compound bow


11/


 咲が挫折を口にしてから、10日あまりが経った。
 その間彼女から連絡は無く、また壱も殊更何か言葉を伝えようとはしてこなかった。特に意識しての事ではなく、自分1人で考えたい事も、時間も必要だろうと思っての事だった。
 体格を理由にミュージカルやオペラといった舞台に立てない、という事例がどういうものなのか、壱なりに色々と調べてみた。確かに、平均を見れば現状歌手として活躍している人々に咲のような小柄で細身の人間は居ない。ミュージカルという舞台に限って言えば、確かに見栄えという点で見劣りが生じるのはあるだろう。歌舞伎役者にしたって、顔が大きく声の太い者が家元に多いと聞く。
 ならば、咲は今の自分の夢を諦めるのだろうか。諦めるとして、この先何をするべきなのか。それについて、壱は言葉を持たない。
 ただ、壱は音楽がどうこうという以前に、ただの男として、桐田咲という女を手放したくないという明確な思いがある。自分の側に居る事で咲が苦しむというのなら、そうならずに済む方法を探したいと思う。
 かといって、夢の代わりを与えてやれると思うほど、自惚れてもいない。今途絶えた道で俯いている咲に、新しい何かを示せるような知識も度量も力も無いのだ。それをもどかしいと思う気持ちも、数日で握りつぶした。
 つまり、咲がどう感じ、どう動くか、という事だけにかかっているのである。その上で離れていくというのなら、それも仕方ないだろう。相当に苦しい思いをするだろうな、と不安定な気持ちになりかけながらも、ある覚悟のようなものは済ませた。
 5月が近付き、連休が見えてくる。本来なら、咲とどこか旅行に行く相談などをしていた事だろう。それも今は伏せておくしかない。
 週末からの連休のどこかで実家に顔を出しに来いとは言われていたが、仕事を理由に断った。本当は仕事など無いのだが、今すぐに咲の付近に自分の姿があるのは違うと思わざるを得ない。ここへ至っては、咲が自ら答えを出さなければならないのだ。
 公園へ出かけ、人目を避けてサックスを吹く。あまりいい音は出ないが、それもねじ伏せた。今急に仕事でも投げられれば困った事になってしまう。プロとは、私情を挟まない者でもある筈だった。
 ひとしきり、2時間程練習に費やした。何か特定の曲を吹いていたというのではなく、ただ音を出していたに過ぎないが、指裁きもブレスの繋ぎも、上手く行かないと思うような点は無い。ただのバッキングであれば、これで構わないだろうという程度にはある。
「お、本当に居たよ。凄いな」
「わたし、サックスの音って結構好きだから」
 そんな声が聞こえたのは、休憩を挟んでまた音を鳴らし始めた頃だった。振り向くと、楡原康臣と皐月夫妻。康臣も極端に背が高いわけではなかったが、皐月と並ぶとその上背の差がちょっとおかしい。
「楡原さん」
「や。精が出るね」
「こんにちは」
 ちょっと片手を上げた康臣と、ぺこりと頭を下げた皐月は、そばにあったベンチに腰をおろした。どうしたものか考えて、壱もサックスを傍らに置いて並んだ別のベンチへ腰掛ける。
「オフですか」
「うん。いや、夜は夜で色々あるんだけどね」
「お忙しいですね」
「そうでも。しかし、また上手くなったんじゃないかな。無機質でいい音だ」
「……そうですか」
「あ、やっぱあんまり褒めてないって解る?」
「多少は。自覚もあります」
 いきなり始まった康臣と壱のやり取りを、皐月は穏やかな顔で眺めている。
 康臣は足を組んで言葉を探すように中空を見上げて、続けた。
「色々あるもんな。でも、今日の音も嫌いじゃないよ、俺は」
「それが俺もなんですよ。聞きたいとは思いませんけど、俺が主役じゃなきゃこれでもいいかなって」
「仕事の音ってやつだよね。そういうの、もう理解しちゃったか」
