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編集者のあいさつ。
なぜこんな企画がスタートしたか、まずはそれを説明せねばなるまい。つまるところ、在校生ですら現在の明和の姿を把握しているかも疑わしい状況だからである。 タイトルに込めた意味は特にない。語感だけでこれに落ちついたが、「駆け抜けてきたなぁ」みたいな感慨のあるタイトルではないだろうか。 卒業生からは「なぜ明倫以来216年の歴史を紹介しないのか?」という疑問もあるかと思うが、それは 『あまりに遠すぎる過去』 だからである。たしかに明和にも多くの伝統が受け継がれてはいるが、その当たりから説明を始めるとなると時代背景を事細かに説明せねばならず、本文が冗長になるのを避けたいがためである。 明倫、県一の足跡は沿革を参照していただくことにして割愛させていただく。 ところで、現在の明和には元気がないのではないだろうか? 部活では昨年度、市内県立全種目総合で男子1位、女子7位と健闘しているにもかかわらず、である。なぜなのだろう? 進学率がこのところ頭打ちだからだろうか? たしかに躍進の途上にあると言えるわけではないが、伝統的に進学校の地位を保ってきているはずなのである。なぜだろう? 一種の「倦怠期」ではないかと思う。言葉が悪ければ「停滞期」と言い換えても良い。お祭り騒ぎの後の気分にも似たあの感じである。 バブル後の日本がそうであるように「発展」の果てには必ず「停滞」がめぐってくるという大きな循環があるのではないだろうか? そして日本の経済状況同様「ほっておいても必ず上向く」というものではないのでは? 実はそんな危惧がこの連載企画の根底にはあるのだ。 明和を美化しすぎてもいけないが、正しい認識を持つ事は必要である。妙に醒めた感じが流れる現在の状況を打破するためにも過去を知ることが必要ではないか、と思う。 過去を知り、現在を見つめ、未来を想う。その一助となるページを作っていきたい、と思う。 (編) |
愛知県立明和高等学校の歴史は昭和23年(1948年)に突如、9月から始まる。アメリカの学期制度を導入したわけではなく、愛知県立明倫高等学校(明倫)と愛知県立第一女子高等学校(県一)の統合によって誕生したからである。 当時、愛知県立高はほとんどすべてが統合されて誕生しているのだ。旭丘も、瑞陵も、向陽も例外ではない。これはGHQの占領政策の一環として行われた事であるから、日本の敗戦なくして明和はなかったということも皮肉な真理ではある。 明倫は尾張の藩校「明倫堂」として天明3年(1783年)に誕生しているから、165年もの歴史を誇る伝統校である。藩士育成を目指す藩校であるから、当然男子校であった。明倫堂は後に徳川家の経営する私立となり、さらに大正時代には愛知県立に戻るという変遷を遂げている。 それに対して県一は明治36年(1903年)に「学制」の発布という時代の流れから誕生した。私立の清流女学校、金城女学校に次いで3番目の、県立としては初の女学校である。 そんなまったく異なる流れの2校が「男女共学」「学校水準の均一化」というGHQの方針によって統合されたのである。 さて、「統合」とはどのようなことであったか。制度上2校を1校にしたのであるが、校舎を1つにするという事はどちらかが引っ越すということである。明和の場合、明倫が県一に「婿入り」という形で引っ越しを行った。それも明倫の生徒が自ら机などを運び込んで、である。授業は、というと共学になったのに教室が足りるわけもなく女子の授業と男子の授業というように1日を前後半に分けていたのだから統合の弊害も甚だしい。 「明和」の校名の成立は一筋縄ではいかない。新校名を決定する際、生徒・職員から募集して明和・明光・明成・名北・双陵・柏葉の6つに絞られ、これを全校投票にて「明和」に決定した。その登録の際、GHQ担当者には「明倫堂」の「明」と県一の同窓会「和楽会」の「和」で「明和」と説明したのだが、「これまでの校名とはまったく異なった校名でなくてはならない」と却下され、「明朗親和」から「明和」だと説明してようやく承認されたという経緯がある。 これで「明倫」+「県一」=「明和」となったと思いきや、実はそうではない。昭和24年度(1949年度)にはGHQの改革第2弾「学区制」がスタートするのである。 私立色の濃かった誕生当時の明和に学区制を適用すると、遠方から登校していた生徒は転校ということになる。これで1550人のうち970人が転校してしまったのである。かくして明和はいきなり「新生」を遂げてしまった。授業内容も完全に男女共学となり、しかもコース選択授業なのである。学年により4〜10の授業コースが選べたというからうらやましい。こんな授業形式が続いていたら、と考えてしまう。逆にいえばホームルームが成立しないことになるが。 さて、余談になってしまうがこのころの教師陣は若い。46人の先生の中に20代が12人、30代が18人である。校長ですら45歳である。きっと現在の教師陣の平均年齢より若い。この激変を乗りきる力の源は「若さ」であったのだろう。悪く言うつもりはないが、まったく現在の明和とは対照的である。たしかに現在の明和も十分に若々しいとは思うが。 また、現在も続いている「二期制」もこの昭和24年度に始まっている。当時の校長がアメリカの教育制度を手本にしたとか、そういうことなのだろうか。記録はなにもない。 明和の誕生は紆余曲折をはらみながらもうまくいった、といえるだろう。9月に突如統合して4月からは普通の授業が行えたのだから行政のやることにしては迅速である。戦後日本の急速な復興とオーバーラップしているのかもしれない。 昭和25年(1950年)には学区再編後初の卒業生が出ている。受験を勝ちぬいてきたわけでもないのに進学率はいきなり高い。225人のうち名大57人、東大3人、京大2人、慶大3人である。「学校水準の均一化」を目指した統合でどうしてこんなことになるのか。名大の合格者数でいうなら他の県立校をすべて差し置いている。すでに進学校の伝統は始まっていたといって良いだろう。 昭和25年度(1950年度)に音楽科が併設される。名古屋市立の菊里の音楽科に並ぶ形で県の教育委員会が明和に音楽科をという決定を下したものらしい。しかし、普通科ですら教室不足に陥っていたのに増築が間に合うはずもなく、あらゆる特別教室を普通教室として使用して間に合わせたそうである。増築の新校舎が完成するのはその年の10月になってからであり、それを記念するためにわざわざ学校祭を1ヶ月ずらしたと思われる記録がある。 主要な部活はすでに活動を活発化させていた。陸上部、体操部、水泳部、山岳部(現トレッキング部)、蹴球部(現サッカー部)、ラグビー部、排球部(現バレーボール部)、篭球部(現バスケット部)、送球部(現ハンドボール部)などは創立以来の歴史を誇っている。意外な事に現在のマルチメディア部も設立当時の映画研究クラブを改称したもので、半世紀余りの歴史を持っているのである。 黎明期にすでに現在の形態をほとんど完成させていたとは、調べてみて初めて知った事実である。まだまだ長い校史には意外な発見が詰まっていることだろう。 次回は1950年代、発展期の明和の軌跡を紹介できると思います。 |