まったくもって、これじゃご先祖さまも大変ですよね。
仏教では比喩で物事を語ることが多いのですが、昔なら「お坊さんの言うことだから」と疑問を持たずに聞いてくれたかもしれませんが、今ではあなたのように即質問され、やりにくい限りです(笑)。
実際のところ、霊はどこにでも居ると言えますし、どこにも居ないとも言えます。
基本的に霊や魂というものは物体でも気体でもありませんから、そこら中にある=遍在しているのです。
では、なぜ「お盆にご先祖が帰ってくる」などと言うのでしょう。それは、仏教が日本に渡ってくるずっと前から存在する「日本古来の宗教観」に基づいていると思います。
農村などに住む日本人は、死んだ人の霊は山に帰っていくと考えました。海辺に住む人々は、海の彼方に帰ると思いました。
神社が多く山の麓にあり、奈良の三輪神社の様に山そのものをご神体にしている神社も多くあることからも分かります。
また、青森の恐山や香川県の弥谷寺などもそのような宗教観に基づいて建てられました。
沖縄や熊野地方では、海の彼方にご先祖が神々と共に住む理想郷があるとされました。
日本古来の宗教観では、死んだ人がある一定の時間が経ち清まると、神になってその子孫を守ると考えました。(靖国神社などもそうですね。)
そして、1月と7月の2回、神となったご先祖が家に帰って来るとされました。お正月と中元の行事です。
人々は帰ってきたご先祖と賑やかに食事をして感謝のお祝いしました。
ところが、印度では7月に大事な仏教の行事があるんです。「僧自恣(そうじし)の日」といって、4月15日から7月15日の3ヶ月間、お坊さんたちが一ヶ所に留まって修行をする最後の日です。
お釈迦さまは母親が地獄に堕ちているのを知った弟子に、「僧自恣の日にたくさんの修行明けのお坊さんたちを招き、食事を与え奇麗な寝床を用意して接待しなさい。そうすれば、その功徳でお母さんは救われるでしょう」と諭したのです。
これが盂蘭盆(うらぼん)のいわれです。
この仏教行事が日本に入ってきて、7月にご先祖の霊が家に帰って来るという日本古来の信仰と合流して、今のお盆となりました。
そのために、あなたが疑問に思われたような混同が生まれたのです。
ちなみに、お彼岸は日本独自の仏教行事。仏教徒が1週間修行をする期間です。この日にはご先祖が帰って来るという信仰はありません。
霊や魂は遍在(広く行き渡っていて、どこにでも存在していること)しているので、その人のことを思えば、どこにでも現れるのだと私は思います。
たまに聞かれます「霊はお墓と位牌とどちらにいるのですか?」と。位牌は亡き人の依り代。お墓は亡骸の埋め場所。これもどっちにでも居るとしか言いようがありません。
あなたが手を合わせ、その人のことを思って祈る時、霊はあなたの目の前に来る。それが正しいと私は思います。
〈後日談〉このような返事が来ました
此の度は私の稚拙な質問に対して、ご親切、ご丁寧な返信メールを頂き有り難うございました。
此の度の疑問についてはその道の識者にお伺いする他は無く、インターネットを利用して発信させて頂き、重複していなければ全国330の御寺へEメールを差し上げました。数を把握していませんが寺院のHPにも記入させて頂きました。
その内の130を超える御寺からご返信を頂き、ご協力を有り難く感謝しています。
12通は何故か宛先不明でした。200弱の寺院から回答を頂いていませんが、これはHPを公開しておられる意味が判りません。
寺院名もハンドルネームも一種の屋号と考えましたので、差し上げた質問メールには私の実名を記さず、ハンドルネームで表わしました。
この件について殊にご不快を煩わした向きが有ったようです。寺院HPの最初のページが玄関とするなら、殆どが寺院名のみでご住職の実名表示が少なく、私もハンドルネーム表示のみとさせて頂きました。HP上とは云え山門を叩き道を尋ねる者が、住所、氏名、年齢、職業を明かさないのは、人にものを聞く側の者として非常識だとの叱責も受けました。
それにも関わらずその内の大半はご丁寧な返信を頂きましたが、場合によってはいわゆる門前払いも受けました。