「良くないですかね?」
「いや、社長は喜ぶんじゃない、仏頂面で」
 笑って、康臣は携帯電話を取り出し、目だけで画面を見て、仕舞う。
「重ねて言うけど、本当に悪いと思っちゃいないんだよ。それはそれ、というやつで」
「わかります」
「なんかあったんだろ? それが片付いたら、またバンドやろうよ」
「いいんですか?」
「勿論。というか、皐月が君の音を凄く気に入っててね。ご家族や彼女を除けば最初のファンだと思うよ」
 話を振られた皐月がちょっと笑う。なんとなく居住まいを正してしまった壱を見て2人が笑った。
「わたしも人並には音楽を聞く……聞かざるをえない立場ですからね。そういう中でも、黒沢君のサックスは素敵だと思いますよ」
「それは、有り難う御座います」
「先日出たCDでサックスやられたと伺って、それも聴きました。なんというか、自然な出来だったな、って。偉そうな事を言いますけど」
 ふと、咲も似たような事を言っていたのを思い出した。その場に居るのが自然だ、という表現ではあったが、それがどういう意味だったのか、なんとなく解ったような気がする。
「うん、俺もあれ聴いて、ああまたこの人とやりたいなって思ってさ。曲は俺が作るから。すっごい頭悪いくらい難しいやつ」
「マジすか」
「サックスの楽譜だけ真っ黒になるレベルの」
「うわあ、楽しみい」
「ははは」
 いくらか砕けた返事すると、康臣は楽しそうに顔を上げて笑う。
「そのくらい、気楽にやろうよ。同僚であるしライバルかも知れないけど、でも友達ではありたいじゃない」
「そう言ってもらえるなら。ただ、ほら、俺にとって楡原さんってCDとか雑誌を通してしか知らない人だったから、ちょっとまだ緊張しますよ」
「その必要は無いんだけどね。どうも、大きく物を見すぎるのかな。でもそんなもんかも」
「黒沢君は今年……18歳ですよね?」
「そうです」
「なら、そういうものじゃない?」
「だよね。俺の18の時なんか思い出したくもない」
「わたしは忘れてないから」
 皐月が目を閉じて皮肉げに言い、康臣が困ったように笑う。人には色々あるのだ、と悟り澄まして言うつもりも無いが、どことなく2人の間の強固さと暖かさのようなものをおぼろに感じた。
「お2人って、同級生なんですよね?」
「そうだよ」
「それで、結婚かあ。なんか、いいっすよね、そういうの」
「そう? 確かに、よくある構図じゃないのかもな」
 少し喋りすぎた、と思って、壱はそこで踏みとどまった。察してか、康臣も口元を緩めて言葉を切り替える。
「それにしても、バンドですか。俺楡原さんて基本的にソロのイメージ強いんですけど」
「ああ、基本的にはね。ただ楠白の先輩後輩で組んでも面白いかなって。腕もいいし」
「そう言って貰えれば」
「ちなみに……皐月さん、と呼んでいいんですかね」
「はい、勿論」
「すいません、なんとなく慣れなくてこういうの。皐月さんも敬語なんてやめて下さいよ」
「まあ、これは外に対する癖みたいなもので」
 苦笑いを浮かべる皐月につられて壱も笑う。
「皐月さんは楽器は?」
「わたしは全く。ピアノでお遊び程度に」
「へえ、ご夫婦で。いいじゃないっすか、なんか」
「とんでもない、わたしは本当に遊びですから」
「時々せがまれて教えはするんだけどね、やっぱ指とかの限界も結構あって、これが。でもそういう物でもないもんな」
「そうだね。音を並べるだけでも楽しいから」
 咲の表情が、脳裏に浮かんだ。
 物にならない音楽でなければいけない、という事ではないのだ。
 皐月はただ楽しんでピアノを弾くのだろう。康臣は、それにいくつか助言などをする程度なのだろう。それでも、2人の間には、また皐月とピアノ、康臣とピアノの間には、きちんとした喜びがある筈だ。
「楡原さん」
「うん?」
「プロってなんすかね」
