compound bow
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メインの奏者はトランペットで、その後ろを、壱は担当する事になる。
ステージに立ち、聴取席を見渡す。ステージの明るさのせいでその顔までは見えないが、満席らしい事は伝わってくる熱気でよく解った。深呼吸を1つして、サックスを構える。
拍手が鳴り響くと、まるで突風が吹いたように体をびりびりと振動が襲う。目の前が真っ白になるような感覚と、体中の血が逆流するような違和感に囚われた。
ドラムスがちらりと壱ら奏者に目配せ。リハーサルの時も同じようにしてくれていたのを思い出し、いくらか気持ちを落ち着けながら、息を吸い込む。
ドラムのスネアとトランペットの疾走は同時。それに一瞬だけ遅れて、壱もキックスタート。
自分の音色が聞こえない。周りの音が大きすぎるのか、音響のせいなのか。それでも、曲は始まってしまっている。焦りを堪えて、既に記憶にある楽譜をなぞり続ける。
楽曲の中盤で、ドラムソロ。深呼吸、というよりも肩で息をしていた。押しつぶされそうな圧迫感が目の前をぼやけさせ、自分の手元すら危うくなってくる。つるりとサックスにかけた指が滑り、慌てて構え直した。
これが、本物のステージなのだ、と思った。咲には一丁前な事を言ってしまったが、これがプロの世界である。このプレッシャーと、プロは日々戦っているのかと思うと気が遠くなりそうになった。首の後ろがズキズキと痛み、指先が震える。
ドラムソロが終わると、今度はトランペットと入れ替わり。更に次はベースソロがある。壱にソロなどありはしないが、単音が導く音色の道程は壱を置いてけぼりにしそうな程に早い。
何をやっているのだ、と思い直し、聴取席を睨み付けるようにして、気を取り直した。リハーサル通りにやる。それだけを、頭に入れる。
ソロが片付いて、再び全員でのサビ。型どおり、楽譜通り、やるべき事をやって、ようやく終わった。
ここで1度はけて、次は康臣のピアノと共に出ていく事になる。
袖へ戻ると、薫子が腕を組んで壁に寄りかかっていた。内心、ひやりとする。
「流石に苦しい?」
やはり見られていたのだ、と思い、俯いた。
「すみません」
「次もこうでは困るわね」
「はい」
それだけ言って、薫子は人に呼ばれて袖を出ていった。
落ち込む。心底から落ち込んでしまう。あれだけ普段通りと言われていたのに、場の空気に飲まれてこの有様である。おかしな汗をかいている事に気づいて、ハンカチを取り出し額を拭った。
またいくつか曲目が進んで、ついに真打ちと言うべき康臣の出番である。最初に2曲、康臣はソロでやり、3曲目はパーティのようにして壱のサックス、ベース、ドラムが集まっての演奏となる。
飲み物を口に含んで、大きく息を吸い、吐いた。
澄んだ、気持ちの良い音色に気付く。楡原康臣のピアノである。CDは全て持っているが、聴いた事のない曲だ。別段難しいフレーズがあるわけでもなく、取り立てて激しい印象はない。むしろ叙情的であり、物悲しさすら漂う、初めて聴くピアノ。
涙が流れた。マイナーコードの多い、いわゆる泣かせの旋律が並んではいるが、そこまで作為的なものでもない。だというのに何か、切実な希望のようなものを感じさせる曲だった。聴取席もしんと静まり返っていて、ジャズコンサートというよりはクラシックコンサートといった趣になっている。
これが、本物なのだ。わけもなく、壱はそう感じる。今高みにある人間が、心から演じるピアノは、どうしようもなく壱の心の、弱い部分を握りしめた。初めて楡原康臣のピアノを聴いた時の、どこか斜に構えながら、屈託もあり、同時に青臭くもあった印象を思い出しながら、こんな所で躓いてはいられないと歯を食いしばった。
次の曲はいくらかアップテンポで、1曲目とは様変わりした明るいピアノになった。テンポも早く、次のパーティへ備える助走のような曲。
椅子から立ち上がり、サックスを確認。
拍手が鳴り響き、さあ自分の番だ、とステージへ向かおうとした所で、康臣が袖へ小走りにやってくるのが見えた。壱他、出演者達がぎょっとしている。
「黒沢君」
「あ、はい」
「固まってるね」
早口にそんな事を言って、康臣はちょっと考えるような仕草をしてから、壱のネクタイを引っ張り、襟から抜いてしまった。息苦しさが、不思議にそれで消えてしまう。
薫子が慌てたようにやってくる。
「康臣」
「任せて下さい」
「……」
それだけ言って、康臣もネクタイを外し、ポケットへ突っ込んでしまう。それを見て、一緒に出る中年のベーシストも、壮年のドラムスも、笑ってネクタイを外してしまった。
「黒沢君、好きにやってみるといい」
「そんな」
「杓子定規にやるんなら、MIDIでも流せばいい。人の熱を、お客さんは欲しがってるんだから」
「いいんですか」
「いいとも。出来るなら俺より目立ってみな?」
おかしそうに笑って、康臣はまた小走りにステージへ戻って行った。ベースとドラムがそれに続いたので、壱も慌てて倣う。後ろから、薫子の声。
「黒沢君」
「は」
「……やるんなら、派手にやりなさい」
頭の痛そうな顔で、しかし口の端を持ち上げた薫子に頷き返して、ステージへ。