この世の物は預かり物で一つとして自分の物はないと聞きましたし、究極はたとえ命と云えど自分のものではないとも聞きました。山門はこれを叩く者の誰彼を問わず大きく開いて受け入れ、道を尋ねる者には道を、飯を求める者には飯を、知恵を求める者には知恵を、惜しみなく分け与えて頂きたく想います。
与える事は与えられる事であり、教える事は教えられる事と聞きます。私は中卒で約10年の現場作業工員を経験の後、約30年の電算システム設計構築の業務を経験しましたので、大半の生活を論理思考の中に浸って来ました。しかし、定年を待たず一昨年の早期退職募集で辞職しました。
新しき酒は新しき皮袋に入れるの喩もあり、日進月歩の科学理論に基づく新しいシステム作りは新鮮な若者に委託するのが最適と考えた結果です。
お尋ねした疑問の端緒は茨城の物理学者が命は質量を持ったエネルギィであるとの実証談を、NHKラジオ放送でお聞きした事が発端です。
これはこれまで曖昧であった命即ち霊というものが、肉体から離れて存在することを物理的に証明した一例です。
何kgもの荷物を持ち運ぶエネルギィを持つ人が亡くなり、その持てる潜在エネルギィはどこへ行くのかという疑問も未だ残ります。しかし、それらの疑問が解けなくても、生きている者の生活を妨げたり、命を危うくする直接原因にはなりません。ところが、世界には稀に宗教教義をどのように理解したのか、教祖や宗名、その大義名分によって他を排し人を殺めた時期があり、古今東西を問わず発生した犯罪の事実があります。ご教授頂いた返信メールを一つ一つ読ませて頂きました。精霊や成仏の有無について率直に判らないと仰る方、教義との不一致や矛盾を認めていると仰る方、有無の証が無ければ有ると仰る方、有ると言えば有り無いと言えば無いと仰る方、仏教伝承伝来経過によって元の教義から離れて変遷したと仰る方、論点を外して述べられる方などに概ねお考えが分かれました。有無の証が無ければ無しと仰る方は少数でした。仏教はおろか宗教に疎い私のような者とは違い、僧職の専門家でもこれほどに結論が異なるのは意外でしたが、一面ではその程度に曖昧でも良いことに安堵感もあります。しかしこれは、霊や仏の供養行事が方便に使われていないかという危惧を導きます。私自身は特定の宗教を支持も肯定もしませんし、他人が信仰を寄せている物が何で有れ否定もしません。故に私は自身で模索し実践して極めた倫理(神:判断基準)で生きています。ただ、亡父母の位牌、墓所、仏壇、法事を見る時、宗派によって、あるいは導師によっては、有るものを無しとし、無いものを有るとして読経を聞くとき、これほど無意味で虚しい事はありません。この虚しさは亡父母の霊の有無を問うのではなく読経される御僧職の心中や如何にと察するからです。頂いた返信のお話に依れば釈迦牟尼は霊の(有無)について決断してはいないそうです。とすると問題は霊の有無に留まらないことになります。仏教は釈迦牟尼が決断していない思想のままで伝承されるべきで、後世の者が釈迦牟尼に成り代り補足したり新たに決断を下してはならないと想います。釈迦牟尼思想が唯一の仏教思想の根源として真理なら本来の説に立ち返るべきと想います。霊は物故者を想う者の心に帰りまた宿るとの説にはこの理由で納得し難い所があります。他説の、霊ではなく仏に成ると言われる説にもその理由で納得し難い所があります。明確に有るものは有りとし、明確に無いものは無しとして、更に未定のものは未定のままで論を展開しなければ矛盾が生じます。宗教教義の本来は現世を自身がどの様に生きるか、を指導するものと想います。故に遠い祖先を想って、どのような家系で生まれて来たとか、死後に精霊や成仏になるか成らないかではなく、更に子々孫々の心に宿る事ではないと想います。ご返信を頂いた中のあるご住職がご指摘のように、仏法の本来の姿から離れて経済的理由から霊や仏を実在と仮定する必要性がある、との説にはあからさまな現実を正直に語っておられると想いました。時折しも、除霊能力有りとして著名を馳せた住職が逮捕されました。これに似た例は数限りなくあるようです。