarden and hospital in 豊島区.
The 尾上健一 clique owns a kindergarten (not "den") and a hospital in 豊島区.
Comrade 水泡 まつ太朗, please add 株式会社白峰社 to your link.
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尾上健一 投稿者:for communism 投稿日: 1月22日(月)05時58分41秒
尾上健一's company
株式会社白峰社 http://www.hakuhousha.co.jp/
other groups:
チュチェ思想研究会全国連絡会 (会長 佐久川政一) the umbrella organisation to which most Juche groups belong. The President is Professor 佐久川政一 but in reality controlled by 尾上健一 and his clique.
キムジョンイル著作研究会全国連絡協議会(代表世話人 家正治, the real leader is 尾上健一)
日本教職員チュチェ思想研究会連絡協議会 (会長 清野和彦)
日本キムイルソン主義研究会 (会長 海老沢靖彦, the real leader is 尾上健一)these groups belong to チュチェ思想研究会全国連絡会.
自主の会 (幹事長 尾上健一) other names are "Okinawa no kai" etc
チュチェ思想国際研究所 (理事長 ビシュワナス/事務局長 尾上健一)
Most Juche groups is Japan are controlled by the 尾上健一 clique with some exceptions.
My friend was working at 白峰社, but purged by 尾上健一. The 尾上健一 clique own a kindergarden and hospital in 豊島区.
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「自主の旗」発行元 投稿者:水泡 まつ太朗 投稿日: 1月22日(月)04時43分58秒
月刊誌「自主の旗」、季刊誌「自主の道」の発行元は「自主の会」という団体で、チュチェ思想系団体「日本キムイルソン主義研究会」の大衆組織です。中心となっているのは両団体とも尾上健一氏など。
「自主の会」の方は社民党(及び旧社会党)などと選挙協定を結び支援したりもしているとの事。
「日本キムイルソン主義研究会」サイト
http://www.cnet-ta.ne.jp/juche/
実は有本恵子さん。
当時ですね。
通っておりました学校がですね。
神戸市立の外国語大学なんですね。
ここから200メートルほど山側の方に行きましたところにですね。
神戸にはもう一人の拉致認定者がおりましてですね。
田中実さん。
養護学校がこの200メートルほどしか大学と離れていないんですね。
その上へ持ってきてですね。
有本恵子さんがですね。
通っておりました神戸外国語大学、有本さんは一部・二部の二部の方ですね。
所謂、我々の年代で申しますと夜間と申しましてですね。
夜の方に行ってたわけですね。
当然ですね。
当時の所謂ローテーション、シフトを見ておりますと、大学の先生方というのはですね。
一部担当と二部担当とに分かれていたようでございます。
これも私も少しばかり調べました。
その二部の担当のですね。
国際法というところにですね。
現在、金正日著作研究会連絡協議会の代表世話人、これが二人、鎌倉孝夫ですかね。
これと一緒に代表世話人をしている家正治ですね。
これがですね。
当時の二部の担当の教授なんですね。
教授ではなかったまだ当時は、京都大学を出てすぐに神戸外大の講師か何かになるんですが、まだ当時は教授じゃないですね。
この家先生でございますですね。
極めて怪しげな有本さんとの接触をしているわけですね。
まだ有本さんの事が、それ程世間に流布されていない。
それでも有本さんご両親ですね。
非常に積極的に様々な集会に出られてですね。
お訴えをされていたんですね。
そこにですね。
いきなり名刺持って来られた方がおるんですね。
その集会に参加されていた方が名刺持って来られてですね。
そんな方たくさんおられますから、一つ一つ覚えていないんですね。
ただお父さんがですね。
非常に珍しい名前だったから、覚えておられたんですね。
それから神戸市の外語大学なんかで、私も一緒にいろいろ活動をしまして、所謂同窓会。
そういう組織が動いてくれましてですね。
有本さんは2回3回ほど、神戸外大で公演等を、そういう集会等も行っておられます。
で、有本さんが拉致認定されてですね。
小泉訪朝があってですね。
有本さんの事がいよいよ明白になったと。
ですから訪朝後半年、一年も経ってなかったくらいだったと思うんですけど、今度突然にですね。
有本さんの家に手紙が届くんです。
で、これも有本さんのお母さんですね。
そういう手紙、全国からたくさん参りますので、特別覚えていないわけですね。
たまたま私がですね。
この家先生というのはいかがな人なんだ?と、言うような事でいろいろと、それなりにうろうろうろうろしておりましたらですね。
その集会の折に、有本さんご両親がたまたま揃っておりましてですね。
そこでこの家教授の話をしたわけですね。
お母さんからそういう話があったんですけどね。
「その人だったらこの前手紙が来たよ」とそこで初めて話が出るわけですね。
でそこで、今度はお父さんがですね。
「それ、覚えとるで」と。
「そんな変った名前の人はそんな多くは無いから、昔集会来とって名詞出したの覚えとる」
こういう話なんですね。
野村先生、中々の人物ですよね?この家先生という方は。
★野村旗守氏
ええ、謎の人物ですよね。
★岡田和典氏
でねぇ。
そんな方がわざわざ、どっちかと言えば拉致問題なんて話にですね。
世間で言ったら、我々は当たり前の大事な運動をしているつもりなんですけども、この拉致問題が明らかになる前はですね。
どちらかといえば、ああいうところに集まる人というのは真ん中というよりちょっと右じゃないかと。(笑い声)
世間では思われているような集会でございますよね?