「難しい話だなあ。お金を貰えばプロだろうけど、そういう事じゃないんだろ?」
「はい」
 腕を組んで宙を見て、微かな間の後に康臣は続ける。
「俺が思うのは、伝える責任のある人じゃないかって所かな」
「伝える責任?」
「そ。音楽ってこういうのだよ、これいいでしょ、聴こうぜやろうぜ、っていう事を伝える責任者。だから一定の水準より絶対に上手くないといけないし、常に変化を要求される。同じ事だけしてたら責任放棄だ」
「成る程」
 それは、確かに正しいかも知れないと思う。楡原康臣の言葉だから頷いているという気持ちは微塵も無く、ただはっきりと、言葉に対して心で理解出来たような感覚がある。
 康臣の隣では、皐月が目を伏せて小さく頷いていた。
「これは借り物の言葉なんだけど」
「はい」
「音楽は無敵の言語なんだよ。世界のどこに行っても、音楽の善し悪しだけは必ず伝わる。だから、音楽家はどこへ行っても居るんじゃないかね」
「無敵の言語ですか」
「歌だってダンスだって絵だっていい。そういう、情緒に訴えるものをきちんと伝えられる人間が、プロのアーティストだ」
「解ります、よく解ります」
「これから先、黒沢君も毎日試されるようになる。今だって、ちょこちょこ現場で軽くあしらわれたりするだろ?」
「はい」
「俺もそうだったし、今でもそう。だから、伝える力だけは常に持ってないとね」
 そう言って、康臣は確認するように皐月を見る。視線を受けて、皐月は微笑んだ。2人の間にある何か、絆のようなものを見たような気分に壱はなった。
 咲は今どうしているか。それを確かめるべきなのか。
「そういや黒沢君の彼女は?」
「元々実家の方に住んでるんで、今は」
「そっか。上手く行くといいね」
「はい」
 何気ない言葉だったが、それこそ内側を見られたような錯覚に、壱は陥った。

「きたねえな」
「ん、何?」
 ぼそりとした呟きは、近くに居た若菜の耳に入ったようだった。
「音楽室がさ」
「ああ、そうだよね。人が沢山来るようになったからかな?」
 嬉しそうに、若菜は床にこびりついた黒っぽい汚れを指さす。靴跡もうっすらとそこかしこにある辺り、確かに新入部員達の影響はあるのかも知れない。今までの5人が特に綺麗に使っていたわけでもないのだ。
「お掃除しよう」
「お手伝いします」
「じゃあ……とりあえず机磨こうか」
「そうだね、モップとかワックスはまとめてやった方がいいかも」
 連休前日という事もあり部活は休みなのだが、なんとなく足の向いた壱の後に、若菜がサックスの音を聞きつけたという所だ。それとなく日々の変化などについて話していれば、自然と視線は下を向く。汚れが目に入ったのはそのせいだろう。
 雑巾を引っ張りだし、水で絞って互いに対角から1つずつ磨いていく。擦り始めれば意外と汚れの多さに気付かされる。
「うおお超落ちる」
「そだねえ」
「若菜嬢掃除好き?」
「うん、割と」
「なんかそんな感じだ。手慣れてるというか」
「そっかな」
 壱が思い切り力を入れて磨くのに対し、若菜はあまり肩をいからせもせずさらさらと拭いている。手抜きをする性格ではないのは解っているので、あれで十分に綺麗になっているという事だろう。
 3つ4つと机を渡り歩いていると、ぽつりと若菜が口を開く。
「なんか最近元気無いね?」
「この俺様がか」
「な、なんでそんな王様のように……」
「元気なさげ?」
「流石に1年も見てると結構感じるかなあ。特にほら、わたし人の顔色窺うの得意だし」
「自虐的な話だな!」
「なんだろ、彼女の悩みとか?」
 思わず肺腑を抉られたような気分になって、1歩後ろへ下がってしまう。驚いた顔を若菜はするが、そんなものは自分も同じだという気分である。
「なぜ解る」
「あ、ああー……ホントにそうなんだ」
「当て推量か!?」