これらはすべて釈迦牟尼の思想を真理としてそのまま伝承して来なかった故が原因ではないでしょうか。釈迦牟尼の思想に従うのなら個人の倫理感や思想で曲解することなく、釈迦牟尼の思想を純粋に唯一無二の真理として受け入れ、統一された思想による布教が必須と考えます。真理とは時を経て不変です。実在したとされる釈迦牟尼の思想が唯一真理なら伝承者によって唯一思想が歪められて多宗派に分かれたのは釈迦牟尼の真意ここに在らず、は言い過ぎでしょうか。固有名詞の神や仏やいわゆる救い主が居られたとすれば、地球有史以来の人類に遍くその機会に恵まれなかった者へ、機会均等の不公平をどのように説明するかという新たな疑問が湧きます。救い主とはそのように人に不公平な存在でしょうか。故に私は従来の知り得る既存宗教思想から離れ、生きる上での判断基準を自身で設定しました。若し私の判断基準に誤りがあればその都度の反省で改める積りでいます。自立とは自身で考え行動する事と想います。自身で考えられない者は、他人の考えを参考にする他は在りません。他人の考えを選択しこれを信用するか、信頼するかは判断の分かれる所です。判断基準の何をどのように選択しても、結果は選択者自身の責任です。結果が及ぼす影響が選択者自身のみに留まらない場合は、無責任な判断で周囲を不仕合わせに巻き込んではなりません。その意味で選択の結果責任は重大であろうと想います。
此の度は私の稚拙な質問を契機に多くのご住職方の深いご親切を受け、改めて私自身を反省する機会となりました事を感謝しています。有り難うございました。
こういうのを「迷惑メール」と言うのじゃないのでしょうか。皆さんはどう思われます。
人間の持つ能力を本来の清浄なものにする方法として、
「六波羅密(ろくはらみつ)」ということをお釈迦さまは示されました。
1.布施 2.持戒 3.忍辱 4.精進 5.禅定 6.智慧 です。
「持戒(じかい)」は「決まりを守る」こと。
仏教では、上記の五つの他「おべっか・きれいごとを言う(不綺語)」「悪口を言う(不悪句)」「二枚舌を使う(不両舌)」「憎み怒る(不瞋恚)」「欲張ること(不慳貪)」を含めて
【十善戒(じゅうぜんかい)】と言います。
「忍辱(にんにく)」は「堪え忍ぶ」こと。
辱めを受けたり悪口を言われても、逆上せず自分を見失わないで耐えること。
自分のわがままを抑える広い心を持つことです。
「精進(しょうじん)」は「すべてに心を注ぎつとめる」ことです。
充分努力をしたと思っても、もう一つ努力する心です。
「禅定(ぜんじょう)」は「心静かに物事を見つめる」ことです。
静かな中に平穏が現れ、逆上したところからは迷いしか生まれません。
忙しい中イライラしたりツイ我を忘れて興奮する事もあるでしょう。
そんなときは、大きく深呼吸を三回、目を瞑り108ほど数を数えてみましょう。
「智慧(ちえ)」は「ものごとの真実をさとり、真理を見きわめる力」ということでしょうか。
これが一番分かりにくいですね。
ただ、この智慧は丸暗記して覚える知識や、世間に慣れて覚える知恵でもありません。
おそらくは、この世界・宇宙の流れと私たち人間の生死が表裏一体であることをさとり、
その大きな流れに調和して生まれる智慧でしょう。
そして、第1番目の「布施」ですが、これは「広く分け隔てなく、ほどこす心」です。
「布」には「分け隔てなく」とか「あまねく」の意味があります。
仏教では報いを求めず、何も期待せずに、ものでも心でも与えることを「布施」といいます。
お金・財産は人が最も執着するもの=迷い苦しみの元であり、
一方有効に用いれば大きな結果を生むことの出来るものです。
それ故にお釈迦さまはそれらを必要とする人に施すことを求めました。(布施の中の財施)
そして、お金財産のない人は「やさしい言葉」「笑顔」を施しなさいと言いました。(和顔愛語)
僧侶も人々に布施しなさいとも言われました。
それは法(佛の教え)を説くこと、経(佛の言葉)を読むことです。(布施の中の法施)
当時の僧侶は衣・鉢などの最低限の財産しか持ちませんでした。
人々が財施を僧侶に施し、僧侶は人々に法施を施す。それが現在の布施の本来の意味です。
