直方青年会議所2月例会 (2005年2月14日 直方商工会館にて)
講演:「街づくりにかける夢」
講師:榎本一彦さん(福岡地所代表取締役会長)
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関連サイト 福岡ソフトバンクホークス

以下は江口が講演を聴きながら自分の感覚でまとめたものです。その点をご了承の上、お読み下さい。


【講演要旨】
 チャレンジの仕方はおのおのだ。今日は、最近直面したことや私のチャレンジについてお話したい。若さ、行動力、スピードがキーワード。

 ソフトバンクの孫正義さんについて。今回、ソフトバンクがホークスを買収したが、彼と地元財界の橋渡しについてある程度私が根回しをした。孫正義さんがどういう人かというと鳥栖生まれの苦労人だ。学校も転々とした。久留米付設でも中傷を浴びたが開き直って高校2年の時にアメリカに行った。ライブドアの堀江社長も八女から付設へ。また孫さんの弟も付設に行って、今では東京でIT業界で活躍している。
 15年前、30歳くらいの孫さんに会った。当時の私は銀行員で、その時、頼まれたのは、お父さんの遊技場への融資だった。その時の彼は、顔見てわかるくらいギラギラしていた。ベンチャーキャピタルの先駆者のような存在だった孫さんが、一緒に来ての融資話だったのでもちろん彼は融資の保証はしてくれるものと思っていたが、「親兄弟でも保証人には一切ならない」と断られた。聞いた私はビックリして「それはおかしいでしょう、保証がだめだったらこの話はダメですね」と言うと、彼は「そうですか」とさっさと帰った。割り切り方とスピードは本当に速いんだ。
 彼は「来る」と言ったら3時間かからないくらいに来る。10月14日に再生機構に入ったダイエー。その4日後の10月18日に孫さんはホークス買収申し入れを表明し、その日のうちに麻生福岡県知事と鎌田九州電力会長に会っている。その時、仙台では楽天とライブドアがまだ揉めている最中だった。一番、ピンポイントをついているのは孫さんだ。楽天の三木谷さんもホークスが欲しかったはずだ。なぜなら仙台球場をドームにするのは500億円から600億円くらいかかるはずだろう。10月になると寒くて野球のナイターなんてできないよ。三木谷さんは、ダイエーが再生機構にかかるのもわかっていたが、待てなかった。そしてここしかないと仙台に目をつけた。
 対して再生機構にダイエーが入った4日後に手を挙げて始めた孫さん。七社会、二金会などの福岡財界の中でも20社ほどが反対していた。NTTなどは特にね。その中、孫さんは私に20回くらい電話してきた。そして「どこにでも行くから段取りしてくれ」と。私は「段取りしても良いけど絶対に記者団にばれないようにしてくれ」と条件を出した。すると、160cmくらいしかない頭の薄い孫さんは帽子を被ってこっそり来た。そして15社ほどの前で、「なんとかホークスを欲しい。迷惑をかけないし、必ず強くする。このままではホークスは弱くなる。」と一生懸命説明した。ピンポイントだった。そして「名乗り上げたが地域がだめだと言うのであれば、私は引きます。」とも言った。
 2005年からソフトバンクホークスとして活動するには時間がない。11月の20日頃までにOKがでないと、野球協約では間に合わない。名乗り上げて締め切りの11月20日までの1カ月間、ホークス買収の鍵がコロニーキャピタルという外資だと見抜いた孫さんは5回くらいニューヨークに行っている。買収までには全ての印鑑を集めないとならない孫さんは本当にフル活動だった。
 我々福岡の財界も話を聞いていたが、敵味方の関係のNTTは途中で退席した。また九電も大きな銀行も最初は反対だった。彼が出てきたら全部ガチャガチャになるからだった。
 確かに電話料金を見てもそうだ。彼は独占でやっているところ入っていって徹底的にその状態を壊す。今ニューヨークに行っているのは、携帯電話の問題をアメリカから動かそうとしているから、それも副大統領くらいを動かそうとしているからだ。総務大臣の麻生さんに行ってもダメだと判断したから彼はアメリカへ行った。そのスピードと行動力、その孫さんも同じように福岡で若い頃を過ごし、非常に苦労した。皆さんにも夢があるんだよ。
 彼はこうも言った。「私がもし、ホークスをあきらめたら、ダイエーホークスは国有化された球団になります。」と。その国有化された後の球団を狙っていたのは楽天の三木谷さんだった。しかし、彼はそれが待てずに新球団立ち上げを選んだ。彼はまさかソフトバンクが上手く行くなんて思っていなかっただろう。しかし、孫さんはこれを見事にやり上げて世界一を目指そうと言う。そして本当にヤンキースのコミッショナーに会い、政治家を動かし圧力をかけようとする。
 財界との3回目くらいの会合で孫さんは、王監督がキーパーソンだと見抜いた。福岡の財界で王監督を悪く言う人はいないんだね。その会合の後、孫さんはすぐに東京に行って王監督に会い、ゼネラルマネージャーを了承して頂いた。これでホークス買収は勝負ありだった。ソフトバンクホークスに反対する人は出ていった。七社会はどちらかというと相撲だ。対して孫さんはK−1だ。伝統やしきたりを重視する。対してK−1は強いものが勝ち、何やっても良しだ。機を見るに敏、スピードはすごい。
 一連の流れを考えると誰かがいないとホークスはガタガタになっていただろう。高塚問題も孫さんが出てこなかったらまだまだ書かれていただろう。セクハラ問題なんてどんどん書かれると女性ファンはあっという間に離れていく。そして少なくとも5年間の大きなハンディがホークスに残っただろう。ダイエーが福岡へ来て16年、最初の10年間は本当にきつかった。王さんは昔おなじマンションに住んでいたが、ものすごく真面目な人で食事に行こうと誘っても「ファンに惨めな姿を見せたくない。」と断るような人だった。苦しい時を過ごしながら、頑張ってきた王監督。今回ソフトバンクが来ずに国有化されると城島もすぐにでていくなど選手がバラバラになって、強くするまでまた5年かかるようになっただろう。ダイエーの借金を5000億円棒引きにしたのに選手の年帽を上げるなんてできないだろうしね。
 今の福岡の街づくりにとって野球は成功だった。野球があると4万人が集まる。それも、会社の社長と部下ではなく、子どもと大人、親子だ。家庭の結びつき、教育にとっても野球があることは大きな違いがあると思っている。

