日記 2013年10月17日〜$月$$日

10月21日 夜

 箕面で服とずぼんを買う。滞納光熱費は支払う。あとは、ネット代のみ。家賃の請求もいずれくるだろう。引越しもたいへんだ。凍結口座をやっと解約する。担当が、宮崎なんたらという女優に雰囲気が似ていた。それが面白かった。

 極貧から貧へ。手持ちのお金もなく、買うことを許されたものを買い、最低限の暮らしをするのが、新生活だ。当面は、何の希望もないが、我慢。耐え忍ぶ。

 池田は人が冷たい

 たまに東大阪の生活を思い出す。人々は明るくて、融通がきき、物事に明るくて、よかった。店、団地のポスト、モール。どこを思い出しても、暖かい人がいた。が、ここ池田は寒すぎる。冷たい風が吹きさらす。実際に、山上で寒い。が、実感はそれ以上に、人が冷たい。そんなイメージだ。私は、なぜこんな寒々としたところにいるのか? 

 なぜ、私はここにいるのか?

 いまだに理由が見えない。私にそれを教えるべき守護は、示唆をくれない。私も求めてないから。はっきりといえることは、人生上、これはベストとはほど遠い。これは10次元の平均的な視点でだ。こういう一種、牢獄に似た状況を体験させることにこだわるのは、生まれて三千年しか生きてない霊くらいだ。私は上の観点はチェックずみ。

 自分で人生を選んでない、というのが真理

 人生は、守護霊が決めている。人間に一つも決定権はない。それが真理だ。裁量権すらない。というわけで、それに不満をもつと、他の信頼できる見地を頼ることになる。私は、他惑星の視点を得て、最善の人生を見極め、それへと進む。守護霊はあてにならないからだ。彼が強制する低い世界に、長く住まわせられるのはごめんこうむる。

 自分で自分の人生が決められるようになったら、好きなようにやるさ。彼の提案は見向きもしない。だから、私はそれから、すばらしくなれる。

 表面的には、私の失敗だ。厳密には、支援を受けられなかったことが致命的で、その点での失態だ。が、私はこうい現実が、本当の原因だとは、信じてはいない。なにしろ支援を集める係は、私に従わないで、守護霊にひれ伏し、彼の下僕となり、まったく集めなかったから。私は、私の部下である見えない集金係たちに、たくさん集めるように指示していた。が、彼らに裏切られたのだ。だから、東大阪をあとにすることになった。それが真相だ。彼らは政権を強引に奪うほど計画立案の才能はあり、その通りに現実を操作できる。彼らが真剣に私の命に従っていたら、今頃、こんな山中にこもっていない。

 

よって、彼らを更迭した。その名をケネディという。また日本では田中という。田中は地位がなく、また順番で彼にかわった。私の守護がそう意図したなら、彼らが逆らえないのも、真実だが。つまり、私は守護の計画により、今ここにいる。なぜこにいるか。彼の口からきくことにしよう。

10月20日 夜2

 日曜なので、単純作業を行う。難しいことを考えない。音楽をききながら。

私を待つ人々

 一部の人たちにとって、私はもはや伝説。国内に過去にも私と比類する霊能者はいない。大きくなった私の活躍を期待する人々は大勢いる。私の救済を待つ人々も多い。

 彼らの話をしよう。私を救世主と勘違いする人々もいる。が、私は違う。ユダヤの救世主はつきとめた。油にまみれ、戦争がない平和な時代に現れる神の子だ。それは私ではない。彼はモーゼの子で、25-27世紀にオーストラリアに生まれ、預言者となり、ユダヤを神のもとにおく。彼とも交信した。

 私の活躍を期待するのは、今に生きる素朴な人々だ。私の友人であったり、ファンであったり、将来私が出会う者達だ。また私の同類も、そんなことを願う。本当の私をしっている人は、しょげている私を見ても、演技としか思わない。

 私はちっぽけな人間ではない。私が私らしくふるまってくれないと、彼らもがっかりする。自信のない私など、彼らには悪夢でしかない。それは現実にはないのだ。

 圧倒的な私

 川西のビルのベンチで休んでいた。どこからともなく、「大きくなって戻ってきたな。」 と音声送信が聞こえてきた。確かに。池田から出た2008年頃は、電波被害でやられるだけ。霊能者としては地下で有名だったが、何の力もない人物だった。

