compound bow
EP/
「今のうちだけだよな、こうやってお前を引っ張り回せるのも」
「まさか。そこまで極端にいかないでしょう」
「楡原を見ろ」
「あの人とは別の人種ですよ俺」
「はは、確かになあ」
居酒屋である。
母校からそれほど遠くない場所で、あまり客数も入らないような小さな個人経営の店だが、以前新田教諭に教えられてから壱も大いに気に入って足を運ぶ機会が多くなった。
「マスター、ささみ下さい」
「はいよ」
店主も、壱のような若造を悪く思わないらしく、意外と好意的に客として扱ってくれている。新田教諭はこの店へ通い始めて長いようで、その連れであったというのも理由の1つだろう。
塩を持った升の角に口を付けて、新田教諭は気に入りの酒をぐっと呷った。髪に白いものが目立つようになった恩師だが、未だ楠白で教鞭を適当に振るっている。
「ま、嬉しいよ俺は。手前の生徒と飲みに来れるようになって」
「俺にとっちゃ遠くに住んでる親父みたいなもんですからね、新田先生」
「泣かせるねえ」
「歳には勝てませんか」
「うるせえな。爺をからかうんじゃない」
意外な事に、新田教諭はこの店では煙草を吸わない。カウンターでの喫煙を別に禁じられているわけではないそうだが、料理を作っている目の前で煙を出すのが嫌なのだ、と以前話してくれた事があった。
高校を卒業し、2年で壱の基盤は少しずつ固まってきた。成人するなり新田教諭に飲みに誘われて以来、ちょくちょくこうして肩を並べる。
音楽活動としては今のところ無難の一言で、大きく売れたり、また鳴かず飛ばずという事も無い。知る人ぞ知る、という程度の存在にはなってきている、まだまだ駆け出しの小物である、とは自覚していた。
それでも、自分にはこれしかないのだと考えれば、必死にもなるし、同時になるようになるとも思う。
「お前、彼女とは?」
「会う度に聞きますよねそれ」
「いいじゃねえか、そのぐらいしか楽しみ無いんだから」
「上手くやってますよ。こないだ妊娠したかもってんでちょっと慌てましたけど」
「マジか。楡原んとこもようやくらしいし、早く孫の顔見せろ」
「無茶言いますな親父殿。金だってまだ心許ないのに」
「生まれちまえばどうにかなるもんよ。それに、お前の彼女の器量は大したもんだと思うぞ」
「そりゃ嬉しいお言葉。俺も自慢の女です」
「のろけるね」
「今のところ俺が胸張れるのなんて彼女がいい女だって事ぐらいっすわ」
「そこまで言い切れるんなら、女冥利に尽きるんじゃないかね」
咲もこの店へ訪れた事がある。存外舌が酒飲みである彼女も、ここのメニューは気に入ったらしく、会う度にとはいかないが、ちょくちょく足を運びたがる。
「楠白の音楽、今年はどうですか」
「おお、中学でちょっとしたものらしい奴が居てな。ピアノなんだが」
「へえ、先生が敢えて言う程の?」
「ああ。別に音大に入りやすい高校でもないんだがねうちは」
「伝説残ってますからな」
「お前もその1人だぞ」
「マジすか」
「望む望まざるに関わらずな。突然の転校生、プロミュージシャンへ。ベタだが子供が夢見るにはいい刺激だろ」
「夢なんて見るだけにすべきですよ、ほんと」
「叶っちまったからな、黒沢は」
「目指してる間だけです、綺麗なのは」
「でも、あの曲はいいもんだと思うがね。青臭くて、大した事なくて」
「褒めてますか、それ?」
「手放しにな。久々に、商品じゃない音楽を聴いた。やっぱ才能あるよお前」
オープニング、とタイトルを付けた。何かが始まるとか、第一歩であるとか、そういうポジティブな意味ではない。ただ、開くもの。桐田咲を彩りたいがためだけに、名付けた名前だ。
咲を連れてスタジオへ向かったのは先月だった。英語、独語、仏語が堪能な咲にとって、突然渡された歌詞と楽曲は、驚きと呆れをもって受け入れられた。
