井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その8
〈憲兵隊が南通から引き揚げることでの住民の不安(1938年9月)〉
私たちはできるだけ秘密のうちに引き揚げの準備をしていたのだが、往民たちのカンはするどく、翌日には十数名の代表が引き揚げ中止の陳情におとずれ、あとからついてきた近所の婦人たちも、路上に泣きふして別れを借しんでいた。おそらく憲兵隊なきあとの身の安全に不安を感じていたのであろう。(109頁)
〈難民の街・上海(1938年9月)〉
上海(ソンヘイ)は、もともと中国最大の都市であったが、このころには戦渦に迫われた各地の難民がぞくぞくとつめかけ、町が破壊するかと思われるほどの状態で、当時の推定人口は七百万ともいわれていた。
一年前の七月七日、華北蘆溝橋において火ブタが切られた日中間の戦争は、またたくまにこの上海にも飛び火していた。八月十三日に海軍陸戦隊と中国軍との交戦が間始されるや、十五日には政府が南京政府断固膺懲を声明し、大規模な派遣軍を上海に送りこんだ。しかし中国の軍隊の抵抗は予想以上のものだった。九月末には抗日民族統一戦線が成立し、共産軍は華北では八路軍、華中では新四軍に改編されて戦線に加わったのである。戦線は膠着したが、日本軍は杭州湾に新たな大兵力(柳川兵団)を上陸させてようやく上海の戦線を突破、十二月には南京を占領した。このとき占領部隊は多数の婦人子供をふくむ大虐殺事件をひきおこし、中国の人々の抗日意識をますます強める結果となった。
そして年が明けると戦線はさらに拡大し、三月には華北と華中の戦場を結ぶために徐州作戦が開始されたが、中国軍はねばり強い抵抗を示し、四月の台児荘の戦闘では退却を余儀なくされていた。中国の戦場はいよいよ泥沼の様相を呈しはじめたのである。こうしたなかで、上海には戦渦をのがれてきた人々が難民としておしよせてきていた。(109頁)
〈兵站地としての上海(1938年9月)〉
また、国際都市である上海は、他の都市にくらべていろいろとちがったところが多かった。上海についてまず目についたのは、租界を走るバスが二階建てになっていることだった。このバスは英国系の会社が経営しているので、ロンドンの市内を走っているものと同じだ、という話だったが、内容はまったくちがっていた。車内は二階が椅子席で白人と日本人用であり、下には椅子がなく全部立ち乗りで中国人と黒人、それに日本人をのぞく有色人種用だった。また電車も前後二室に仕切られていた。これもバスと同じように前部は白人用、中国人たちの乗ろうしろの一室は、動物のオリのように金網でかこった立ち乗りの荷物車だった。虹口から共同租界へ往復するのにも、なぜか中国人にかぎって身分証明書が必要であった。南通の南洋洋行の支配人揚洪石(ヤンホンシー)君の話によれば、日本軍が上海を支配するようになると同時にとりのぞかれたが、以前は共同、フランス両租界にある公園の入口には、″犬と支那人は入るべからず"と書いた立て札がたっていたのだという。
上海に着いてもっとも奇異に感じたのは、戦時下というのに町に商品があふれ、道ゆく人々の服装がきらびやかなことであった。そして表通りにはダンスホール、キャバレー、バーなどが並び、日夜を問わず繁盛していた。ただしこれは表面上の姿であり、ひとたび路地裏へ目を転じればこれはもう悲惨なもので、路地という路地には家なき難民があふれ餓死者が続出していた。このような状態であるため、フランス、共同両租界、南京地区の治安は乱れに乱れて中国側の暗殺団が横行し、白昼でも殺人、暴行、掠奪、かっぱらいなどの事件は枚挙にいとまがないほど頻発し、まったく文字通り天国と地獄が同居しているありさまだった。こうしたなかでキャバレー、ダンスホールなどをはじめ退廃的な夜の町がにぎわっていたのは、一部戦争成金階級を尖兵としてはいたが、一般的に市民が拾てばちな気持になっていたからなのだろう。
上海が好況だった一因は、ここが日本軍の補給基地であったことにもよる。こと日本軍にかぎって見ると、軍司令部所在地である北京、南京などは作戦命令系統の拠点てあり、上海、天津などは補給系統の後方基地であった。この出先機関がある漢口、九江などはさしずめ前線基地もしくは中間基地とでもいうのだろう。これらの基地は前線部隊へ命令を発する基地あるいは軍需物資の集配基地であるばかりでなく、前線から交代で一時帰休する将兵たちの憩いの場所でもあった。作戦を終えて休養を許された部隊の将兵以外は正式に休暇をとるということはできなかったが、書類逓送、命令受領、連絡などの名目で出張してくる彼らはこのときとばかりに遊びほうけるので、歓楽街は彼らと在留邦人たちが入り乱れて乱痴気騒ぎとなっていた。もちろん新しく占領した前線近くの町々もたちまちのうちにこれに似た姿にはなるが、その規模においては上海の比ではない。地形的に扇のかなめにも似た上海であり、後には百数十万といわれた在華日本軍に対する補給の大部分をまかなうようになった上海では、戦況が悪化するにしたがって捨てばちになった将兵と邦人たちによってこの馬鹿さわぎはますますその度を増していった。前線に遠く敵機による空襲もほとんど知らぬ上海は、終戦時までこの状態をつづけたのである。戦地といえば誰しも砲弾飛びかう最前線の死闘を想像しがちではあるが、中国戦線の特異性とでもいおうか、こうした後方基地勤務の将兵のなかには数年にわたる従軍期間中一発の銃声も聞かなかったという幸運な人たちがあったことも事実である。(111-112頁)
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