現在、僧侶・寺院は多寡に関わらず財産を持っています。
残念ながら現代の資本主義社会では、お金が最も有効な手段です。
ということで、どうしても日常の寺院活動・宗教活動にとって、財施が基本かつ不可欠な収入となります。
この点を理解いただけたならと思います。
でも、その貴重な布施の意味を理解していない僧侶が多いことも事実です。 世間からかけ離れたような裕福な生活を、布施によって送っている僧侶もいます。 でも、それをしっかりと踏まえて暮らしている僧侶も少なからずいることも覚えておいて下さい。
私も年間135,000円ほどの所得税(乙収入)をお寺に源泉徴収されています。普通のサラリーマンと同じに市民税も納めています。
では、大多数の人が思っている誤解の元はどこにあるのでしょう。それは宗教法人による収益事業以外の本来の業務または公益事業に対しては、法人税が免除されているところにあります。
日本の法律では、寺院は会社として捉えています。一定の要件を整えている寺院は「宗教法人」として認可され、法人ということでは株式会社と同じです。法人は従業員の所得税を各自に代わって徴収し国庫に納入することを義務付けられています。
私が住職を務めるお寺は、寺院名「陽向山多聞院吉祥寺」といいますが、国に認められた法人名は「宗教法人 吉祥寺」です。会社と同じですから「代表取締役」の代わりに「代表役員」がいます。「社長」に対する「住職」です。「取締役」の代わりに「責任役員」がいます。「社員」の代わりに「職員」がいます。
おいおい、お寺にそんなのがいるんかと言われそうですが、実際にいます。「宗教法人 吉祥寺」の場合は私が「代表役員」、総代の中から2名が「責任役員」、そして私の妻が「職員」です。
ただし、私と妻以外は給料は貰っていません。だから、私と妻が税金を納めます。実際はどこの共稼ぎ夫婦にもあるように、妻の収入を納税基準以下に抑えていますので、私だけが所得税・市民税を納めています。
ただし、寺院が行う駐車場経営や会館経営・宿泊施設の提供・飲食店経営・不動産の貸し付けなどは収益事業として、一般の法人税よりは優遇されていますが、法人税が課税されます。
ところで、ここまでお寺を取り巻く法人上税務上の現状をお話ししましたが、これで皆さんは納得されるでしょうか?
「なんだ、住職といっても会社社長と同じじゃないか。本来の僧侶の姿はどこに行ったのだ」とおしかりの声が聞こえて来るのが目に浮かびます。
実は、私たちも(少なくとも私は)納得できないのです。平成9年から実施された改正宗教法人法では、毎年度の財産目録・役員名簿の提出が義務化され、将来的には「収支計算書」「貸借対照表」の提出まで義務化されようとしています(現在は過度的措置として、一定条件の下提出を免除されています)。
このお寺に入った当初、税務署からの指導と私自身が年間収支知るために収入と支出を記帳したことがありました。「何月何日:お布施○○家×××円」と。
ただ、記帳を続けるうちにとても嫌な気持ちになりました。私は何をしているのだろうと。記帳していけば、どの家のお布施が多くてどの家のお布施が少ないかはっきりします。悲しいことに、私の心にお布施の少ない家に対する不満と、多い家に対する特別視する気持ちが湧いてくるのです。うちのような小さなお寺の場合、月命日参りのお布施は、数百円から1〜2千円の世界です。
また、これを毎日毎日ひとつひとつ記帳することは、かなりな時間を必要とし本来の「祈りを捧げる」仕事の時間が圧迫されます。こんなことをするために僧侶になったわけではないと、1年後すっぱり止めました。
ちなみに嫌な思いをしながら1年間付け続けて分かったことは、うちのお寺の年間総収入が約800万円。そして、そのうちの6割以上が寺院活動・法務の経費だということでした。
私たちが住んでいる世界は、資本主義の世の中です。お金を中心にして世界は動き、人間も生きています。
国から見ればお寺も会社。僧侶も納税義務のあるただの国民です。こういう中での宗教活動、僧侶としての生き方は、釈尊の時代以上に過酷な環境にあると思います。