 今は、驚くほどの力をもつ。アカに倍返しをすることも、店に客を呼ぶことも指先をはじくくらいの手間でできる。私が有名となると、言論で社会的な影響力をもつ。そのくらいは想定していた。が、さらに商店の一つ一つ、どんな日本の片隅の個人にも影響力を行使できるようになるとは、私の想像を超えていた。まったく無名の状態で。私は圧倒的だ。

 私の力=現状の力を把握しなくては

 私のシステム。その詳細を把握しなくてはならない。巨大化しすぎた構造。私の力が及ばない部分、そして影響下にできる部分を。世界を掌握したように思っている。が、実際は、まだまだそれが実現できてない。それを強く自覚しなくては。だから、ここ池田に戻ったのではないか。

 私にとって東大阪と八尾とは

 宇宙との交信は、どこでもできる。異星の王も言っていた。私が池田にいても、東大阪にいても、かわりがない、と。八尾で見たのは若い異性の同僚か友人だった。私は池田に引っ越して、彼らから一時離れ、山にこもった。さびしい土地に移動した。寒い僻地に飛ばされた単身赴任者のようだ。ここで成果をあげないと、あの明るい楽しかった土地に戻れない。がんばらなくては。

 徹底的に

 私は支持を失い、家をあきらめ、ここ山中で休むこととなった。巨大なシステムをもつ私が、なんという不覚。その力の数万分の一でも、報酬を得たら、私は貧乏に落ちることはなかった。私からの恩恵と思わせることが十分にできなかった。そう思わなかった者達に、気づかせなくては。

 すべてを私の手の中に一度おいてみよう。彼らからすべてを取り上げて。

 

10月20日 夜

 日曜。実家でやっと落ち着いてきた。Face book 登録中。私には自分にも知らない日程が決まっている。あわてても、あせっても、先にすることを今できるわけではない。古いPCで読めなかったサイト・ブログを読み漁る。

精神世界ランキングのブログをチェック。どこもたいしたことを書いていない。巷にあふれる霊能者達。みんなあぶく。消えてなくなる。

死後を認める者と認めない者の差

 宗教は、今や霊を扱うものだ。霊の真実を記すものが極端に少ない。もうひとつは、人が霊になることを見越して、生き方を示すもの。人間の生き方、霊となる者としての人間の生き方を示す。この違い。それを厳密に明らかにすることが必要だ。

 つまり、死んで終わる者と死後も霊となり生きる者。その違いを。死で終わる時、その生き方を極めると、どうなるか? 死んでも生きる者。それを極めたら、どうなるか?

 永遠に生きる者は、自己の完成=能力の最高を目指す。が、短い一生ではそうはなれない。道半ばで、死が訪れる。霊となり、その後を行う。あの世で成長して、やがては神々(霊界から人間世界や霊社会を管理する者)の一員になる。

 では、死で終わる者は? いかに自分や一族が栄えるか、自分の国が栄えるかが彼の関心となる。肉体は平均90才まではもたない。その中で、自分の欲望を最高に満たす。もしくは、自分の願いを実現する。そに執心することになる。

 実業家が老いて、財産を子孫に残すことに、細心の配慮を尽くす。自分の業績に満足しながら。それが彼の最高の人生(生きた証)だ。ただ物質しか信じないから、自分が築き上げた富・財産など物質的なものの行方にのみ、彼は関心があり、それが彼の最後の仕事となる。そして、彼は死にゼロになる。

彼は死後の準備はしない。彼にとって、死後どうなっているかはどうでもよい事柄だ。彼は無になると信じている。 これは、死後の理解の是非はともかく、彼は最期をよく処した、といえる。

 ただ、実際には、死後があるから、彼ははじめの頃に大きな挫折感を味わう。もちろん、死後の準備をしてきた人と比べてだ。拍子抜けしてしまうだろう。無になった、と覚悟した自分が、違った世界・姿でまだ生きているのだから。肝心のハンディ自体は霊と信じていた人とはない。

なぜなら、巷の死後の知識は、いい加減だからだ。それを信じても実際にあの世にゆくと、役立たない。死んでから覚えても間に合うものも多いからだ。何も知らなくても、あの世では、要領がよい人ほど、その世界の習慣を早く覚え、立ち回ることができる。生前に覚えても、死後に覚えてもあまりかわらない。

 実際、私のみてきた霊たちは、人間世界で優秀な者はあの世でも、才能があり、生きていた頃になしたと同じような偉大なことを行える。あの世の習慣もあっという間に覚えて、どんどんのしあがる。人の世で才能がない者は、あの世でもあまり伸びないし、使えない。生きていた頃に覚えた死後の知識の有無は、まったく関係がない。