 若さとスピードと行動力、それと夢。夢は地域を好きになること、愛することだろう。皆さんが直方が好きなように私は福岡を好きだ。多分皆さんよりずっと好きだろう。私たちはディベロッパー、何かを作りたいと思った。その仕事の中でキャナルシティが私の一番のいい仕事。博多駅と天神の真ん中それぞれから800m、900mのところにキャナルシティはある。
 黒田藩の福岡に対して商人の町の博多。福博一体化のためにと、35,36歳の時に言い出した。シンボルを作ってみせると言っていた。たまたま、ディベロッパーという仕事についた私は1991年に計画を作った。そして93年にキャナルシティは着工。最初は模型を作った。20回くらい作っては壊した。アメリカ人の設計士ジョン・ジャーディ氏はできるだけ平屋や2階建てを作りたがる。対して私たちの思いはできるだけ経済効率を求め縦に延ばそうとする。そしてやっとできあがった模型を金融機関に持っていくと皆反対。81色もある模型を見て皆は「なんだこんな建物!」と。1989年の年末の株価が3万円強。それが1993年4月には1万円程度。「バブルがはじけているのにこんなものなんてとんでもない。」という金融機関。それでも福岡シティ銀行は役員皆知っていたから、「どうしてもこれをしたい」と。「土地も株価も下がっているから何か手を入れなかったらつぶれますよ」とも言った。
 会社がつぶれる時、若手の優秀な人間から逃げていく。悪の代名詞のような私たちの不動産・建設業界。会社の中でも何十回と議論した。「やらないと落ちていく。やらずに生き延びれたら良いんだけどそうではない」と私は感じていた。皆そうは思っていたが妙案を思いつかない。そしてキャナル案を見た皆が言うのは「もうちょっと様子見ましょう」と。そして1カ月待つと株も土地もまた下がる。そうして数ヶ月。どうせ会社がつぶれるなら何か作って終わる方が良いと思った。
 何か作るのは本当に大切なんだ。会社がつぶれるのなんてある意味どうでも良い。福岡ドームを作ったのは中内功だ。福岡にこれだけの経済効果をもたらしたのは中内さんだ。ドームがなかったらどうなっていたか。今でも中内さんは車いすで野球を見に来る。そしてバックネット裏の最前列に。ドームのなかで見る野球が一番好きだと言う中内さんは、7回になると車いすを反転し、スタンドで上がるラッキーセブンの風船を見ている。そしておれがこれを作ったんだと思い涙を流しながら見ているそうだ。
 ハウステンボスをつくった神近さんも同じような人だ。会社つぶれたのに今でも堂々として、私に「キャナルは100年持たないよ。つまりあなたのは1代しか持たない、私は500年持つものを作った。」と自慢している。ハウステンボスという会社なんてどうでも良いと。

