井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その11
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〈徳安での水事情(1939年3月)〉
私たちは数日間城外のくずれ残った民家に宿営して前進命令を待った。しかし、なんとも水の汚ないのには閉口した。くずれ落ちた城壁の外にかなり大きな水たまりがあって、各部隊はこの水を炊事用に使っていたが、なにしろたった一つの水たまりをたくさんの通過部隊が使っているのだから、水面には鍋墨や油が充満し、名状しがたい悪臭をはなっていた。おまけに、水たまりの岸にはドラムカンの風呂がならび、兵隊のほか朝鮮人慰安婦たちが入浴している。これらの汚水が、ふたたびみたび同じ水たまりへ逆流しているのだから、ものすごい汚れようであった。
この水を使うことは防疫班の指示によるものだというので、私たちもやむをえずこれを使ったが、米をとぐだめに表面の油をはらいのけると、水の底から残飯や魚の骨など、種々雑多な汚物が、まるで夏空の入道雲のようにもりあがってきた。近くには川も井戸もあるのにどうしてこの汚水を使うのか、と不審に思って防疫班に問いあわせてみると、九江から徳安一帯の井戸や河川には、中国軍の謀略部隊の手で、コレラ菌が投げ入れられている疑いがあるため、使用を禁止しているのだ、ということだった。(131-132頁)
〈行軍途中で捕らえた中国兵について(1939年3月16日)〉
翌十六日早暁のことだった。私たちが洗面のため池へ出てゆくと、ときを同じくして隣家から飯盒を手にした男が四、五人あらわれた。友軍かと思い、おはようと言葉をかけようとしたのだが、どうもようすがおかしい。朝霧のなかで瞳をこらしてよく見ると、それはまぎれもなく中国兵であった。話し声のようすでは、家のなかにも幾人かいるらしかった。
“先んずれば敵を制す"と私たちは急いで手分けをし、表と裏の両面から先制攻撃をかけた。寝ぼけまなこの中国兵八名を逮捕したが、彼らはまったく無抵抗で、ばかばかしいほど簡単につかまった。それもそのはず、彼らは兵器を捨てて逃げてきた逃亡兵のグループだったのである。彼らは少人数の私たちを、友軍の逃亡兵と信じこんでいるらしく、「南から日本軍が攻めてくるときいたので、俺たちは南昌から逃げてきたんだ。君たちはどこの部隊か知らんが、日本軍が追ってくるので、こんなところにいてはあぶない。俺たちは修水県まで逃げるんだが、よかったらいっしょに逃げよう。早く仕度しなさい」と私たちにいったりもした。
彼らのこんな行動も、ひとつには中国軍の体質自体に起因していた。当時の中国では一般に"好男不当兵″(ハォナンプタンピン=りっぱな男は兵隊にはならない)ということがよくいわれた。この言葉通り、中国兵の質はじっさいの話あまりよくなかったのである。それというのも、当時、金持ちの家の男子に徴兵令がくると、町の浮浪者を金で買ってかわりに入営させるようなことが横行していた。こんな連中の集まりなのだから、中国正規軍の方が、イデオロギーで団結した八路軍や新四軍(いずれも共産軍軍)より質がおとっているのは当然のことだった。
さて、こうして中国兵を捕えてはみたものの、われわれは前進の途中であり、彼らを連れていては足手まといになるので、どう処分したものかと迷った。けっきょく、ぜんぜん戦意のない者を殺すのはかわいそうだという大塚准尉の意見にしたがって、釈放することにした。(135-136頁)
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