★増元照明氏
よく反動勢力と言われて・・・(笑い声)
http://blue-jewel-7.cocolog-nifty.com/blog/cat2026353/index.html
2006年 冨田眞由美
中日韓の歴史教師、
北京で初めて開かれた歴史教育経験交流会
2007年 1月
徳島市中前川町3丁目の徳島中学校で社会を教えている冨田真由美さん(52)と英語を教える田所寿美さん(41)は4月から、毎週水曜日の2年生の総合学習でイラク問題を取り上げている。
冨田さんが冷戦終結後からイラク戦争が起きるまでの歴史的経緯を教えた後、田所さんが米国の少女の反戦スピーチを邦訳したものを配り、生徒に朗読させている。生徒の関心は低くないという。
2人はこう口をそろえる。「教師も生徒も戦争を知らない世代。ともに現実に起きていることから学ばないといけない。改憲や多国籍軍参加の動きがある今だからこそ、必要なことではないでしょうか」
2003年
小原伸二 徳島市教職員組合書記長
2007年11月30日 連合徳島 会長 川越敏良
連合徳島 副会長 富田眞由美
反差別(韓国)研修 2008年11月20〜23日
部落解放・人権徳島地方研究集会実行委員会
連合徳島会長 川越敏良(実行委員長)
冨田眞由美
tokushima.jtuc-rengo.jp/hansabetu_kankoku_houkoku.pdf
独立行政法人 ポリテクセンター徳島
平成20年度(2008年)
平成21年度(2009年)
徳島県独立行政法人雇用・能力開発機構運営協議会委員名簿
川越 敏良
日本労働組合総連合会
徳島県連合会 会長
冨田 真由美
日本労働組合総連合会
徳島県連合会副会長 女性委員長
平成22年度(2010年)
平成23年度(2011年)
冨田 真由美
日本労働組合総連合会徳島県連合会 副会長女性委員長
篠原晴美
公益社団法人 徳島地方自治研究所顧問(元理事長) 篠原 晴美
「朝鮮の自主的平和統一を
支持する徳島県民の会」の篠原晴美会長(北朝鮮の工作機関と指摘される朝鮮対外文化連絡協会との間で交流促進の合意書に調印した「日朝文化交流協会」
2012年9月
県教組(小原伸二委員長)は4日、県内外258筆の団体・個人署名を添え、名誉毀損容疑などでも送検、不起訴処分になった20〜60代の男女19人を起訴するよう
求める要請書を徳島地検へ提出した。
2000年、徳島自治研の篠原晴美代表が金剛原動機発電機を寄贈。
金剛原動機合弁会社(徐錫洪社長)が、県民の会が贈った募金で発電機を製造 篠原会長から寄贈目録を受け取った高委員長は、募金した県内二百五十の個人・団体の名簿にも目を通し「このような厳しい時期に支援をいただき、勇気づけられた。徳島県の人たちの気持ちは一生忘れられないものになる」と礼を述べた。
2007年、北朝鮮のフォンブラウン博士と呼ばれる、徐錫洪博士、北の核ミサイル開発に関係があるといわれる人物に逮捕、家宅捜索
朝鮮総連の関連団体「在日本朝鮮人科学技術協会」(科協)の顧問を務めており、ロケットエンジン開発の権威とされ東大工学部卒業後、自動車技術やエンジンの専門研究機関勤務を経て、北の「金剛原動機合併会社」の経営にも携わった
連合徳島で、冨田眞由美氏が副代表、川越敏良氏が代表、
神戸の有本恵子さんを拉致したよど号の妻、八尾惠らを北朝鮮に送った人物、元中核派の尾上健一(北朝鮮で日本赤軍、よど号犯人と接触)と川越敏良は、ともに21世紀自主フォーラムの代表
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2013-10-17 01:54
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