僧侶も含め、あなたも、末法の時代に生きているのです。
「お坊さん・僧侶」というのは調理師・栄養士のような国家資格ではありません。
なので、自分で「私はお坊さんです」と言ってしまえば、それでとりあえずはOKです。
ただ、それで通るかどうかは別物。おそらく通らないでしょう。(笑)
古い流行歌で♪昔アラブのエライお坊さんが〜♪と言うのがありましたが
「アラブにお坊さんがいるのか!」と突っ込む以前に
「私はアラブのお坊さんです」と言われてしまえば、「そんなもんか」です。(笑)
(アラブにいるのはイスラム教僧侶、お坊さんは仏教僧侶の通称でしょう)
普通、僧侶・お坊さんは、空海や日蓮・親鸞等の各上人たちのような〈高い境地に達した〉宗祖・教祖の教えを継ぐ宗派=真言宗・日蓮宗・浄土真宗等の、その正統な歴史と権威に基づいて、その宗派の下僧侶の「資格」を得ています。
ただ、そこで問題なのは、そのような〈歴史と権威〉を持った宗派に属していないと「僧侶・お坊さん」とは名乗れないのかということです。
弘法大師空海上人も「私度僧」(しどそう・当時国家資格だった僧侶ではない方法で出家した僧)でした。
私が思う「僧侶・お坊さん」は、〈仏教的真理・悟りに近づこうと日々修行する人〉です。
在家(俗世間の中にいる人)か出家(俗世間を出る決意をした人)かの問題はありますが、
そういう意味ではそれに合致する人は全て「僧侶・お坊さん」です。
しかし、誰の指導も受けずに、自分で経典や本を読み、自分で勉強した方法で修行する人は、私は「僧侶・お坊さん」だとは思いません。
なぜなら、仏教では〈自分=自我ほど不確かなものはない〉からです。
お釈迦さまですら、様々な自分の良いと思った方法で修行され、結局〈悪魔=自分の煩悩〉に打ちのめされました。
お釈迦さまが悟られたのは、そのような自我・企てが全て否定され、疲れ切って大自然の中に身を横たえたときでした。
だから、仏教では〈教団=僧侶の集まり〉を大事にします。
お釈迦さまは言い遺されました。「仏=真理に依拠すること」「自らを灯火とすること」「僧伽(そうぎゃ=僧侶の集まり・教団)を大事にすること」。
密教では〈良き師に付くこと〉を第1にします。
そこには〈仏教的真理に近づくための蓄積〉があるからであり、言うならばノウハウがあるからです。
そして〈互いを批判し会う目〉があるからです。
現在の各仏教宗派では〈血脈(けちみゃく)〉を大事にします。密教では〈大日如来から弘法大師を経て師そして自分に繋がる教えの流れ〉です。顕教(けんぎょう=密教以外の仏教)では、お釈迦さまからの流れです。
そういう意味で、既成仏教は2千年以上の真理へ挑み続けた蓄積を持ち、〈伝統的・守旧的〉です。
一方、新興宗教は〈革新的・行動的〉である反面、経験の浅さがあります。
オウム真理教が陥った最大の誤りは、チベット密教に教義上の基礎を置きながらも、結局は「松本智津夫教」だった点です。
(ダライ・ラマ等のチベット仏教の尊師に認められるために行った大名旅行を見れば分かります)
新興宗教には、常にその危惧があると共に、実体として「教祖教=個人崇拝」です。
今回の「在家僧侶の通信教育」の問題点は、まずは「日本カルチャー協会」という営利企業がしている講座だということです。営利企業の目的は、人の欲求を満足させることで利益を得ることです。
「僧位を得れば、このような法衣も着られ、収入を得る道も!!」というコピーがこの講座の隠された趣旨を如実に示しています。もちろん最近流行の仏教的生き方への消費者の憧れを商売にしようというマーケティングもあるでしょう。
次に問題なのは、僧位(僧侶の位)を授与するのが、広告に言うところの「玉龍寺住職 宮前心山先生」だということです。
この「宮前先生」は広告では法衣を着て笑って合掌している写真が載っていますが、「ご経歴」には「玉龍寺」の所在地も書かれていません。
「ご経歴」によれば「昭和10年新潟生まれ、同志社大卒」、禅宗系の様々な老師について修行し、現在は世界中を飛び回って「出張指導」し、「独自の方法で根本仏教である無宗派仏教の普及につとめている」とあります。