要するに、咲の夢である歌手の、片棒を担いだのである。そしてそれは、今や音楽教室で声楽の講師をやるようになっている彼女の、複雑な部分を多少刺激しながら、しかし喜ばしい贈り物として世に出て行った。
CDという形の残るものではなく、インターネットを介しての音楽配信ではあるが、そこそこに売れ、多少の小銭にはなった。それより何よりも、咲が「これで踏ん切りがついた」と収録を終えた夜に語ってくれた事が、嬉しかった。
壱としては別に踏ん切りをつけさせようと思ったわけではない。しかし、歌手を夢見て、目指して、結局折れざるを得なかった1人の人間に、今一度夢を見て貰う事が出来た。それだけでも、壱の自己満足にせよ、成した甲斐があったというものだ。
「何にせよ、お前の勝ちだよ」
「そうですか?」
「人が認めた、これはお前って奴の人格の勝利だ。胸張っていい」
「先生みたい」
「先生なんだけどね」
苦笑いする新田教諭の升に、一升瓶を傾けた。
元々住んでいた部屋を引き払い、いくらか広い部屋へ引っ越した。
楽器を好きに吹いても周りに迷惑がかからない場所を探し、それほど遠くない住所ではあるが、いくらか自立出来た、という気はする。実家に仕送りをする程にはいかないが、ひとまず自分の腕だけで食っていける程度はある。
21時頃になって、咲が部屋に訪れた。金曜日は、大抵仕事を終えたその足で彼女がやってくる。着替えやら日用品の類を置くためのスペースを確保するという意味でも、引っ越しは必要だったのである。
「お疲れさまです」
「うん、疲れた」
「なんぞありましたか」
「小さな子の相手がメインだから、どうも体力の配分がねえ」
スーツジャケットを脱ぎ、ハンドバッグをソファへ放ると、咲はそのままそこへどかりと体を投げ出した。
「皺になっちゃうぞ」
「うーん」
「あったかいの? 冷たいの?」
「冷たいの」
「はいよ」
言われるままに冷蔵庫から冷えたジュースを取り出して注ぐ。一気に呷って、咲は長い息を中年のように吐いた。
「このリンゴジュースほんと美味しいな」
「だろう」
「シャワー浴びるわ」
「いってらっしゃい」
よたよたと脱衣場へ向かう彼女を見送って、脱ぎ散らかしたジャケットや手荷物をまとめておく。シャワーを使う音を聞きながら、冷凍食品ではあるが彼女の為に食事を用意した。
「お、チャーハン」
「冷凍ですけど」
「ううん、有り難いよ。頂きます」
「はい」
壱もちょっとしたつまみを取り出してつつきながら、咲の1日の報告を聞く。
音楽教室の講師と言えば聞こえはいいが、実体は子供に音楽をやらせたい親の託児所に近いようだ。3歳からの子供らを一カ所に集めて歌を教えるという仕事は、それなりにやりがいを感じてはいるらしい。咲の疲れた表情を見る機会は多くなったものの、それでも充実したものなのだろうという事は饒舌な彼女を見ればよく解る。
食事を片づけると、ノートパソコンを開いた咲が、音楽のダウンロード数を確認した。これも、いつもの事である。
「どうすか」
「100件増えてる」
「凄いな、じわじわきてますな」
「結構恥ずかしいな、しかし」
「咲さん案外恥ずかしがり屋ですな」
「実際に歌手になれてもこの気性は直らなかったろうねえ」
「世の中にとっちゃ、あなた歌手ですよ」
「一発屋のな」
「一発も打てない人のが多いんですぜ」
「感謝してるさ」
「ならよし」
「正直、複雑な気持ちもある。でも、壱のお陰でこういう事が出来たというのは、私は生涯忘れないよ」
「そんなに重く考えなくてもいいんすよ。楽な気持ちで歌った記憶があれば」
「そうか」
「はい」
苦笑いを浮かべて、咲は咳払いを1つ。いつもの事だ。
「明日、壱は?」
「午前中だけちょっと。午後には戻ります」
「そうか、じゃあ午前中にちょっと掃除しちゃおう」
「これは有り難い……」
「壱1人じゃ中々時間も取れないもんな」
