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京都市在住で京都の近代史を勉強している者です。なお、ブログの趣旨に添わないコメントは削除させていただく場合があります。

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井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その10

〈百万ドル事件について(1943年)〉
 
 
 また、のちの話になるが、昭和十八年、上海憲兵隊内で百万ドル事件という一大不祥事件が発覚し、上海はもちろん各地の憲兵隊を震駭させた事件がおこっている。上海の元共同租界に同祥貿易公司という中国系の貿易会社があった。昭和十六年十二月八日の太平洋戦争突入とともに、共同租界とフランス租界はともに日本軍が支配するところとなったため、この地域にも当然上海憲兵隊の権力がおよぶようになった。   
 
 同祥貿易公司は、まず巧妙な手だてをもって上海憲兵隊内へ誘惑の手をさしのべた。この手中に落ちたのが当時上海憲兵隊に勤務していた大国太郎憲兵准尉であった。最初はもちろん夕食の提供などから、次第に背広、こづかい銭の贈与などへと進み、大国准尉の勧誘によって逐次同穴のむじなはその数を増し、ついには同類十数人をかぞえるようになったのである。   
 
 彼らは同祥貿易へ情報を提供するほか、同貿易会社の行なう密貿易に手を貨していた。その代償として、同祥貿易側は彼らに金銭や背広などを贈った。そのうち大国准尉らは同祥貿易に百万ドルという巨額の金を要求し、これを収賄着服するようにもなった。   
 
 この収賄事件も当分のあいだは発覚しなかった。だが彼らグループのはなはだしい豪遊ぶりに不審の目をもった憲兵隊で内密のうちに授査を進めた結果、事件の全貌が明らかになり、グループの首領である大国准尉が検挙されたのである。   
 
 憲兵が同隊勤務の憲兵を検挙し、軍法会議へ送るといういまわしい事件であったが、軍法会議では憲兵という任務権限の特殊性から、情状酌量の余地なし、という判決となり、大国准尉は銃殺刑に処された。十数人といわれる彼の同類たちの処分、氏名などは一切発表されなかったため、その詳細は不明であるが、憲兵隊部内ではこの事件を百万ドル事件、または大国准尉事件と呼んだ。これは日本憲兵史上もっとも醜悪な収賄事件であった。(116-1147頁)
 
 
 
 
 
〈中支那派遣憲兵隊の組織と軍令憲兵の役割について(1937年12月結成)〉
 
 
 ここで中支那派遣憲兵隊(南京。司令官・大木繁陸軍中将。のちに十川次郎中将と交代)の基礎的な編成方法と、戦地における憲兵(軍令憲兵)の任務やその権限を簡単に説明しておこう。そもそも憲兵隊司令部は支那派遣総軍司令官に直属(日本内治の直令憲兵は陸軍大臣に直属)し、各地に分散する憲兵隊本部を統轄する。憲兵隊本部は通常上海、南京、九江などと本部所在の地名を冠していたが、特殊な場合、甲憲兵隊、乙憲兵隊と呼称する隊もあった。隊本部は各地の分隊、分遣隊などを統率指揮した。つまり隊本部は各分隊からの報告を検討し、これをとりまとめて司令部へ報告する。司令部は各地の隊本部からの報告を総括して中央へ報告することを任務としていたので、隊司令部と本部とは特別の場合をのぞき警察権を行使しない、一種の事務機関であった。軍警察としての実務は、分隊以下が担当していた。それぞれ所管地域の取締りに任じ、その成果を隊本部へ報告するわけである。また、主要地区の隊本部以上には主計、軍医、獣医などが軍司令部から配属されて、それぞれ所管の任務をとっていた。   
 
 手不足の憲兵を補佐するため、隊本部以下、分隊、分遣隊にいたるまで、その地域の警備部隊から、必要に応じた人数の将兵が配属されていた。これを補助憲兵といい、隊本部などではこれら将兵が庁舎の警戒や衛兵勤務につき、分隊以下では衛兵や外勤憲兵の補佐にあたっていた。しかし、たとえ将校といえども、補助憲兵には独立した警察権はあたえられてはいなかった。なお、九江分隊などでは、中国人取締りの便宜上、中国人の志願者を募果して憲佐というものを作り、補助憲兵にあわせて使っていたが、これら憲佐にも警察権はなかった。   
 
