2013年08月31日
「家族が食うために。」 その一心から始めた「逆転のドラマ」がありました。
『働かざる者、食うべからず』…なんて言葉がありますね。
おそらく心無いブログコメントだったのでしょう。
これに大層お怒りの書き込みを観ました。
私も同様に、これがいろんな人を傷つける言葉であることは知っています。
おそらくこの言葉を世の中に生み出した人が、
「世の中の厳しさ」を説きたかったのでしょうが、 私ならこう言い換えたでしょう。
『働かないと、食ってゆけなかった。』
(少し、意味が違ってきますが)
くれぐれも、「他人へ説教」ではありません。 体験からの言葉です。
随分と昔、職にありつけない一時期の、我が家の奮闘はブログにもあるとおり。
先ず、「収入が途絶える」の原因に凄まじい「理不尽」。 そりゃ悔しかったものです。
そしてその「収入が途絶える」ことに対し、誰も助けてはくれない。
当然だと受け止めました。 だから頑張りました。
親・夫の私は、妻子を食わせてゆかなばならない責任があります。
苦境の現実と向き合う中、
仮に (苦境に)「なろうと思ってなったわけじゃない」 と声高に叫ぼうが、
「働かざる者、食うべからず!」 と、天(世の中)から突き付けられた現実に、誰も手を差し伸べてくれるわけでもありません。
公的支援もない。親族の支援もない。
体も万全じゃない。
それでも泣いていられなかった。
そこで止まっていては、完全に「干上がる」だけだった。
実際、「干上がった」。
自転車のハンドルを握るその先に、「このまま突っ込めば…」とよぎったこともあった。
自身の「逃げ」じゃなく、保険金です。
追い詰められていました。
何としても家族を食わせてゆきたかった。
「広宣流布の祈り」・・・と申しますが、
「叶う」の要諦は、そこに尽きます。 (拙ブログでも何度も書いたとおりですが)
※クリック ご参考に。
【 “時”なる今とともに。 〜その覚悟が定まったとき、自身の宿命を突き動かすことができる。】
切羽詰まった崖っぷちには、目の前の苦境はそりゃ大きいものです。
経済苦境なんぞ、働けばなんとかなる。
しかし、その「働く」こと自体、容易ではありません。
「(困ってるんなら)働けよ」 ともいうべき 「働かざるもの、食うべからず」 に、
「更なる現実」があることも痛いほど私は知っています。
だが、それを許してくれない現実もあるんだ、と。
大勢の 「働かないと食ってゆけいない人」 がいます。
先のお怒りの方に、こうした人の気持ちも察していただければありがたいと思います。
なお、誤解なさらないでいただきたいのですが、
私は「必要とされる方々」に対するセーフティーネット(生活保護制度)は当然必要だとは思っています。
ただ、 「好きで働かないわけじゃない」 との言い分があるとすれば、
私も好んでそういう (仕事が見つからない)状況じゃなかった。
身体ハンデにも苦しんでいたからね。
それでも、誰も助けてくれない中、「家族を支えなきゃ」という現実を背景に、理不尽な苦境と戦ってきた。
このことだけは、かのブログ主氏には分かってほしいところ。
これらは、ブログ村でのある記事タイトルへの感想なのですが、
残念ながら、そのタイトルだけで消去されていますね。
ご本人も「これはまずい」と思ったのでしょう
でも私は、その過激なタイトルの「その先」をじっくり読んでみたかった。
※ちなみに、当該記事、およびブログ主さんとコメント主との「騒動」に、私は一切関与していません。
◇ ◇ ◇
世の中に、 「公平」という権利概念があります。
ここで多少なりと誤解を招いていることがあって、
それは、 「結果の平等」ではなく、 「機会の均等」だということです。
実はこれをまもり、そして「スタートの平等」にリセットすることが、政治の役割。
しかしながら人生というものは、どうしようもない現実にぶちあたります。
「機会の均等」では救いきれないことたち。
生まれながらのこと、生まれたあとのこと…、 さまざまな理不尽に突き当たる。
これを仏法では宿命(宿業)と説く。
「気休め」ではなく、本気で取り組む「リセット」。
それが仏法での役割。
その逆転のドラマを創るのは「我々」です。

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(追記)
残念ながら、拙記事にクレームがついたようです。
仕方なくクレーム対応記事(←クリック)を書かせていただきました。
読んでいただければお分かりいただけるとは思います。
もとより騒動に発展させるつもりはありませんが、
「言論の世界」でもありますし、
もし、「京阪、お前に落ち度はないよ」とおっしゃって頂けるのであれば、
下記クリックにてご投票いただければ、まことに幸いの極みでございます。
はた京阪・拝