ここから分かるのは、「宮前先生」は〈どの宗派・教団にも属していない〉禅宗系の人ということ。
そして、本人が意識してか否かは別として、〈このような営利目的の講座に自分の権威を貸し出し(当然対価はあるはず)、写真を公表して当たり前だと思っている〉ということです。
私が住職をつとめる吉祥寺は「真言宗善通寺派という宗派」に属しており、私の「僧籍」は同じく真言宗善通寺派に置かれています。
年間いくらかの宗費を払い、宗派が求める寄付や行事には応えなくてはなりません。
また、私・吉祥寺が行う宗教行為は、宗派の教義に即したものであることを求められ、人事等も宗派の承認を得なければなりません。
普通ならこんな面倒なことはしたくありません。
でも、なぜ宗派に属するのかというと、大日如来から弘法大師を経て現在まで到る〈人間を仏教的真理に導く智慧の蓄積〉がその宗派にあるからです。
ハッキリ言うと、私が宗派を離脱し吉祥寺の住職を辞め、どこかのアパートの一室を借りて「営利寺」とでも名乗れば、私は「総本山営利宗管長、営利寺住職」を名乗り、「営利宗僧侶」の資格をどんな人間にどんなに高価で授けようと勝手なのです。
まぁ、そんな資格貰ったからといって、葬式や法事のお呼びがかかるはずもなく、
「私は営利宗僧侶だ」と名乗って高野山でもどこでもちゃんとした寺院に行けば、叩き出されること間違いありませんが・・・
恐ろしい話ですよね。
もし本当に僧侶になりたいのなら、とにかく近くのお寺の門を叩くこと。
断られたり、そこのお坊さんが気に入らなかったら、何度でも様々なお寺・お坊さんにアタックすること。
そして、この人はと思ったお坊さんによって、自分の〈真理への意志〉を確認してもらうこと。
それが在家(家にいて)で僧侶になるための方法・第1歩=立派な修行だと思います。
その上で言えば、「僧侶の資格」を取らなくても、日々仏に近づくべく祈り続け、日常の生活を仏教的基本に基づいて豊かにしていけば、あなたは〈仏の弟子=僧侶〉です。
私が「在家僧侶」の資格を差し上げましょう。
この4年の間に氏の「在家僧侶養成講座」は、作家の家田荘子さんが在家僧侶になったということもありTVなどのマスコミで話題になりました。メールで教えていただいた氏のHPも覗いてみました。確かに玉龍寺は存在し、宮前氏はそのご住職でした。http://www4.ocn.ne.jp/~heart-mt/subdir/syokai.htm
また、ちょうだいしたメールの中で、氏が開いている道場としてご紹介いただいた「ハートテンプル」は「禅農場」と称して農作業と修禅を一体化した独自の集団生活を送り、引きこもりや不登校児童の救済も行っているようでした。(禅農場は現在、可空心語という方が農場主を務めているようです)
今回の新聞広告には、かってあった「僧位を得れば、このような法衣も着られ、収入を得る道も!!」の惹句はありません。新に「複雑な人間関係・不安・ストレス・怒り・絶望・・・/こんな現代社会だからこそ、心の時間が大切なのです!」というコピーがあります。
また、「資格について」という項目で、「在家僧侶の資格は、本講座の執筆者でもあり、監修者でもある岐阜県・心山寺住職宮前心山先生が直接、受講者に認定・授与するものであり、日本カルチャー協会が認定するものではありません。また、資格は多くの宗派と同様、公的なものではありません。あくまで『仏教を深く知り、悟りを開いていく』ことが目的です」と書かれています。
[平成15年12月追記]
10月に書いて更新する気力を失っていた上の文章を、今アップロードしようとしてリンク先を確認すると、師の紹介文から「玉龍寺住職」の記述は消えていました。どうしたのでしょう? 今はカナダで心山寺というのをやっているようですが、私は英語が読めませんのでそれも詳細不明です。また、禅農場のHPからも「可空心語」という記述も消えています。
この問題はこれで終わりにします。ただ、僧侶になるには(仏教を学ぶのではなく)良い師を見つけることが大事であり、仏教に自己流というのはないということが言いたかったのです。