 実務を担当する分隊には、分隊長のもとに警務係、特高班、庶務係があり、それぞれ必要数の人員が割りふられていた。隊本部、分隊を問わずその構成人員は不同で、それぞれその地域の重要性に応じて編成されていたので、一個分隊の兵力が何名ということはいえないが、おおむね三十名以上、上海、漢口(ハンカオ)などの特殊地区をのぞいて憲兵そのものの数はだいたい五十名以下だった。   
 
 また、憲兵分隊の分隊長という呼称については、各地でおもしろいエピソードがあった。一般兵科の編成では、分隊長は兵長または上等兵で、その部下も、六、七名に過ぎないので、憲兵隊を訪れる他兵科の下士官兵のなかには、軽い気持で分隊長に会いたいといってくる者が少なくなかった。こちらが、分隊長殿は憲兵大尉だが何の用かね、と問いかえすと、あわてふためいて追げ出していったものだった。   
 
 さてその任務であるが、戦地憲兵は本来の任務である軍紀の取締りのほかに、情接収集、思想戦対策、中国民衆対策、宣撫宣伝、第三国人の保護、交戦国人の監視など、ほとんどあらゆる部門を管掌していた。したがって、重大な掠奪暴行や強姦事件以外は、本来の任務をおろそかにせざるをえない状態だった。   
 
 これらの諸任務については、憲兵分隊に置かれた庶務、警務、特高などの係が分割、管掌していた。たとえば庶務係は、隊内の給与会計、営繕を受け持ち、警務係は軍紀の取締り、敵産(敵の所有に属する土地、建物、物資など)の監視、物資の輸出入、移動の統制監視、在留邦人の保護と営業許可業務から慰安婦の検梅まで、非常に多岐にわたっていた。また特別班は防諜、情報収集、治安維持、思想戦対策、謀略および宣撫宣伝、中国側警察の指導などを管掌していた。   
 
 分隊長指揮下の分遣隊は、おおむね遠隔の地にあるため、小さいながら分隊に準じた方法をとり、分隊所在都市の要所に分散した分駐所、派遣所などは、分隊長の直接指揮下に置かれ、主として軍紀の取締りと、対住民対策、住民保護にあたった。   
 
 今回のように隊司令部から派遣隊(隊長はおおむね大・中尉が多く、占領地到着後分隊を開設し分隊長となった)が派遣されるのは、大きな攻略作戦の場合で、派遣隊は軍司令部や師団に配属、または協力した。敵情偵察をして軍の作戦に資するかたわら、軍紀、風紀の取締り、敵産処理などに任じ、隊本部、分隊などから派遣隊が出る場合は、特殊な任務以外は地区警備部隊の行なう小規模な作戦に協力する場合が多かった。   
 
 とくに遠隔地に派遣される派遣隊長や分遣隊長には、法の範囲内においてある程度の独断執行権があたえられていたので、場合によっては特務機関の任務とされたた軍政に属する施策まで、憲兵の手によって行なわれた。分隊特高班員の多くは分隊内に起居し、防諜のための軍事郵便物の検閲、諜報(情報収集)のための中国側郵便物(交戦国でも郵便局は中立となっているため、彼我相方の郵便物を差別なくとり扱っていた)の検閲、諜者、密偵(スパイ)を駆便しての情報収集などを行なっていた。また、一部の班員はわが軍の鉄道隊、あるいは野戦倉庫などに苦力(クリー=中国人人夫)に化けて潜入し、数ヵ月または数年問にわたって防諜、諜報工作にあたったりもした。   
 
 敵情収集を目的とする場合には、敵地深く潜入しなければならなかったので、主として中国人諜者を派遣していたが、大きな作戦の前などには、とくに確実な情報を必要とするので、憲兵がみすがら中国人に化けて敵地へ潜入し、中国軍の配備状況、河川や湖沼の大きさ、水深、橋梁の有無、食糧の有無などについて調査した。(122-124頁)
 
 

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