 ものを作るのはものすごく誇りだ。とにかくこれを作る、作って会社がつぶれても良いくらいの気持ちでやらないとダメだ。詐欺師と言われることもあるが、ディベロッパーは少々の事はうそをついている。キャナルを造る時も、「テナントの残りは10%です」なんて銀行に言ったなあ。75000坪のキャナル。銀行から金を引き出すには、あの当時、本当に大変だったんだ。そして作った。1993年4月に着工して完成まで3年かかった。と言うことは、3年でテナント埋めなければならないと言うことなんだ。テナントを埋めなかったら詐欺師。でも埋めたら詐欺師ではない。
 しかしテナントを埋めるには、夢を共有しなければできない。ある種、気が狂ったかのように。人がいたから会社はつぶれなかった。そしてテナント誘致に私は幹部の中で一番若かった藤賢一を選んだ。彼は大学ラグビー部のキャプテン、オールジャパンクラスのナンバーエイトだった。ようするにクレイジーだ。体は丈夫だが頭はない。彼はどこにでも行けたが志免出身だったこともあり福岡地所に。入試試験で「学部は?」と聞かれた彼はなんと「ラグビー部」と!
 1993年1月の人事でキャナルシティ博多の運営会社エフ・ジェイ都市開発株式会社の社長に彼を抜擢。私は修猷館、彼は福岡高校の出身で、福博一体化という私の夢を彼に話すと「そうですね!がんばります!」と。そして本当に彼はむちゃくちゃ動いた。あきらめるはいつでもできる。何としても6割しか決まっていなかったテナントを埋めなければならない。バブルがはじけた後、誰があの場所を買いますか?実はキャナルシティのテナントの中に福岡の人はいない。あそこは最悪の場所と知っているから。客引きの中、風俗街の中だ。
 でも作ったのは勇気と行動、1人が死にものぐるいで動き始めた時、若い人間はついていく。彼は着工して1年で13kgやせた。でも私は彼を選んだ時、「あれは死なない」と思った。彼を選んだ私も人を見る目があったね。
 本気で町が好きだったら、いろんなことができるだろう。クレージーな人が4,5人いたらできる。彼がどんどんやせていく姿を皆が見ている。これが大きい。「やせたね。」、「ガンじゃないの。」と周囲の声。彼は、1年間、日本全国を回り営業して、そして帰ってきては工事現場を確認する。営業もほとんど日帰りだった。1年で200回以上行っているだろう。
 しかしそんなに頑張っていたのに、1年後誘致できたテナントは0だった。その時彼は「会長、アメリカに行かせてくれ」と頼んできた。英語もわからないのにね。そしてロサンゼルスとサンフランシスコとニューヨークに行った。キャナルシティの様な建築物の場合、1年半前にテナント決まっていないと内装の関係もあり難しい。遅くとも1年3月だ。その後の半年、彼が努力が実を結んだ。がむしゃらにやって実を結んだ。
 ロスから「テナントが決まりました!」と電話があった時、彼は電話で泣いていた。私も泣いた。そして「どこだ?」と聞くと彼は「映画館だ。」と言う。「えっ?」と私は思ったね。今は普通だが、シネマコンプレックスなんて当時はなかった。実はキャナルシティが日本で最初のシネマコンプレックスだった。そして「映画館か。坪数は?」と聞くと「3000坪だ」と彼。「えっ?」と思いながら、そのまま、銀行に話を持っていくと銀行もびっくり。「映画館なんて大きくても300坪だろう」と。彼との会話のメモを見ているとなんか13館という数字もある。聞いたことがない話でちんぷんかんぷんだった。しかし段々わかってくると「面白い!」と思った。
 アメリカのシネマコンプレックスのように、最初の構想ではキャナルも入口で入場料を払って入ったらどの映画を見ても良いとしていた。しかし、日本では切符きりがあるからダメだった。キャナルには一番大きな箱が400席。次は350席。ちょっとずつ人数の違う映画館が13館ある。皆が見たかったら全部同じモノ写せばいい。時間ずらして同じ映画を写すとものすごく安くできる。また何本見ても良いのがアメリカ。映画好きな人を喜ばせるのが良いとわかっているのがアメリカだ。
 そうやって日本で始めてシネマコンプレックスを造ろうとAMCとサインしてその後が大変だった。「AMCと契約したらだめよ」と映画関係者が電話してきた。東映や東宝、映画館をやっている友達からもジャンジャン電話がかかってきた。でもサインしちゃった後だったんだ。ある意味、日本の映画の自由化をした張本人とも言えるかもしれない。でも本人はそんな事もわからなかったけどね。
 AMCが入った後、セガが入った。実は、セガの進出には裏話がある。うちの籐が「この社長にだけ挨拶に行ってくれ。」と言うからついていった。すると2,30分待たされた。待たされるのは良いんだけど、待たせたあげくに入って来るなり「お前のところの社長、バカじゃないか」と言うんだ。一緒にいるのも知らずにね。彼は福岡をよく知っていて風俗街の中という立地を知っていたからそう言ったらしいんだけどね。悔しいから帰る前に「申し遅れました。私が福岡地所の榎本です。」と挨拶したよ。でもそんなセガも、AMCが決まった後に、アメリカのセガがぜひ出たいと言ってきた。
 あきらめないことだ。まちづくりは絶対先頭に立って動かないとダメだ。動いた人間がチャンスを得る。じっとしていてもダメだ。動いてこそ成長する。そうして進出したアメリカのセガが1500坪。それからのテナント誘致はわっと動いた。そんな背景があってキャナルシティには外資系のテナントが約50%いる。だからホテル、劇場、映画などエンターテイメントの場となった。キャナルシティも開業して10年、極めて安定してきた。今では年間1400万人のお客様を迎えている。福博一体化の一助になったと信じている。地域を愛する、好きになることだ。キャナルシティは福岡高校出身の籐と修猷館出身の私の誇れる仕事だ。

