愛新覚羅溥傑さん:次女、遺品の書や手紙など寄贈
毎日新聞 2013年10月19日 15時45分
中国・清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)の弟で、日本人女性と結婚した愛新覚羅溥傑(あいしんかくら・ふけつ)さん(1907〜94年)の書や手紙などを、溥傑さんの次女の福永嫮生(こせい)さん(73)=兵庫県西宮市=が関西学院大(同市)に寄贈した。関学大は近現代史の専門家によるチームを作って精査し、来年9月に学内に開設予定の博物館で2015年以降に一般公開する。博物館開設準備室は「日中の近現代史の一面に光を当てる貴重な資料」と期待している。
福永さんは1940年、溥傑さんと嵯峨侯爵家から嫁いだ浩(ひろ)さん(14〜87年)の次女として東京で生まれた。皇帝溥儀を擁する満州国(現中国東北部)と日本を行き来して育ったが、45年8月のソ連の対日参戦で溥儀や父は抑留される。自身と母は一族と共に八路軍(中国共産党軍)に拘束され、中国各地を転々とした。
46年2月、収容先の共産党施設(現吉林省)を日本軍の残党が襲撃し、銃撃戦に。暗い一室で、機関銃の連射を避けて母に抱かれていたが、傍らにいた皇帝の乳母の右手首が吹き飛ばされた。「鮮血が飛び散った様子が目に焼き付いている。ただただ怖かった」
その後、国民党軍による拘束を経て、ようやく母と帰国。中国ではいつでも逃げられるよう服のまま眠っていたが、「今夜からは寝間着でいいのよ」と母に言われたのが忘れられない。
21歳になった61年、中国を再訪した。書家でもあった父は16年ぶりの再会を祝し、清時代の絹張りのうちわに自作の詩をしたため渡してくれた。また、溥儀をはじめ、その場にいた親族らが色紙に署名した。福永さんは段ボール27箱分の書や手紙、写真に加え、このうちわや色紙も関学大に託した。「将来資料が散逸しないようにと考えた。自宅に近く、見たい時にもすぐに来られる」
福永さんは日本で家庭を築いたが、両親は中国で晩年を過ごし、日中友好に尽力した。父はよく「相依って命を為(な)す」と口にした。広い世間で巡り合った人を大切にし、助け合って生きていこうとの思いからだ。
日中関係が冷え込む中、福永さんは「日中は2000年の付き合いがある隣人。友好に努めてきた先人の努力を無駄にせず、心の交流を重ねてほしい」と願っている。【花牟礼紀仁】