『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』
  霞ケ浦、土浦海軍航空隊および周辺の海軍航空隊 
霞ケ浦海軍航空隊の発端
 わが国の海軍航空の始動は、日露戦争の経験を土台に始まった。1910年(明治43)年、航空技術研修のため有能な士官を欧米諸国に派遣し、1912年に海軍航空術研究委員会が正式に発足し、海軍航空術研究所が横須賀軍港追浜に建設された。
 この建設と前後して、先に派遣されていた士官たちも研修を終えて帰国し、米国のカーチス飛行機と仏国のファルマアン飛行機の2機をもって、1912(大正元)年11月、追浜で飛行したのが、わが国海軍による飛行のはじめといわれる。
 以後、海軍の体制づくりは着々に進められ、1916年4月、わが国最初の海軍航空隊が横須賀に開設され、海軍の航空技術教育が正式に開始されることになった。
 時代は、陸・海から空の時代に入っていった。わが国も各国の航空軍備の発達に刺激され、飛行機の研究と局地的防御を行うために、水陸両用の飛行場を開設する必要が、1917年欧州から帰国した金子養三中佐によって提唱され、当時来日していたフランスのフォール大佐の助言によって、飛行場の開設が決定されたという。そして、水陸両用飛行の訓練用地として、当時の阿見村に白羽の矢がたった。
 1919(大正8)年末、陸上機の練習場として阿見原に80万坪、水上機の練習場として阿見村霞ケ浦湖岸に約5万坪の土地買収が決定。湖岸の埋め立てをして1920年、霞ケ浦飛行場が開設された。
(『阿見町史』より)

霞ケ浦飛行場、用地選定理由と買収経過
 陸上自衛隊武器学校編『郷土史』は、霞ケ浦飛行場の選定理由と土地の買収について次のように記している。
 「この地は、金子養三中佐が発見し勧奨した…のであるが、陸上機の練習場として好適なばかりでなく、水上機の練習のためには、霞ケ浦の湖面を利用することができるので、海軍における水陸両用の飛行場としては、全く申し分ないところであった。…霞ケ浦飛行場の開設は、大正9(1920)年3月に、通称阿見原85万坪を買収したが、大部分が原野で、土質は悪く畑地に開墾しても農作物の収益は思わしくないところに、住家もわずかしかなかったので買収はきわめて順調に運び、その後1年がかりで整地と霞ケ浦湖岸の埋め立てが完了して、大正10年4月に臨時海軍航空術講習部の看板が掲げられた。これが霞ケ浦航空隊の草創期であった」
 しかし、買収は必ずしも「順調」とはいえなかったようだ。当時の『東京日日新聞』茨城版は「阿見飛行場の住民 500名立ち退きを嫌って騒ぐ/移民の喧噪が全敷地内に波及す/近く委員を挙げて当局陳情」の見出しで伝えている。
(『阿見町史』より)

霞ケ浦飛行場の開場
 1921(大正10)年7月22日、霞ケ浦飛行場の開場式が行われた。『霞空十年史』によると、その様子は次の通りだ。
 「阿見町は勿論、近郷近在の老若男女、実に5万人が空の妙技を見んものと朝まだ早きからつめかけ、1年前の狐狸の棲家だった阿見原は人で埋まった。アヴロ陸上機3機編隊飛行、特殊飛行、オードリース少佐の落下傘降下に一同賛嘆措(お)くところを知らなかった」
 こうして、阿見の地は、日本でも有数の海軍の街としての歩みを始めた。水陸両用の飛行場を備えた霞ケ浦航空隊は、おりからの航空機の世界的発達に伴い、世界一周ブームが起こり、離着陸場となった。
 1924(大正13)年5月には、アメリカのスミス中尉の率いる水上機3機が飛来し、7月にはイギリスのマクレラン少佐の水陸両用機、10月にはアルゼンチンのザンニ中佐の水上機が飛来してきた。中でも有名なのは、1929(昭和4)年の飛行船ツェッペリン号の飛来である。
(『阿見町史』より)