 最後にエピソードを一つ、1996年の2月、4月完成の直前、パンフレットを作る時に、籐が「仮称だけでもつけさせてください」と言ってきた。思うところ合ったんだろうね。「良いよ」と言ってパンフレットの見本ができてきたら「キャナルシティ博多」とあった。皆で議論したが「アジアの玄関口はやっぱり福岡だ」と言うことで、「キャナルシティ福岡」にしようと言うことになった。でも籐の事が気になった私は「絶対、キャナルシティ福岡だぞ、博多にしたらクビだからな。絶対キャナルシティ福岡だぞ!」と厳命した。何やるかわからないと思ったんでしょうね。そして開業の直前、籐が「会長、パンフレットできました。」と言って持ってきた。あれだけ言ったのにパンフレットの上がりを見るとキャナルシティ博多。。。そしてパンフレットと共に辞表を差し出した。でもこんな辞表、破るしかないよね。そうして「キャナルシティ博多」ができたんだ。
 若さとスピードと行動力、皆さんに期待している。

(以上文責:江口)


【感想】
 聞きながら、自分が高揚していくのがわかるほどの強いインパクトのあるお話でした。直方から帰る途中、話を思い出しながら、ずっと自分自身の目標を改めて考えていました。福博一体化という夢を実現するためにキャナルシティ博多というビジョンを描き行動された榎本さん。「住んで楽しいまちを創りたい」という夢を実現するために小地域の自治の仕組みづくりというビジョンを具体化したいと段々強く思うようになりました。そしてそのために、より多くの人に会ってお話しさせて頂くことの必要性を強く感じた講演でした。
  榎本一彦さん、そしてこの機会を頂いた直方青年会議所の皆様に感謝です。