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【暮らし】

「自ら考え、決める」貫く がん患者の記録映画 各地で上映

乳がんを患いながら、積極的な治療を受けずに18年間生き続けた渡辺容子さん=2010年8月、東京都杉並区の自宅で(映画の一場面から)

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 乳がんを患いながら積極的な治療をせず、昨年五十八歳で亡くなった渡辺容子さん=東京都杉並区=の終末期を追ったドキュメンタリー映画「いのちを楽しむ−容子とがんの2年間」が今夏から各地で上映されている。自ら考え、がん“放置”を選んだ女性の姿を通じ、人の生き方、死に方を見つめる。(山本真嗣)

 映画では余命一年の宣告から、亡くなるまでの二年間を追った。がんが見つかったのは一九九四年、四十歳のとき。主治医は「患者よ、がんと闘うな」(文芸春秋)著者で、慶応大病院の近藤誠医師。「ほとんどのがんに手術や抗がん剤の治療は効果がなく、早期発見、早期治療に意味はない」と主張する近藤医師に共鳴した。

 がんは徐々に大きくなり、皮膚を破る恐れがあったため、六年後にがんだけを除去する乳房温存手術を受けた。その後、全身への転移が分かり、放射線とホルモン療法で痛みを抑える方法を選んだ。「長くだらだら生きるより、短くても楽しく生きたい」と渡辺さんは映画の中で語っている。

 経過観察を続けながら、学童保育職員の仕事をしばらく続け、旅行にも出掛けた。全身転移後も普通に生活し、治療体験録を発行したり、パーティーに参加したり。母親もみとった。古里の福島県を思い、「できることを」と反原発集会にも駆け付けた。

 現代医療への懐疑心から何冊も本を読み、医師に質問し、治療法は全て自分で選んだ。「人生は自分が自分の主人公でいられることが大事。主治医も自分」

 だが、現実は容赦ない。最後の数カ月はほぼ寝たきりで、全身の骨に転移したがんの痛みに苦しむ。「死ぬまでには大変な苦労がいる」といい、衰弱していく渡辺さんを、カメラは克明に記録する。

 それでも、みとった妹の越子さん(57)は「やりたいことをやり通した姉は、幸せだった」と振り返る。

 映画では、渡辺さんと対照的に積極的な治療に臨むがん患者の女性=当時(56)=も登場。五十四歳で子宮肉腫と診断された女性は、子宮の全摘手術や抗がん剤、放射線治療のほか、保険適用外で一回数十万円の免疫療法なども受けた。女性は「ずっと死刑宣告を受けて生きている気持ち。背負った重い荷物を下ろせないような」と語る。

 この女性も渡辺さんと同様、徹底的に調べて自ら治療を選んだ。しかし、容体は悪化し、緊急手術の二日後に亡くなった。夫は「小さな明かりだったかもしれないが、少しでも可能性があれば、治療が生きる希望だった」と話す。

 容子さんの知人で、映画を製作したビデオプレス(東京)代表の松原明さん(62)は「がんも生も死も一筋縄ではいかないという現実を見て、それぞれの生き方、死に方を考えるきっかけにしてほしい」と話す。

      ◇

 映画は十一月十九日、さいたま市の彩の国さいたま芸術劇場で上映。千二百円。(問)ビデオプレス=電03(3530)8588=へ。

◇渡辺容子さんのがん発見後18年間の歩み

1994年春  右乳房に5ミリほどのしこり発見。近藤医師に受診し、放置を決める

2000年7月 しこりが4〜4.5センチほどになり、乳房温存手術を受ける

 08年10月 鎖骨上のリンパ節への転移確認。ホルモン剤治療を続ける

 09年8月 骨、肺、肝臓への転移確認。放射線治療開始

 10年3月 近藤医師から余命1年の宣告受ける

   7月 ビデオプレスが撮影開始、がん治療体験録を出版

   10月 母・ワキ子さんをみとる。小笠原諸島に旅行

 11年4月 東京電力前の反原発集会に参加

 12年2月 骨転移からくる痛みが激しくなる

   3月 豊島病院緩和ケア病棟で死去

 

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