その道のエキスパートと比較しては、大差をつけられてもだ。どういう差か? 霊を信じた人は、ずっと霊と交流している。ごくごく一部は。生きながらにして、霊界のことを深く知る。神や守護霊、天国のことも知っている。だから、そんな知識をもっている人とは、違いが生まれる。

 死後、はじめて神様や天国を見た人は、まるで田舎から都会に出て、芸能人を見て、おったまげているような感じだ。初めてみる神様に天国。感動して、涙があふれてとまらない。幽霊(地上の霊)にも、驚く。田舎もの丸出し。それはそれでほほえましい。

 が、大事な差がここに生じている。彼らもいつか天国にゆくと、慣れてしまうから、はじめは田舎者でも、数年も立つと、天国の霊のようなふるまいをする。が、天国にゆくと、はっきりとした差が生じる。唯物論タイプは、天国で高い次元にゆけない。なにしろ、自分の中で神の導きすら感じないほど鈍かったからだ。これは致命的なのだ。

 神や守護霊。それを一生かかっても感じとれない小人物。彼には、この世の繊細な力も区別できない。目に見えない背後の力を推測するような才能はない。表面的な物事しか、彼は采配できない。誰にも明らかで、社会では常識でしかないような物事しか、彼は扱うことができない。

 つまり、彼は先駆的なことに理解ない。また無意識や深遠なる作用も気づくことがない。よって、彼に、実体として存在する理性を認めることはできない。理性を知る人々とは、同じ世界に住むことはできない。彼は、下の世界におしとどめられる。この世で大きな権力と財をもっていたとしても、彼はあの世では、小物なのだ。

 あの世では、多くの計画は上の次元の者が作り、下の次元の者が遂行する。彼は、自らの内にかみの作用を感じ取れるようになるまで、あの世でも下っ端として過ごすことを永遠に行う。

結局、こういう差なのだ。霊を認めないと、霊と交流できるような機械があっても、その恩恵を受けることはない。なぜなら、本人があの世にいる親戚とは語らない。我慢できるか? 生きる楽しみを一つなくしてはないか? 死んだら終わりなら、あの世にいる父母・わが子とも永遠に会えない。悲しくないか?

 

10月18日 夜

実家にて。やっとインスタントコーヒーを買う。コーヒーが飲める。

私が作り上げた地上霊の自治組織は、機能している。そこは、私なしでやっていける。自発的に運営を行う霊が多いから。前と同じように、宇宙人と交流、人への支援は思いつく順に、行う。天国の霊との交流はいつもあるから、特段に強調する事は起きてない。

 私は、前はキング面だった。今は、格下気分(中堅)だ。実家では誰も見上げてくれないから。実際は、絶頂で追い落とされ、山中に追いやられ、身を隠す。再起を狙う者みたいだ。

 私はというと、ブログのデザインを探す。再出発は、なかなかできない。デザインがなかなか決まらない。

10月17日 夜

 近況

実家に引越し。ずっと寝ぼけていた。鈍く、自分のしたいこともはっきりと見えてなかった。が、昨夜、目覚める。正確には、女性霊能者により、楽園次元体をとられていたが、それが昨日戻ってきたということ。それで、自分の感覚がよみがえった。中国帰りでも体験した霊能被害の症状だ。犯人の女霊能者はつきとめて、私には悪さできないようにした。実家でもアカストーカーに苦労している。

 地震予知の環境

 PCはミニノートを借りている。前より多くのことができる。画像も出せる。みれなかったサイトも読める。慣れるまで時間がかかる。ビデオは使えるようになった。それで見逃すアニメは減った。霊能力は一時低下したが、女悪霊能者2名による襲撃が原因と判明。それを封印して、回復する。地震予知はすぐにリカバリーできるだろう。キーボード入力も速くなってきた。

心境

 気分は? 守護霊に違う運命をみせられ、それを信じ込んでいた。それと違い不遇な進路に進んだショックはある。現状不満なのだ。今は、忍従中。池田の人間は氷のように冷たいとは感じる。男性も女性も魅力がない。早く、ここから脱出できるよう予知に精を出す。

 周辺地域は自転車で回った。八尾・東大阪で見かけたストーカーがどこでもいる。元々、川西・池田の連中。見かけるのは当然。ぬけぬけと同じ顔をさらす。彼らは私に素性がばれてもいいらしい。今は、彼らの住所を確認中。

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