「いやあ、黒沢君がこの期に及んで頭を痛めるなんて、もうそのくらいしか思い付かなくて……」
「俺にだって沢山悩み事あるよう」
「でも今は彼女さんの事だ」
「うん」
「当たっちゃったかー」
 苦笑いを浮かべて、若菜は雑巾を畳み直し、次の机へ。手が止まっていた壱もそれに倣う。
「どんな心配事か聞いても?」
「うーん、まあ単純に言えば、目指してたものになれなくなっちゃった彼女をどう元気付けてやったらいいかなって」
「目指してたもの。なれなくなったって、諦めちゃったの?」
「凄く簡単に言うと、目が見えなくなったから車の運転が出来なくなりました。っていうくらい根本的に不可能になっちゃった」
「わあ……うん、それは、気の毒だね……」
 若菜がそう言っても、特に不快な気分にはならなかった。彼女の性向のせいだろう。同じ台詞を別の人間から聞いたら、多少は苛立つくらいの事はしたかも知れない。
「その人は、どうしたいとかってあるの?」
「諦め切れてないと思う」
「そうだよね、いきなり全部捨てましょう、っていうのも難しいよ」
「元々頭の良い人でね。俺の2個上の先輩なんだが」
「あ、前の学校の人だ」
 どこかほっとしたように若菜は頷く。
「そう。めっちゃ頭良い人なんだけど、だからかこういう挫折を味わったのってひょっとしたら殆ど初めてなのかも知れん」
「それは尚更辛いだろうね」
「俺に出来る事なんか無いから、どうしたもんかなって」
「うーん、そうだなあ」
 机から机へ移って、若菜はまた雑巾を折り返し、手を止めた。指を組んで窓の外へ顔を向け、続ける。
「黒沢君はその人の事好きなんだよね」
「大好きです」
「す、凄いな……うう、で、彼女さんの方もそうだよね?」
「だと思いたい」
「そこは、「当たり前だ」くらい言って欲しかったなあ」
「俺がそう思いこんだって仕方ないじゃない」
「付き合ってるんでしょ?」
「この件で少し疎遠になっちゃってるけどね」
「わ、じゃあ尚更だ。会いに行かないと」
「俺に出来る事なんか無いのに?」
「何かして欲しかったらきっと言うよ。何か言うまで、一緒に居てあげたら?」
「ううん、もう少し詳しく言うとさ」
 壱も手を止めて、いくらか細かく語った。
 咲の夢が歌手である事。壱は夢を叶えてしまっている事。それを妬ましく思っていると告白された事。
 そのどれを聞いても、若菜の表情は変わらない。
「時間を置こう、とか距離を置いて一度冷やそう、とか考えたらダメだよ。女の子は現実的だから」
「というと?」
「辛い状況にあって、慰めてくれる彼氏は遠い所なんだよ?」
「なんと」
「勿論極端な言葉だし、話聞いてるとそんな事間違っても起きないとは思うけど、やっぱり寂しいと思うなあ」
「……ううむ」
「悩むくらいなら会っちゃえばいいんだよ。拒絶されたら一旦引けばいいの。それでも、来てくれた黒沢君には、格別の思いがあると思うな」
 思わず若菜の顔をまじまじと見つめてしまった。こんなに整然と物を言うタイプだったろうか、と思わなくもないが、ともあれ若菜の言には一理あると感じざるを得なかった。何よりも、同性からのアドバイスである。素直に飲み込んで悪いとは、どうしても思えない。
「若菜嬢」
「はい」
「有り難う、俺明日帰省するわ」
「うん、それがいいと思うな」
 笑って、若菜は掃除に戻った。1時間程かけて、音楽室の机は文字通り拭ったように綺麗になっていて、出来るなら、すぐにでも曇った表情をしていた咲の笑った顔を、また見たいと思う。
「そいえばさ」
「ん?」
「黒沢君、香水つけてる?」
「おう、臭かったかな」
「ううん、自然な感じ」
「彼女の薦めさ」
「あはは」
 曖昧に笑う若菜の横顔に、内心の感謝を送る。

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