公正なご判断に感謝致します
おそらく心無いブログコメントだったのでしょう。
これに大層お怒りの書き込みを観ました。
私も同様に、これがいろんな人を傷つける言葉であることは知っています。
おそらくこの言葉を世の中に生み出した人が、
「世の中の厳しさ」を説きたかったのでしょうが、 私ならこう言い換えたでしょう。
『働かないと、食ってゆけなかった。』
(少し、意味が違ってきますが)
くれぐれも、「他人へ説教」ではありません。 体験からの言葉です。
随分と昔、職にありつけない一時期の、我が家の奮闘はブログにもあるとおり。
先ず、「収入が途絶える」の原因に凄まじい「理不尽」。 そりゃ悔しかったものです。
そしてその「収入が途絶える」ことに対し、誰も助けてはくれない。
当然だと受け止めました。 だから頑張りました。
親・夫の私は、妻子を食わせてゆかなばならない責任があります。
苦境の現実と向き合う中、
仮に (苦境に)「なろうと思ってなったわけじゃない」 と声高に叫ぼうが、
「働かざる者、食うべからず!」 と、天(世の中)から突き付けられた現実に、誰も手を差し伸べてくれるわけでもありません。
公的支援もない。親族の支援もない。
体も万全じゃない。
それでも泣いていられなかった。
そこで止まっていては、完全に「干上がる」だけだった。
実際、「干上がった」。
自転車のハンドルを握るその先に、「このまま突っ込めば…」とよぎったこともあった。
自身の「逃げ」じゃなく、保険金です。
追い詰められていました。
何としても家族を食わせてゆきたかった。
「広宣流布の祈り」・・・と申しますが、
「叶う」の要諦は、そこに尽きます。 (拙ブログでも何度も書いたとおりですが)
※クリック ご参考に。
【 “時”なる今とともに。 〜その覚悟が定まったとき、自身の宿命を突き動かすことができる。】
切羽詰まった崖っぷちには、目の前の苦境はそりゃ大きいものです。
経済苦境なんぞ、働けばなんとかなる。
しかし、その「働く」こと自体、容易ではありません。
「(困ってるんなら)働けよ」 ともいうべき 「働かざるもの、食うべからず」 に、
「更なる現実」があることも痛いほど私は知っています。
だが、それを許してくれない現実もあるんだ、と。
大勢の 「働かないと食ってゆけいない人」 がいます。
先のお怒りの方に、こうした人の気持ちも察していただければありがたいと思います。
なお、誤解なさらないでいただきたいのですが、
私は「必要とされる方々」に対するセーフティーネット(生活保護制度)は当然必要だとは思っています。
ただ、 「好きで働かないわけじゃない」 との言い分があるとすれば、
私も好んでそういう (仕事が見つからない)状況じゃなかった。
身体ハンデにも苦しんでいたからね。
それでも、誰も助けてくれない中、「家族を支えなきゃ」という現実を背景に、理不尽な苦境と戦ってきた。
このことだけは、かのブログ主氏には分かってほしいところ。
これらは、ブログ村でのある記事タイトルへの感想なのですが、
残念ながら、そのタイトルだけで消去されていますね。
ご本人も「これはまずい」と思ったのでしょう
でも私は、その過激なタイトルの「その先」をじっくり読んでみたかった。
※ちなみに、当該記事、およびブログ主さんとコメント主との「騒動」に、私は一切関与していません。
◇ ◇ ◇
世の中に、 「公平」という権利概念があります。
ここで多少なりと誤解を招いていることがあって、
それは、 「結果の平等」ではなく、 「機会の均等」だということです。
実はこれをまもり、そして「スタートの平等」にリセットすることが、政治の役割。
しかしながら人生というものは、どうしようもない現実にぶちあたります。
「機会の均等」では救いきれないことたち。
生まれながらのこと、生まれたあとのこと…、 さまざまな理不尽に突き当たる。
これを仏法では宿命(宿業)と説く。
「気休め」ではなく、本気で取り組む「リセット」。
それが仏法での役割。
その逆転のドラマを創るのは「我々」です。
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(追記)
残念ながら、拙記事にクレームがついたようです。
仕方なくクレーム対応記事(←クリック)を書かせていただきました。
読んでいただければお分かりいただけるとは思います。
もとより騒動に発展させるつもりはありませんが、
「言論の世界」でもありますし、
もし、「京阪、お前に落ち度はないよ」とおっしゃって頂けるのであれば、
下記クリックにてご投票いただければ、まことに幸いの極みでございます。
はた京阪・拝
公正なご判断に感謝致します
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