compound bow
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3月の春休み。無事に進級も出来た事で、壱の心にはゆとりもある。
この日、シン・ド・アリッサのあるプロデューサーの依頼が回ってきて、ボーカルとして売り出し中の女性のバックとして付くことになり、楽器を抱えて、夕刻壱は都心のスタジオへ向かっていた。
傍らには、咲が居る。どうせ一緒に過ごすのだから、と遊びに来る予定だった彼女と共に出てきたのだった。流石にレコーディングの最中スタジオの中で待つわけにもいかずその間は暇をさせてしまう事になるのだが、咲は壱がプロとして活動する姿を見たいと言いだし、薫子に許可だけ取ったという格好である。
「どのぐらいかかるもんなの?」
「ボーカルの人はそこそこ長いことやってるから、あんまりかからないんじゃないですかね。長丁場になるようなら、先に戻っちゃってもいいですから」
「うむ、まあ待ち続けてみるさ」
流石に駅の周りは楠白と比べれば随分とごみごみとしていて顔をしかめそうになる。多少のおのぼりさんを満喫しながら、以前にも行ったことのあるスタジオへ。
ロビーで名前を名乗ると、ゲスト用IDカードが手渡された。咲の分もありそれには驚いたが、薫子ならそのくらいの手は回してくれていそうだと思う。また礼を言わなければならないだろう。
指示された通りに廊下を進み、一室へ入ると、ミキサー室と隣接したミーティングルームになっていた。既に今日の奏者やスタッフの幾人かは揃っている。頭を下げると、プロデューサーらしき男が立ち上がって出迎えた。
「どうも、話は聞いてるよ。黒沢君……だよね」
「そうです。今日は宜しくお願いします」
「後ろの子は?」
「あ、彼女はまた別件で。良かったら、ミーティングルームか、出来ればミキサー室に置いてもらえませんか?」
「うん、それは構わないよ。宜しくね、ええと」
「お世話になります。桐田と言います」
それっぽく、関係者らしい説明をした事でプロデューサーは納得したらしかった。
譜面を手渡され、開始は30分後だ、と指示されて、壱は咲と共にミーティングルームの片隅に腰を下ろした。その間も、スタッフは忙しそうにセッティングなどに立ち働いている
「いいのかな、あたい」
「上手い紹介だったでしょ」
「まあなあ」
「普通はミキサー室に無関係な人は入れないっすよ。余計な物に触らなければ何も言われないはずです」
「心得た」
「んじゃ、俺は楽譜を覚えますんで」
「うん」
壱が譜面に見入り始めると、咲は何も言わず室内を見回し始めたらしい。
少し経って、出入り口が騒がしくなり、これはと思うような白人女性が入ってきた。年齢は20代の後半頃だろうか。傍らに中年の女性を従えていて通訳か何かだろうかと思う。考えてみれば、競演する筈のメインボーカルである女性について、何も知らなかった。仕事だからそれでいいと言ってしまえばそれまでではあるが、多少の不便は感じないでもない。
気位高そうに顎を上げた女性は、何も言わずミキサー室へ向かう。プロデューサーが慌てて追いながら何事か話しかけると通訳を介してやり取りが始まる。段取りの説明らしい。
ふと、女性の目がこちらに向いた。怪訝さを隠そうともしない視線を真正面から受け、壱は椅子から立ち上がって頭を下げる。そうしてぼそりと女性が口にしたのは、よく聞けばドイツ語だった。
プロデューサーが不思議そうな顔をし、通訳が慌てたように何かを言っている。
「壱?」
「ドイツ人にも色々居るもんさ」
「え、どういうこと?」
「まあ、ガキじゃん、的な事を」
「なんと」
「ドイツ語だから解らんと思ったんでしょ」
「いやらしいのう」
「ま、見ておれという所ですな」
「うむ」
言葉で何かを言い返しても、少なくともこの場では何の意味も無い。
時間になり、レコーディングが始まった。発声を確かめるように大音声をあげる女性の斜め後方で、新調したサックスの具合を確かめた。コンサートに出て以来、壱の楽器に対するスタンスはまた改めてニュートラルなものになったと自覚している。つまり、緊張はあっても上がったり震えたりというような事とは無縁になった。自分を出す、という言葉の意味を、また改めて学んだという所か。
とはいえ今はボーカルが主役である。自己主張をしない演奏もまた大切なものなのだ。他の楽器も弁えたように俯いていて、壱もそれに倣う。