ツェッペリンとリンドバーグ
 飛行船ツェッペリン号は、世界一周の途中、1929(昭和4)年8月29日午後6時すぎ、西陽に巨大な銀色を輝かせながら、霞ケ浦上空に姿をみせ、東京・横浜上空を表敬の飛来をした後、午後7時40分に霞ケ浦海軍航空隊の飛行場に着陸した。
 この飛行船は、当時世界最大で、その訪問はわが国の国民によって熱狂的な歓迎を受けた。アメリカのロサンゼルスに向けて飛び立つまでの4日間に、飛行船をみるために約30万人の観衆が飛行場に集まったという。
 1931(昭和6)年8月には、太平洋横断飛行・アメリカ大陸横断飛行で、“空の英雄”ともいわれたリンドバーグ夫妻が、アリューシャン列島づたいに飛来してきた。これらによって、霞ケ浦航空隊と飛行場は、世界的に注目を集めていった。
 そして、この年には、わが国海軍航空隊17隊半のうちの4割強にあたる7隊半が、集中することになり、東洋一の航空隊の基地になった。
(『阿見町史』より)

海軍の街に変化した阿見
 昭和初期は戦争の時代だった。1931(昭和6)年の満州事変勃発、1933年の国際連盟脱退などを背景にわが国の海軍は、航空隊要員の大量養成を計画。すでに1930年6月に海軍少年航空兵の募集を開始、さらに航空隊の増設と既存航空隊の整備を急ぎ、1934年8月には友部に筑波海軍航空隊の前身である霞ケ浦航空隊友部分遣隊を設置した。
 1937年7月、日中戦争が勃発。長期戦に備えるために、練習航空隊2隊以上による練習連合隊の制度を設け、1938年に第11連合航空隊を開設、その司令部を霞ケ浦海軍航空隊に置いた。また、同年に練習連合航空隊を統制する必要から練習連合航空総隊を結成、霞ケ浦海軍航空隊内に司令部を置いた。
 阿見は、わが国の海軍航空要員養成の中心機関としての航空隊の設置により、海軍の街として大きく変化した。
 1920(大正9)年の阿見村人口は 603戸、3892人だったが、1937年には1238戸、7964人と2倍強に増加した。1937年の現在人口は、本籍人口の 1.6倍、男子が女子の 1.7倍という数字からも、航空隊の設置が村の姿を大きく変えたことが分かる。
(『阿見町史』より)

霞ケ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊
 航空兵の大量養成に迫られた海軍は、1939(昭和14)年3月、飛行予科練習生の教育を、横須賀海軍航空隊から霞ケ浦海軍航空隊に移管し、同隊の中に海軍飛行予科練習部を設置した。
 1940年11月15日、霞ケ浦海軍航空隊の水上班を母体にした土浦海軍航空隊と博多海軍航空隊(福岡県)を新設。これにより、阿見には霞ケ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊の2つの航空隊が置かれた。当時の新聞は、開隊式のもようを「海の荒鷲育ての親 海軍航空隊開隊式 けふ霞ケ浦湖岸で挙行」の見出しで次のように伝えた。
 「わが国の荒鷲育成に全国唯一の霞ケ浦湖畔土浦海軍航空隊の竣工に伴ふ開隊式は、今10時15分から海軍大臣代理塩沢横須賀鎮守府長官以下関係多数列席の上挙行され、霞空の少年航空兵によって祝賀飛行が行われるだけで、催しもの等は一切なく、時局下にふさわしい簡素な開隊式である」
 当時の阿見村には、両航空隊のほか、海軍第11連合航空隊司令部、海軍練習航空隊司令部、第11海軍航空廠、横須賀海軍経理部霞ケ浦支部、横須賀海軍施設部、海仁会霞ケ浦支所、海軍気象学校、海軍病院、中島飛行機製作所阿見出張所、隣の舟島村(現阿見町)には飛行艇格納庫が置かれた。
(『阿見町史』より)

