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手塚治虫さん

 1963年1月1日午後6時15分、国産初の30分アニメーションシリーズ「鉄腕アトム」の第1回が放送された。ウォルト・ディズニーに憧れた原作者の手塚治虫の悲願がかなった瞬間だった。

 アニメ作品があふれる現在の感覚で当時の爆発的ブームを想像するのは難しい。何しろテレビでやっている連続アニメがそれしかなかったのだ。

 「心やさし ラララ 科学の子」―。日本を代表する詩人、谷川俊太郎(81)作詞の主題歌にのって繰り返し放送されたアトムは、子どもの人気者から、国民的アイドルになった。

 だが、これによって本人の予期しないことが起きる。長女の手塚るみ子(48)が言う。

 「放送以降、アニメのイメージでこの作品が語られることが多くなり、それは父にとって、とても不本意なことだったんです」

 正義のスーパーロボット、科学万能、明るい未来社会...。今も多くの人がこの作品に抱くイメージは、こんなところだろう。しかし、手塚が自ら握るペンで描いた漫画原作を読めば、物語の世界観はそのような単純なものではない。

 「図説鉄腕アトム」の著者で手塚プロダクション資料室長の森晴路(60)は「科学礼賛などではなく、むしろ科学万能社会への懐疑といった深遠なテーマが流れている」と話す。

 代表作といわれる「アトム」に対して、手塚は89年に亡くなるまで、複雑な思いを抱いていたという。手塚プロ社長の松谷孝征(68)は「あれは僕のアトムじゃない」と突き放す手塚の冷たい声を聞いている。

 「アニメは限られた時間枠に物語を収める必要がある。協賛企業やテレビ局の意向も入らざるを得ない。作者の意図と離れていってしまうことがあるんです」

 草創期から活躍するアニメーター鈴木伸一(79)は、大掛かりになるアニメ制作の難しさをそう解説する。鈴木は当時、手塚から頼まれ、石ノ森章太郎、藤子不二雄らとともに第34話「ミドロが沼」を制作した。

 「鉄腕アトム」をめぐり、手塚が感じていた世間とのすれ違い。その溝を象徴するかのような出来事が77年に起きた。原子力発電のPRにアトムが使われた"事件"である。(大津薫、文中敬称略)

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 アニメ放送から50周年を迎えた「鉄腕アトム」。漫画家手塚治虫さんは、原発PRにまで利用されたヒーローに、ある種の悲しみを感じていた。東京電力福島第1原発事故から2年を機に、手塚さんの思いに迫る。

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日本を創る 連載企画原発編 原発と国家

①原発と国家

第1部「安全幻影」
第2部「『立地』の迷路」
第3部「電力改革の攻防」
第4部「『電力』の覇権」
第5部「原子力の戦後史」
第6部「原子力マネー」
番外編・原子力の戦後史を聞く
第7部「原子力人脈」
第8部「漂流する原子力」
番外編・アトムの涙 手塚治虫が込めた思い

②復興への道

第1部「漂う人びと」
番外編・専門家に聞く
第2部「再建のハードル」
第3部「地方のスクラム」
第4部「海外の被災地」

③インタビュー

震災と文明
震災後論
海外の原発政策
震災後論②
震災後論③
震災後論④