学徒出陣70年:「生還期せず」重い戦後 答辞の江橋さん

毎日新聞 2013年10月20日 22時09分(最終更新 10月21日 00時56分)

学徒出陣について語る江橋さん
学徒出陣について語る江橋さん

 学徒出陣の壮行会が東京の明治神宮外苑競技場(現国立競技場)で開かれてから21日で70年。約2万人の学生代表として「生還を期せず」と答辞を読んだ江橋慎四郎さん(93)=東京大名誉教授=は、国内の基地を転々として終戦を迎えた。戦地に赴かずに生き残り、戦後は中傷も受けたが多くは語らなかった。「あんな言葉を使った自分も時流に乗ろうとした一人だった。戦争は二度とやってはいけない」。90歳を超えた今、心境を明かした。【川上晃弘】

 1943年10月21日。小雨がやんだばかりの競技場で、東京帝国大文学部2年だった江橋さんは東条英機首相(当時)らを前に答辞を読んだ。スタンドでは約6万5000人の女子学生が見守っていた。生きて帰るつもりはない。この気持ちを「もとより生還を期せず」と表現した。緊張で声が上ずった。

 軍国少年だったわけでも、成績が良かったわけでもない。代表に選ばれたのは「偶然」だった。当時は東京帝国大水泳部のマネジャーとして部の活動を仕切る立場。「先生に目をかけられやすかった。身長が高く押し出しが良かったことも理由と思う」

 壮行会が終わると、12月に陸軍に入隊。配属されたのは航空審査部だった。整備兵として東京都立川市の基地などを転々とした。終戦まで1年9カ月。戦地に向かうことはなかった。「代表を戦死させまいとする軍部の配慮はあったかもしれない。ただ、当時はそう考える余裕もなかった」

 戦後は文部省(現文部科学省)に入り、50年に東大に戻って学問の道に進んだ。「社会体育」を専攻。後に多くの五輪選手を輩出することになる鹿児島県の鹿屋(かのや)体育大の創設に尽力した。準備室長として駆け回り、開校後は初代学長に就任。「僕には僕なりの人生があった」。戦後の歩みを誇りに思う。

 戦争のことは「終わった話」だった。だが、「学徒代表」の肩書はいつもついて回った。人に紹介される時は、必ず「学徒代表の−−」と、まくらことばがつく。「軍部と裏取引があった」「1日で除隊した」−−。さまざまなうわさやデマを流された。事実は全く異なるが、反論はしなかった。

 「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも、『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないか」。軍人会にも、日本戦没学生記念会(わだつみ会)にも加わらなかった。

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