茨城県初の舗装道路
 「阿見町史研究」創刊号に収められた湯原又右衛門文書に「回顧スレハ航空隊設立ナカリシ以前ハ、我が阿見ハ農業ヨリ外ニ業ナク、人家ハ阿見原ニアリト雖トモ、豚小屋式ノ家屋、原野ノ間ニ点々存在ス。交通不便、道路粗悪、荒川ヘ行クニモ跣足ナラズ行ク不能、誠ニ不便ノ土地ナリ」と記された阿見は、航空隊設置で大きく変わった。
 「粗悪」であった道路も改良され、1921(大正10)年には、土浦自動車商会によるバスが阿見−木原線に開通し、1923年にはアサヒ自動車の阿見飛行場行きが開通した。常磐線も同年、土浦駅まで複線化した。1924年に水郷汽船が開通し、1926年には常南電車が土浦−阿見間に開通した。さらに、土浦駅から荒川沖に至るまでの、霞ケ浦航空隊水上班、同陸上班を通る、幅8間の通称海軍道路といわれた舗装道路ができた。この道路は、本県で初の舗装道路だったという。
 このように航空隊の設置と交通網の整備などによって、大正末から昭和の初期にかけて、水上班の前には、土産物店、食堂、酒屋、肉屋、魚屋、薬屋、呉服店、染物、履物店等々の商店が次々とつくられ、1つの市街地を形成していった。
(『阿見町史』より)

農業人口を上回った軍関係
 阿見村内で、1944(昭和19)年5月までに海軍用地として買収された土地は、田73.1町、畑211.2町、宅地 5.2町、山林 135.4町、原野16.5町、計441.5町にのぼった。このため、「本村中央部ハ軍ノ敷地トナリ、為メニ各部落ニ連絡スル町村道ハ殆ンド中断セラレ、連絡ニ統一ニ極メテ困難ヲ来シ、尚、国民学校児童ノ登校ハ亦極メテ不便ナリ」という状態になった。
 1943年度阿見村立国民学校児童調によると、在籍児童1190人中の56%にあたる668人が軍関係の子弟で、1940年以降、児童数の増加で毎年学級増を必要とした。1944年2月の職業別戸数では、軍関係が43.7%で、2位の農業36.4%をかなり上回っていた。
 軍関係施設が拡張の傾向にあった1942年以降、村では、海軍用地の買収による村税、付加税の収入減、村民利用の町村道の修理拡張、児童数増による国民学校の教室の増築などの問題に直面した。村役場では国税付加税の制限外課税の認可や、町村改築事業県費補助および海軍省助成金の交付増額により解決を図ろうとしたが、1945年4月、軍関係の強い要望のもとに町制を施行した。
(『茨城県史 市町村編V』より)

美浦村湖岸の航空隊
 現在の東京医科歯科大学霞ケ浦分院・国立公害(環境)研究所の地(いずれも現美浦村大山)は、日中戦争・アジア太平洋戦争当時は海軍航空隊の基地であった。
 1937(昭和12)年ごろ、大谷地区からの軍用道路と水道建設工事をはじめ、航空隊敷地になる水田・野原の埋め立て整地工事が行われた。
 当初は、安中航空隊(仮称)と言われていたが、1938年5月11日霞ケ浦航空隊安中水上隊となり、同年12月15日、日中戦争たけなわの時、開隊された。最初は練習航空隊として水上機操縦訓練を主として行い、多くの飛行学生・飛行練習生を擁していた。
 現在でも、霞ケ浦に面した病院の北側、東側には当時の水上機の滑走路跡が残存している。安中水上隊基地は、どんな風向きに対しても飛び立てる立地条件をもち、練習には好適地であったと伝えられている。
 1945年5月5日に、練習航空隊の指定を解除され、鹿島北浦派遣隊となり、鹿島航空隊と呼ばれるようになった。鹿島航空隊の任務は、内地防備・鹿島灘対潜作戦・搭乗員教育などだった。
(『美浦村誌』より)

