前々から感じているのですが、みなさん安易に謝罪しすぎです。もっと、自分の頭を働かせてほしいです。
教授の「暴言」で大学が謝罪
「マー君は、神である。逆らうものは、地獄に落ちろ!」
「神に逆らう不届きものめ! 千葉、滅びろ!」
「千葉がなんじや、アイデンティティも無いくせして!」
これは球場でのヤジではない。社会的地位も高い大学の――それも東北大学(仙台市)の現職教授(55)によるツイートだったのが問題だった。すぐさま「炎上」してしまい、2013年10月18日には、大学が謝罪文を出すまでに発展した。(中略)大学はつぶやきを「不適切発言」と位置付け、「多くの皆様に不快な思いをさせてしまい、深くお詫び申し上げます」と話す。
「滅びろ!」「地獄に落ちろ!」「神に逆らう不届きものめ!」 東北大教授が千葉ロッテに罵詈雑言、「不適切ツイート」と大学が謝罪 (1/2) : J-CASTニュース
この「謝罪」がどのような倫理的判断で行われたかはわからないのですが、こうして見てみると、一市民としては「謝罪するほどのこと」には到底思えません。
教授のヤジに対して、大学が謝罪をするということは、大学側は「われわれは、所属する教授が不適切な発言(スポーツのヤジ含む)を行わないように、指導・監督する義務がある」と考えているということです。
が、そんなアホな話はありません。通念的に考えて、そんな義務も責任も大学側にはないでしょうし、そういう風に考えている大学は、要するに教師を信用していないので、ろくな教育もできないでしょう。
ここからは邪推ですが、大学側は「われわれは、所属する教授が不適切な発言を行わないように、指導・監督する義務がある」なんてことを考えているわけではなく、「まぁ、とりあえず問題になっているので謝っておくか」という程度の判断だったのではないでしょうか。本当は悪いと思っていなくても、土下座すれば許してもらえるのが日本社会ですから。
謝罪すればするほど、社会に罪が増えていく
ぼくはこういうご都合主義的な謝罪を強く問題視しています。欺瞞的であるのが嫌だという個人的な好みの話もありますが、なにより、こういう安易な謝罪が、社会に「罪」を増やしていくからです。
こういう場で行われる「謝罪」は、明確な基準がありません。実際、今回のケースにおいても、謝罪するか否かの判断は組織によって分かれたでしょう。東北大学は、たまたま謝罪という選択肢を選んだ組織と見ることができます。
明確な基準がないだけに、謝罪をするか否かの判断は、自然と「前例主義的」になります。つまり、「謝るべきかはよくわからないけど、昔、似たような事件が起こったときに、あの大学は謝罪していたし、とりあえず謝っておこう」という判断が下されがちだということです。
前例主義は徐々に強化されていき、いつのまにか「これこれこういう場合は、謝罪するのが当たり前」という常識(道徳)が社会にはびこります。
やむを得ない事情(地震、台風など)で電車やバスが運行不能になった際に、交通機関が謝罪するのは、その好例でしょう。冷静に考えれば、彼らに非はありません。謝罪している本人たちですら、「自分たちは本当に悪いのか」どうかを吟味することなく「こういう場合は、謝罪するのが当たり前」だと考えていると思われます。
「有給休暇を取る際には、いかにも申し訳なさそうに振る舞わなければならない」というのも、この変形ですしょう(「申し訳ありませんがお休みさせてください」?なんで有給取るのに謝るの?)。そういう職場においては、有給を取るのは、大なり小なり「謝罪」すべき「罪」なのです。
最近は「天気予報が外れたら気象庁や気象予報士は謝罪すべきだ」という声も聞こえています。10年後ぐらいには、予報が外れるたびに謝罪文を公開しなければならないことになりそうですね。いやー、アホらしい。
ぼくは安易に謝罪しません
社会全体で見ても、組織のなかで見ても、あなたが場当たり的な意図で「安易な謝罪」を行うたびに、その空間には「これは罪なんだ」という道徳が刷り込まれていきます。
どうしたって、短期的には謝る方が楽なので、今後も日本社会には「罪」が充満していくことになるのでしょう。ですから、ぼくはあえて反骨的に、自分が謝る必要はないと考えるときは謝らないようにしますし、安易な謝罪は受け容れないつもりです。小さな抵抗として…。
関連本はこちら。「謝罪会見」をテーマにした異色の作品。