ミキサー室からマイクを通してカウントが通り、演奏開始。ガラス越しに、咲の表情を見る程の余裕があった。手を抜いているのではなく、心にゆとりがあるとこんなものである。
そしてボーカルも、流石に見事なものだった。よく通る歌声には太さと繊細さがあって、これは確かに聴く者を驚かせるだろうと感じる。情感も強く、彼女もまた音楽に身を窶してきた者独特の強みを感じさせてくる。
その背後を、支える。奏者として不完全燃焼な部分が無いとは言わないが、これもまた良いものだった。
まずは1度目が終わり、女性は呼吸を整えながら天井を見上げている。ミキサー室でいくらかのやり取りがあり、リテイク。頷いてミネラルウォーターを口にしてから、ボーカルは再びマイクに向かった。壱も、呼吸を入れ直す。
再度の歌唱。スタジオミュージシャンとして経歴が長いだけあって、ドラムもピアノもそつのない演奏をこなしている。当たり前と言えば当たり前なのだろうが、しかしそういう中での演奏というのは良い刺激を受けるものだった。
再び伸びやかに締めを歌い上げたボーカルが、今度は自分もチェックがしたいのかミキサー室へ戻っていった。
またいくつかやり取り。今回の曲はこれで良いとなったらしく、次の曲へ移る事になったようだ。2曲録りが多いのか少ないのか壱にはまだ解らなかったが、ボーカルの様子を見ているとレコーディングに要する歌い手の体力というのは随分と激しいものだと見ていて感じる。
1度休憩を挟む事になり、壱もミキサー室を経由してミーティングルームへ。咲が隣に微笑みながらやってくる。
「目に物見せてやったな」
「まあな」
「それにしても、なんていうんだろ。自然だな、壱は」
「そうですか?」
「特にあの場に居るのが、ね。居て当然、って雰囲気醸し出してるよ」
「マジか。褒めるね」
「鼻が高い」
「ふふん」
真顔で言う咲に笑って返し、休憩が明ける。
一応譜面を見直したが、それほど注意するような所も思い当たらない。今度は楽器にギターが加わっての演奏となるが、大きな変化を壱自身は感じなかった。言葉の持つ本来の意味通りの、適当な演奏が、この場では最適と思えた。ただただ、無心に己の技術を適宜動員していく作業は、何と言う程もなく、同時に楽しいものでもある。
2曲目は一発でOKが出た。あとは編集となるようだが、それには壱は関わりは無い。
「お疲れさん」
プロデューサーに声をかけられ、頭を下げて返す。
「僕はこの後は何か?」
「いや、黒沢君は大丈夫。社長にも一応言われてるしね」
「そうですか」
「別に何か気を使わされたわけじゃないよ。よくやってくれた」
ちょっと笑って、プロデューサーは他の奏者にも声をかけていく。なんとなく、華やかな印象のある職業だと思っていたが、これで苦労は絶えないのだろうとその背中を見て思った。
「咲さん、俺上がりだって」
「そっか、案外すんなりだったな」
「ね。なんか食って帰りましょうぜ」
言いながら楽器を片付けていると、再びボーカルと目が合った。サックスのケースを抱え直し、声をかけて、壱は咲と連れだって外へ出た。
「最後、なんて言ったの? ドイツ語だよな」
「また一緒にやりましょうね、って」
「そりゃ向こうは面食らったろうなあ」
愉快そうに笑う咲の手を握って、駅へ向かう。食事をする所はあちこちにある為に迷うが結局落ち着けそうな所という事で一般的なレストランに席を取った。週末故にそこそこに混んではいるが、席へ通されるのに時間はかからなかった。
作りはごく普通のイタリア料理店という感じで、これがもう少し遅い時間になると種類を豊富に取り揃えているらしいワインを目当てにした客も増えるのだろう。
「オッサレー」
「ですなー」
ジャケットを脱いでテーブルごとに用意されたハンガーへ引っかける。緩い作りであろう筈のセーターを咲の胸が押し上げていて多少感動的な気持ちになりながら、メニューを開いた。
「リゾット」
「決めるの早いな咲さん」
「や、そこで見かけてさ」
入り口のすぐ側がキッチンで、中はガラスを通して覗く事が出来る作りである。
「あの一番でかい釜がそうなんすか」
「そうそう。すげー美味しそうな色してた。シーフード」
「ふーん、いいな、それ聞いたら俺も食べたくなってきた……がっ、駄目っ……!」
「ほう」
「俺様はこのステーキが食べたい」
「お腹減ってるんだな」
微笑ましげに言われ、胸を張って返す。曲数こそ少なかったが、レコーディングという作業には大きな緊張が付きまとうものである。それを経て今となれば空腹も当然の事と言えた。