潮来町と北浦海軍航空隊
 1942(昭和17)年4月、大生原村大生と釜谷地区(いずれも現潮来町)の水田地帯と北浦の湖岸を埋め立てて北浦海軍航空隊が設立され、1945年まで水上飛行機の訓練所となった。予科練教育を終えた青年と、大学卒業後に志願して海軍に入った海軍飛行予備学生の飛行術訓練を主な任務としていた。
 北浦海軍航空隊設置の動きは、1941年に本格化した。海軍の建設計画に基づいて、大生原役場(当時)から、大生と釜谷地区を中心とする約40町歩に及ぶ土地の所有者と住民に対して、航空隊建設への協力要請が行われ、水田や畑の買収と農家7戸の移転が行われることになった。水田の買収は生活基盤の喪失につながる重大事だったが、国家総動員の時代においては抵抗できるはずもなかった。
 しかし、水田では稲穂が生長している時期だったため、建設工事は早生稲の収穫が終わる10月になって開始された。大生の台地から北浦湖岸へ軌道が敷設され、10台ほど連結したトロッコへ大量の土砂を載せて機関車で引き、埋め立て作業は人力により行われた。大生の鳳凰台の畑地約2町歩には軍用施設の徴用舎が建てられ、徴発された朝鮮人約300人が住み込んで飛行場建設の労働に従事した。
(『潮来町史』より)

北浦海軍航空隊の開隊
 現潮来町大生と釜谷地区の水田約40町歩と北浦湖岸約10町歩を対象とした飛行場建設工事は順調に進み、1942(昭和17)年4月1日、北浦海軍航空隊として開隊した。航空隊本部、兵舎、4連棟の格納庫などが造られた。
 1943年に配属されていた航空機は、通称赤トンボといわれた九三式水上中間練習機約70機、偵察機2機、戦闘機4機、爆撃機4機などだった。軍人も多い時期は約2000人に達し、水上飛行機練習場として十分な機能を発揮していた。
 1944年末からは、航空機に乗ったまま敵艦に体当たりする特別攻撃隊の出動が開始されたが、45年になると実用機での訓練が不十分な軍人が特別攻撃隊に加わるようになった。北浦海軍航空隊でも、45年4月には水上飛行機により特別攻撃隊へ参加する飛行機を見送るようになった。
 戦局の極端な悪化と物不足により、北浦海軍航空隊は練習航空隊としての機能を果たすことが不可能となり、1945年5月5日付で解隊されて北浦航空基地となり終戦を迎えた。終戦直前の軍人の数は300人ほどに減少していた。
(『潮来町史』より)

鹿嶋市と神之池海軍航空隊
 茨城県は長い海岸線の鹿島灘に面し、首都東京に近接しているなど、首都圏の防衛にかかわる軍事的・地理的な自然条件が備わっていた。そのうえ、軍事施設の設置に十分な土地と広大な平地林が各地域に分布していた。これらの立地条件から太平洋戦争では軍用地として使用され、陸海軍の航空隊基地などの軍事施設が次々と増設されていった。
 鹿島地域には、神之池海軍航空隊基地と鹿島地区防空監視隊が設置された。
 1940(昭和15)年ころから43年にかけて、旧高松村(現鹿嶋市)の粟生・国末・泉川と旧息栖村(現神栖町)の居切の岡と浜の中間にまたがる約500fの広大な土地が、飛行場用地として買収された(現在の住友金属鹿島製鉄所)。基地の建設工事も急ピッチで進み、1800bと1400bの2本の大滑走路も完成した。
 1944年4月、戦闘機の訓練基地として神之池海軍航空隊が正式に開隊され、多数の海軍の隊員が集結した。その中には、士官候補生、予備学生、予科練出身の搭乗員や整備員らがいて飛行訓練が開始された。
(『鹿島町史』第5巻より)

第721海軍航空隊(海軍神雷部隊)への改称
 1944(昭和19)年10月、戦雲いよいよ急を告げる状況下で、今まで訓練基地だった神之池海軍航空隊が、突如、第721海軍航空隊に改称された。これは、百里原航空隊基地(現在の航空自衛隊百里基地)で極秘に編成された特攻隊の別称「神雷部隊」のことである。人間爆弾の特攻機「桜花」による、この作戦には敗色の濃い戦局の起死回生の願いが託されていた。
 百里原航空基地より神雷部隊が移動し、神之池海軍航空隊の門柱には「海軍神雷部隊」の門標が掲げられ、まもなく、中攻隊(一式陸攻)・直掩戦闘機隊(零戦)・艦爆隊(彗星)などが続々と集結し、ガンルーム(士官室)も100人を越えるほどになった。
 神雷部隊は、沖縄を死守するため1945年1月に入り九州の鹿屋基地に移動した第1陣162人をはじめ、次々に補充された後続部隊も「桜花」に搭乗し、戦場に散華していった。
 こうした状況下、神之池海軍航空隊基地では依然、「桜花」の搭乗員を練成する第722海軍航空隊(別名竜巻部隊)が編成され、終戦まで桜花訓練が行われていた。
(『鹿島町史』第5巻より)