にこりと、珍しく笑って、咲は言う。
暫し、適当な雑談をした。本当にお互いの近況の報告が中心で、それほど多くの言葉を口にしているわけではないのだが、終わってみれば何かを語り合ったという充足感のようなものがある。
「そういや、考えてくれました?」
「ううん、うちの両親がまだ心配でさ」
「ま、そうっすよね」
「すまんね」
「なんの。ご両親放り出して来られても、俺だって心苦しい」
一緒に住まないか、という話はかなり以前から出ているのだが、咲の両親が共働きである事を理由に、延ばし延ばしになっていた。咲が居ないとまともに食事をしようとしないという彼女の両親が健在なうちは、あまり易々と家をあけるわけにもいかないという。
「ま、たまにこうやって会うってのも、私は嫌いじゃないよ」
「それが俺もなんですよ」
「うん」
「でも傍に置いておきたい男心」
「独占欲だな」
「つーか落ち着いたら結婚しましょうよ」
「……お前な、一応プロポーズなんだろ? ちゃんとしなよ?」
「ごめんなさいでした」
「まあ、今更壱以外の男が考えられんというのは正直な所だ。嫁になる自信があまり無いけど」
「お互い様やで」
「せやな」
中途半端な方言で笑い合い、沈黙。
腕を組み、解き、立ち上がって窓に近寄った咲が、カーテンをちょっとずらした。4階にあるこの部屋からは、そこそこ街の灯りが遠くまで見渡せる。
「子供でも出来れば一緒に住まざるを得ないだろうなあ」
そしてぼそりとそんな事を呟いた。どう反応したものか、と思って居ると、振り返っていたずらっぽく咲は笑う。
「どう思う」
「どうって」
「夢は託せるって教えてくれたのは壱だ」
「子供にって事ですか」
「うん。おかしい?」
「いや全然。よくある話でもありますし」
「まあ、あんまりプレッシャーかけるのもやめておくか。シャワー浴びてきなよ」
「疲れてんじゃないっすか?」
「別腹さ」
「女すげえな」
「だろ」
言われるままにシャワーを浴び、彼女を抱いた。疲労もあるだろうが、小柄が故にあまり体力の無い咲は、事を終えると暫く放心している事が多い。壱の方は何故と思う程に疲れを覚えないのを、恨めしげに指摘された事もあった。
「壱」
「はい」
気だるげな表情で、枕に頭を預けながら、咲が口を開く。
「夢を託したいっていうのは、割と本気なんだ」
「はい」
「重い?」
「そんな事は全く。ただ、俺の方に準備が無いかなって」
「お金かー。宝くじでも当たらないもんかね」
「それが出来たら一番楽ですよねえ」
「でも1人で作るんじゃないんだぞ。私だっている。そりゃ、私に負担をかけさせたくないと思ってくれてるんだろうけどさ」
「だから俺がもっと売れたら、と思って。このまま沈んで行くかも知れないし」
「それはないさ」
「言い切りますな」
「言い切るよ。何年壱を見てきたと思ってるのさ」
「まあ、俺が思ってる以上に咲さんに見えてるものもあるのかなあ」
「そうさ。自信を持つといい。もっと攻めの人生だ」
「ははは」
「壱と私の子なら体格で損する事も無さそうだし」
「お、そうか。それはあるかも」
「ね」
睦言というのは、曖昧なものではある。あるが、咲の飾らない本心を聞くのは、大抵こんな時だけだ。
「明日……明後日、咲さんち行きましょうか」
「ん、なんで?」
「結婚しますって言いに」
「だからさあ」
「すいませんって、ちゃんと明日やり直しますから」
「頼むよキミィ」
「はい」
「はいじゃないが」
「もう寝なさい。瞼重そう」
「お休み」
「はい」
指を絡めて、微笑んで瞼を閉じた咲は、すぐに寝入ったらしい。
取り急ぎ、指輪が必要なのか、むしろ書類が必要なのか、色々と考えなら、壱もまどろみ始める。それもまた、彼女に何のかんのと言われながら決めていけばいい事かも知れない。
想像すると、もう楽しかった。楽しいまま、壱は眠りに落ちた。
[END]