頃合いと見たウェイターに注文を頼み、水を一口。空調と季節のせいでいくらか喉が乾いている。
「今日録音したやつっていつ頃出るんだろ?」
「確か来月ですね。4月の1日。嘘かも知れない」
「確かに。うーん、でも壱の演奏がCDになって世の中に出回るんだからなあ」
「メインはボーカルですぞ?」
「だとしても後ろで鳴ってるサックスは壱があれだけ気合い入れてやったもんだろ? 今までそういう風にバッキングを意識した事無いけど、当然どんな曲もそれぞれの奏者が色んな思いでやってるんだろうなって」
「成る程、言われて見ればですね。当然っちゃ当然なんですけど、確かにそうだ」
「楽しみだな。ボーカルには興味無いというか印象最悪だけど」
「ははは。いやあ、こういう業界だと、敵愾心も育ちやすいらしいっすよ。社長が言ってました」
「シャッチョサンと仲良しだよな、壱」
「不安になる言い方をするんじゃない。まだまだヒヨコみたいなもんですから、手間かけさせちまってますよね」
「そんなもんか?」
「元々そういう人みたいです」
実際、薫子の回してくれた気遣いでどれだけ助かったかは数え切れない程である。とかく新人で、かつ若造に過ぎない壱は現場で軽く扱われがちなのだ。一言社長から釘が刺されるだけで、それによる反感も少なくないだろうが、立ち回りは非常に楽なものになった。
「まさかジェラってます?」
「ジェラるというか。あたいの出番が無いなって」
「バカな。俺のおうちは咲さんなのに」
「やだエッチ」
「エッチな解釈したのアンタでしょ!」
「ふへへ。まあ、なんというか。うん」
言葉を濁して、咲はグラスを傾けた。
その態度が気になり口を開こうとした所で、頼んだ料理が並べられた。シーフードリゾットに、150ポンドステーキ。既にカットされている肉の切り口からは表面の焼け具合とは裏腹な赤い断面が顔を覗かせている。
「うまそうだ」
「うん」
「いただきます」
「まーす」
簡素な挨拶を経て手をつける。ソースは甘みが少しあるベリー仕立てらしい。そこに、塩胡椒のよく利いたビーフのスパイシーさと弾力がよくからんでくる。素直に美味いと思える出来だ。
「咲さん食べる?」
「あ、一切れちょうだい。こっちも食べてみ」
「はいはい」
器をトレードして咲のリゾットも口に入れる。こちらはトマトソースベースのリゾットで、イカをメインにしたシーフードにブラックオリーブの酸味が気持ち良い。赤唐辛子の主張もまたどろりとした食感の中で程良いエッセンスになっている。
「美味いすな」
「ねえ。当たりだな、ここは」
「咲さんこういうの作れる?」
「うーん、多分な。試行錯誤はいるだろうけど」
「作って」
「ほう」
「咲さんの作ったやつが食べたい」
「お前は可愛いやつだ」
「知ってる」
「はは、いいなあ。うん、任せなさいよ」
目を細めて食事を勧める咲を見て、いくらか以前見せたようなかげりはなりを潜めたのだろうか、と考えた。
食事をしながら適当な話をする。内容など大したことはなく、それこそ天気の話と同程度の意味しか無いが、それを彼女と交わすことに壱は安らぎを覚えるのだ。言ってしまえばこれは壱の初恋で、それが実っているのだから幸運な事なのだろう。咲の向けてくれる気持ちも、真っ直ぐな物を強く感じる。
だから、言葉尻が濁っただけでいちいち気にしてしまうのだろうかと思う。
「咲ちゃま」
「何それ」
「いや、なんとなく」
「なんですの」
「うーん、前も言いましたけど、なんでも俺には話して欲しいよなって」
「……まあ、な。あたいも意地っ張りだしなあ」
「そうなんすか? 割と硬軟使い分ける印象ですが」
「譲れない物も多少はあるのさ」
「成る程」
「めんどくさい女の彼氏やってんだぜ、壱」
「超嬉しい」
「はは、苦労かけるね」
気が抜けたような笑い声を、咲は水と一緒に飲み込んだ。
食後、ウィンドショッピングなどをして、壱の部屋へ。もう恒例で、咲の私物もいくつかある。とりあえず荷物を置こうか、となった所で、咲に背中を押された。
「おお?」
「すまん壱、ちょっと我慢出来ない」
「そりゃ望む所なんですが」
合わない視線を気にしながら、それでも咲を抱きすくめて、ベッドへ腰掛けた。そういう日もあるだろう、と思いながら、幸福を手のひらへ握りこむように、彼女の視界を覆った。
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