筑波海軍航空隊百里原分遣隊
 1938(昭和13)年1月、東茨城郡橘村と白河村(いずれも現小川町)の地内で百里原航空隊の工事が始まった。敷地面積230町歩といわれた。
 1938年11月24日午前11時45分、軍人50人自動車にて横町繭市場に到着。小川町は園部橋と繭市場前に歓迎門を作り歓迎する。各戸は店頭に日の丸を掲げ、学校生徒・青年は音楽隊をもって百里入隊を祝った。
 同年寅12月15日午前11時をもって命名式を行い、筑波海軍航空隊百里原分遣隊となる。この日晴天、各地より老若男女何千人も押し寄せ、原野には数十軒の露天商が並び盛況なりき。
 翌年卯1月7日午後1時、横町繭市場に航空隊全員約300人を招待し、7−8両日馳走する。供応人小川町料理店女中一同、同石岡町吉野芸者一同。
 1939年1月18日午前9時より11時まで、一般人民の縦覧を託し飛行機10機が飛行する。別に近接の町村長・町村会議員ら160人を招待し飛行場にて馳走す。小川町国防婦人会より22人供応手伝いに出頭す。
(橋本恒次郎氏記録、『小川町史』上巻より)

百里原海軍航空隊の独立
 1938(昭和13)年12月、練習連合航空総隊が11、12、13連空を傘下に編成され、後に19、20連空が編入されたが、総隊発足時に11連空に属していた筑波航空隊(現友部町)が百里原に分遣隊を設置して飛行練習生の中練教育(中間練習機教程)を行っていた。
 1939年12月、百里航空隊は独立し11連空に編入され、引き続き陸上機(中連)の操縦教育を行った。
 航空機定数からたどると、1943年10月には艦爆(艦上爆撃機)45機、練習機108機だったのが同年12月になると、艦爆・艦攻(艦上攻撃機)110機・陸攻(陸上攻撃機)16機・機上練習機36機に増強され、43年秋に中連の操縦訓練を他の航空隊に移管して実用機の操縦と偵察員の教育を開始した。
 赤トンボの中連教育の小さな航空隊から実用機の操縦および偵察教育へと百里は大航空隊に急成長したが、急成長したのは多数の老朽機と、この機数に見合う学生・練習生の数だけであった。
 実情は教官教員、整備員、さらに機材も燃料も不足だらけ、施設も学生・練習生を収容するだけだったが、意気だけは高らかに操縦・偵察が行われていた。
(海軍兵学校第73期クラス会報「百里空」について、『小川町史』上巻より)

練習航空隊にも作戦任務
 百里原海軍航空隊は練習航空隊とはいえ、所有機が実用機であったため、作戦任務を与えられ、1944(昭和19)年夏からは軍令部より「明朝太平洋岸の索敵の一部を受け持て」などと指示され、索敵訓練もしておらず、夜間飛行さえ訓練不十分な陸攻が、東の空に消えていった。44年6月の航空機定数は、艦爆・艦攻135機、陸攻16機、機上練習機36機と最高数を記録している。
 1945年になると高々度で本土に進入するB29の飛行機雲をにらむ日が多くなり、飛行作業もしばしば中止された。
 敵機動部隊の本土攻撃第1日目の2月16日、グラマン戦闘機のロケット弾攻撃で百里も隊舎が炎上し、最初の戦死者が出た。お粗末な手動の機銃台で奮戦した百里の防空隊はグラマン1機を撃墜した。
 教育の続行困難となった帝国海軍は1945年3月、練習連合航空総隊を解散し、11、12、13連空を主体とした第1の航空艦隊を編成し、飛べない学生は急いで飛べるように、飛べる学生は総員特攻訓練ということになったが、飛行機と燃料の不足から飛べない学生の訓練は中止され、敵艦への体当たり訓練のみが実施された。
(海軍兵学校第73期クラス会報「百里空」について、『小川町史』上巻より)

