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憲法から時代をよむ

第4回 憲法の最高法規性と条約--98条 (水島朝穂-憲法から時代をよむ)

「政府が議決した法律は、…憲法に違反することができる」。これはナチスが、1933年3 月24日に制定した「授権法」(別名「全権委任法」。正式名称は「民族および国家の危難を除去するための法律」)第2 条の前段である。これが制定される1 カ月ほど前に起きた国会放火事件。その混乱に便乗して、「人身の自由」以下七つの基本権を停止する大統領緊急命令(1933年2 月28日)が発布された。そうした異様な状況のなか、しかもナチス突撃隊(SA)が多くの野党議員を院外に排除するなかで可決されたのが、この授権法である。そこには、少なくとも二つの“?”がある。まず、授権法で制定可能となった「政府が議決した法律」。驚くばかりである。これは同法1 条の、「法律は、憲法に定める手続によるのほか、政府によってこれを議決することができる」を受けたものである。行政府が、議会から立法権を簒奪することを、議会制定法で認めたわけである。まさに「議会制民主主義の自殺」にほかならない。もう一つ、「法律が憲法に違反できる」。これにより、ヴァイマル憲法(1919年8月11日)はとどめをさされた。「立憲主義の死」である。法の歴史において、ここまで厚顔無恥の法律は他にないだろう〔なお、引用条文は「ライヒ〔国〕」を省略〕。

 さて、「法律が憲法に違反できる」という法律は、いまはどんな独裁国家にも存在しない。どこの国でも、憲法を頂点とする法の段階構造を前提に、国の仕組みを設計している。日本国憲法も同様である。第10章の標題は「最高法規」。そこに置かれた98条は、「最高法規性」の宣言的保障といえる。その第1 項。「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と。憲法を頂点に段階構造をなす国内法秩序において、憲法に反する法律などはその存在を否定される。なぜ、そこまで憲法に強力な規範パワーを与えたのか。「個人の尊重」(憲法13条)を軸とする人権保障を実現するためにほからない。98条の制度的担保は、裁判所による違憲立法審査権である(後に81条の回で述べる)。
  なお、98条1 項に列挙される法律以下のものは、あくまでも例示と理解されている。そして、「国務に関するその他の行為」というのも、カバーする範囲は広い。もっとも、そこに「条約」は含まれるのか否か。

 国家間の合意である条約と憲法との関係を語るとき、その背後には、国際法と国内法の関係というやっかいなテーマが伏在している。この問題では、古くから「二元説」と「一元説」が「対立」してきた。前者は、国内法と国際法は異なる法次元に存在しており、国際法は国家間関係を軸に、国内法は当該国家の内部における国家と私人の関係などを軸にしている。国際法が国内で効力をもつには、別に国内法の制定を待たねばならないから、両者の間には法規範の抵触も、いずれが優位するのかといった問題も生まれないとする。これに対して後者は、国内法と国際法は同一の法体系にあると考えるから、条約にどのような国内法的効力を認めるかは、それぞれの国内法で決めることになる。
 もっとも、「二元説」は、時代の流れのなかで存在感を失い、一元説が通説となっている。一元説を採用して初めて、「憲法と条約」という論点も意味をもってくる。

 98条1 項には「条約」という文言は出てこない。そのかわり、2 項で、「日本国が締結した条約」と、「確立した国際法規」(成文・不文を問わず、現存の国際法規・慣例)の誠実遵守を求めている。これだけを見ると、1 項に条約という文言がなく、2 項で条約の「誠実遵守」をうたっているので、条約が憲法に優位するようにも見える。だが、2 項は「誠実遵守」しかいっておらず、条約が常に憲法に優位して、フルパワーの効力をもつというふうに考えるべきではない。原則は、98条1 項で最高法規とされた憲法に適合する条約のみが国内法的効力をもち、「違憲の条約」は効力を否定される。国家間の合意である条約もまた、憲法に反して存在することはできないのである。

 ただ、条約も「いろいろ」であって、抽象的な一般原則を宣言するだけで、その実施のためには具体的立法措置を必要とするような条約から、そのまま国内法の形で実施しうる「自動執行力のある(self-executing)条約」まである。特に「自動執行力ある条約」の場合、直接に国内法的効力をもってくると、国内法との関係がリアルになってくる。法律よりも、条約が優位するという点で争いはないが、憲法との関係では議論がある。条約優位説と憲法優位説、その中間説とに分かれるが、憲法優位説が通説である。ただ、日本で「憲法と条約」というテーマを語る場合、そこにはある種の「歴史性」が刻印されていることも確かだろう。かつては、「条約」についての議論は、憲法の平和主義の観点から、日米安保条約関連の議論が中心だった。この7 月8 日で、発生から50周年を迎える「砂川事件」。その最高裁大法廷判決(1959年12月16日)があまりに強いインパクトをもってきたこともあり、このテーマでは、思考の「呪縛」が見られる。それゆえ、今日でもなお、憲法優位説に立ち、かつ平和主義や国際協調主義の視点から、日米安保条約の問題性をとりあげることの意義は依然として失われていないし、むしろ、「日米安保のグローバル化」のなかで、新たな憲法思考が求められているといえよう。

 さて、安保条約のように、憲法の平和主義との矛盾という面から議論される問題とは異なり、近年、「人権の国際化」や「グローバル化」のなかで、さまざまな条約が締結され、日本国内で効力をもち、影響力を広げている。とりわけ、国際的な人権条約との関係をどう考えるかは、安保条約のような二国間条約を前提にした議論とは別の側面をもっている(『基本法コンメンタール(第5 版)』98条〔畑尻剛〕参照)。
 国際的な人権条約のなかには、例えば、戦争宣伝(国際人権規約〔B規約〕20条)や、人種優越思想の流布(人種差別撤廃条約4 条)それ自体を処罰する法律の制定を求めているものもある。これらの条項は、日本国憲法21条の「表現の自由」などとの関係で、鋭い緊張関係が生まれる。人種差別撤廃条約の場合、日本政府は、日本国憲法の人権保障と抵触しない限度内で、これらの条約義務を履行するという「留保」(1995年外務省告示674号)を行っている。
 国際的な人権条約の場合はまた、二国間条約とは異なり、多国間で正文が得られた条約への「加入」という形をとるため、国会での承認時における条約修正のむずかしさの問題もある。日本国憲法の人権条項よりも「進んだ内容」が国際人権条約の方にあるという場合も、憲法との関係でどのような調整を行うかということが具体的に問われている。                                                                              
(2007年5月21日稿)


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