百里原海軍航空隊の特攻隊参加
 1945(昭和20)年3月末に沖縄作戦が発動されると、百里原航空隊からも、第5航空艦隊の菊水作戦に参加、艦爆隊は国分基地から4月6日の第1正統隊10機を皮切りに第2、3、4正統隊の計20機が、艦攻隊は串良基地から4月12日の常盤忠華隊6機を最初に皇花隊、第1、2、3正気隊の計15機が出撃。合計80余人の教官教員、隊員、学生、練習生が沖縄の海に散った。
 特攻隊を送り出した後の百里原航空隊は1945年5月1日付で10航空艦隊司令部直轄となり教育再開を命じられた。百里空には宇佐・姫路・名古屋航空隊の残った隊員学生が吸収された。宇佐空からは飛行隊長が可動全機を、姫路・名古屋空からは分隊長が半数機を率いて沖縄に散ったため、飛行隊としての機能を失ったからである。
 10航空艦隊司令部直轄となって教育を再開した7つの航空隊(霞ケ浦、谷田部、百里、郡山、松島、東京、元山)をもって8月3日、15練習連合航空隊が編成され、教育隊の形は整えられたが、制空権を奪われていた百里では連日、しかも終日の空襲警報で訓練が実施できる状態ではなかった。
(海軍兵学校第73期クラス会報「百里空」について、『小川町史』上巻より)

霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊
 宍戸町大沢地内(現友部町)の国有地、国立種羊場跡に1928(昭和3)年ごろから所沢航空隊(埼玉)の練習機が離着陸。31年4月には霞ケ浦海軍航空隊が練習生の離着陸演習地として使用。陸軍も気球などの実地研究を実施していた。満州事変が勃発し、戦時体制を整えるため、霞ケ浦海軍航空隊は32年11月、本格的な実地測量を始め、34年に同航空隊陸上班の一部を友部に移し、初等教育班として搭乗者の養成にあたる分遣隊の設置が本決まりになり、日本国民高等学校耕作地として使用中の20fを加え、計80fの分遣場を建設することになった。
 友部駅前から飛行場に至る基幹軍道1000bは海軍が施工し、町は橋爪、飛行場間1000b道路の寄付を申し入れた。鉄骨材800d、セメント 200d、砂2000d、割石1000dなどの建築資材が400両を超す鉄道で輸送された。3月下旬着工、8月に庁舎、兵舎、病院衛兵所、その他付属建物、格納庫8棟が完成し、先発兵員が入隊した。練習機は3機編隊で空中輸送された。8月15日分遣隊内の開隊式が挙行され、9月1日、第26期操縦練習生が入隊。9月29日、霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊の開隊式が第5格納庫で行われた。
(『友部町史』より)

霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊の開隊式
 1934(昭和9)年9月29日の開隊式当日、宍戸町(現友部町)では友部駅前広場に大アーチを立て、早朝から花火が打ち上げられ、町内各戸に国旗が掲揚され、祝賀の雰囲気に包まれた。
 開隊式には来賓として、横須賀鎮台長官永野海軍大将、同参謀荒木少将、横須賀航空隊司令大西少将らが参列した。村上宍戸町長は次のように祝辞を述べた。「顧るに当地域は由来八幡原と称し茫々たる一原野にして狐狸の棲息遊戯場の観を呈していたが、近時国民高等学校の創設、次いで種畜場等の施設により種々○○をうけていた処、今又輪奐(りんかん)宏壮なる当隊の一大偉容を迎え而も空中防衛の金城に接し得たことは転(うた)た滄桑(そうそう)の感に勝はさる処であります」「時局の重大性に鑑み誠意を捧げ軍隊との連絡疎通をはかり切に兵農一致の実を挙げ聊(いささ)か奉公の誠を致したいと思ふ」
 飛行場付近の大沢、矢野下の集落は飛行場建設に伴う大工、人夫の宿泊地となり、飲食店、理髪店、雑貨商などができ、駅前の運送業、料理店旅館なども活況を呈し、海軍兵の下宿屋も出現し、宍戸町は一躍軍都としてわき立った。
(『友部町史』より)

筑波海軍航空隊として独立
 霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊の開隊式(1934=昭和9=年9月29日)が終わり、九三式中間練習機(赤トンボ)による飛行訓練も本格的に開始され、夜間訓練も行われた。生徒は一般兵より採用された操縦練習生で、訓練期間は6カ月だった。
 1935年1月7日、霞ケ浦本隊の初飛行に参加、翌8日に3機ずつの凸梯陣で新春総飛行を行った。5月27日の海軍記念日には、18機の凸字型編隊飛行が行われ、隣接町村小学校対抗運動会が開かれ、飛行場内は一般開放された。36年には予科訓練生、少年航空兵が入隊、基礎訓練が行われた。
 1937年7月の日中戦争勃発で航空機の重要性が高まり、霞ケ浦海軍航空隊の分遣隊だった友部飛行場は、38年12月25日、筑波海軍航空隊として独立した。38年から39年にかけて、県内には鹿島、谷田部、百里原の海軍航空隊が設置された。
 独立を記念して、1939年には69連勝を達成した大相撲の双葉山を迎え相撲大会が開かれた。
 1941年12月、太平洋戦争が勃発すると、訓練はいっそう激しさを増し、短期間の訓練で最前線へ飛び立っていった。
(『友部町史』より)

太平洋戦争末期の筑波海軍航空隊(友部)
 太平洋戦争もおしつまった1945(昭和20)年2月の特攻訓練は、わずか2カ月で修了する猛訓練ぶりだった。
 訓練項目は、離着陸8回、編隊7回、計器飛行10回、航法訓練5回、特攻攻撃法10回、薄暮飛行6回、定着5回、最後に総合訓練が行われた。このうち特攻攻撃法と総合訓練に零戦が使用され、他は練習機が使われた。計器飛行、零戦操座は2月22日から1週間、北浦鹿島で訓練が行われた。3月から4月にかけて、筑波航空隊で特攻攻撃法や夜間訓練、総合訓練が行われた。
 訓練を修了した若い飛行士は、特攻要員として九州や沖縄に配置されていった。
 筑波航空隊でも3月28日、神風特別攻撃隊筑波隊が8名編隊で8隊、計64人で組織された。特攻隊員は各隊長が中尉で、小隊長、隊員は全員が少尉で、隊員のほとんどが20代の前半で学徒兵だった。
 練習航空隊の筑波航空隊でも「ゼロ戦」か「紫電攻」が配備され、実戦さながらの訓練が行われ、特攻隊も組織された。4月20日には練習航空隊の指定を解かれ、作戦部隊に昇格し、特攻隊を編制する完全航空隊になった。
(『友部町史』より)

実戦部隊になった筑波航空隊(友部)
 1945(昭和20)年4月20日、筑波海軍航空隊は作戦部隊に昇格し、特攻隊を編制する完全航空隊になったが、5月1日現在の使用可能機は、零戦12機、修理中18機、紫電改12機、修理中8機だけだった。5月末の報告では、零戦修理中6機、紫電改21機、修理中49機だった。
 当時の司令は中野忠二郎大佐、飛行長は横山保少佐、遠藤三郎少佐、通信長北原正一少佐で、教官、飛行士、整備士、通信士、気象士、軍医など士官は274人。下士官、兵は、兵科 222人、飛行科 346人、整備科1456人、機関科192人、工作科 118人、看護科17人、主計科 132人、その他39人、合計2522人だった。学生ゼロ、臨時講習員9人だった。
 筑波航空隊では5月、ゼロ戦、特攻隊員を送り出し、紫電改が整備されて首都防空の一翼を担うことになった。5月8、17日に警戒配備につき、24日B29を1機撃墜、25、26日B29が茨城上空を飛んだため紫電改8機が空中待避、28日P51の8機編隊が航空隊上空を飛行したため総員待避、警戒配備についた。30日も爆音がとどろき、飛行機を分散させ警戒体制をしいた。
(『友部町史』より)

 *常陽新聞連載「等身大の予科練−インタビュー構成」第15回−第36回掲載時にメモとして紙面に併載したものです。単行本『等身大の予科練−戦時下の青春と、戦後』には収録されていません。

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