一瞬どよめいたような声が聞こえたが、ドラムがスプラッシュシンバルを2つ叩くと、拍手に変わった。康臣が立ったまま片手でテンポを取りはじめ、ベースが乗っていき、ドラムが改めてブラシでスネアを叩く。
やっと椅子に腰を下ろした康臣が、メインテーマを奏で始めた。壱もそれに合わせて、というよりは、隣を歩くように、バッキングを始める。
足でリズムを刻み、時折体を反らせるようにして、サックスに命を吹き込む。心が震える。自分がやりたいのはこれなのだ。訳も無くそう確信する。
中盤に差し掛かると、康臣が単純なフレーズの往復をしながら、ベースを指さした。笑いながらベースが前へ出てきて、ソロを始めてしまう。康臣はリハーサルに居なかったとはいえ、当初の予定には無い事だ。指が別の生き物のように弦の上を走り回り、ひとしきりのテクニックを披露すると、拍手。背を向けて、元居た場所へ。
次はドラムの番らしく、康臣は再び同じようにしてドラムにソロを要求した。スティックをくるくると回して請け負ったドラムが、タム回しからスティックを持ち直してスネアをかきならし、最早何が起きているのか壱には理解できないようなプレイを繰り広げる。
そうして、最後。片手でベースを演じながら、康臣が壱の方を見ながら、片手を2度頭の上で振り、人差し指を突き出した。2歩前へ。
ソロといっても何をやると決めていた訳ではない。予定など無かったのだ。だから、思う様にやれた。持てる全てを放出して、ステージに居る全ての人間に、そして聴取席に座る全ての人に、力の限り自分をぶつけていく。渾身のフラジオ、オーヴァートーンの4倍音。その瞬間、驚いたような顔で、康臣が振り返ったのが解った。片手を離し、康臣に向けて胸の辺りを1つ叩いて見せると、心底楽しそうに笑って、彼はピアノに向かった。
楡原康臣のソロ。次元が違う、と感じる、圧倒的な技術の羅列と、それだけに終わらない熱さが、壱を縛り付ける。ピアノという楽器の持てるスペックを全て使いこなし、最後の締めへ向かう。
ラストはもう、何も考えなかった。譜面の通りではあるが、自分はここに居る、と叫ぶような気持ちで、かき鳴らした。全員が同じ所で止まり、静寂。そして、喝采。ステージへ、突風がやってくる。
立ち上がった康臣が礼をしているのを見て、壱も慌ててそれに倣った。ベース、ドラムも同様にし、揃って袖へ戻ると、他の奏者が拍手で出迎えた。中には壱の肩を叩いて褒めそやす者も居て、自然に顔が緩む。
康臣がジャケットを脱いで椅子にひっかけ、飲み物を口にしていた。
「楡原さん」
「やるじゃないか」
「有り難う御座いました。なんか、こう、スッキリしました」
「いや、正直不安だったけどね。リハじゃ完璧だったのに。想像以上だったよ」
「そうですか」
「社交辞令でもなんでもなくね。マジであそこまで出来ると思って無かったから」
「それでもあんな事やらせたんですか」
「折角壇上に出るんだ、楽しい方がいいだろ?」
確かにその通りではあった。最初に出た時より、よっぽど楽しかった。サックスを演奏した、という充実感は、比べるべくもない。
薫子がやってきて、壱と康臣を交互に見る。
「困った子達だわ、本当に」
「でも良かったでしょ」
「主催者としては減点ものよ、こんなの」
「褒められてるぞ黒沢君」
「マジすか」
「褒めてないわよ、全く」
言葉とは裏腹に、薫子は困ったようなものではあるが、微笑んでいた。それを見て、なんとなく気分も落ち着く。
「黒沢君はこれで全部だっけ」
「そうです」
「じゃ、休憩しといで。控え室でもいいし、席でもいいし」
「楡原さんは?」
「俺もおしまい。最後は招待奏者じゃなかったかな」
「そうね、戻ってもいいわよ2人とも」
そんな言葉で、壱はなんとなく袖を出てホールのエントランスへ。もう自分の出番はおしまいだという旨だけ家族と咲へメールで伝達し、控え室へ戻った。
廊下に人の声がいくつかして、ノック。返事をすると、咲と翠が入ってきた。
「お疲れさん、壱」
「壱にい超スゴかったね!」
「マジか」
「いやあ、いい男っぷりだったじゃない。1曲目の時はどうしたのかと思ったけど」
にやにやとしながら、咲はソファへ腰掛けた。翠がその隣へついたので、壱も椅子を引っ張って向き合う。
「いや、最初のはマジでどうかしてましたよ」
「なんかね、壱にいっぽくなかった」
「ほう」
「そうね、翠ちゃんしきりに首傾げてたもん。あれほんとに自分の兄貴か? って感じで」
「動画撮ったよ、見る?」
「お前マナー悪いな!」
言いながらも、翠が差し出した携帯電話の動画を確認する。音は割れてしまっているが、壱の居る位置を多少の手ぶれと共に写していた。
顔色は悪く、虚空を見据えて、ぎこちない演奏をしている。それがよく解った。
「緊張?」
「それだけじゃないっすね。多分なんか、怖くなったんだと思うんですけど」
「怖くなった」
「壱にいが?」
「そう。なんて言うのかな、ここでやっていいのかな、って思って。俺なんかが」
「実際にステージに上がるとそこまで行っちゃうもんかね」
「でも2回目出てきた時は凄かったよ、カッコ良かった」
翠が身を乗り出して言うと、咲も追従するように頷いた。
「あれはね。始まる前に楡原さんが俺のネクタイ外して、好きにやれって言ってくれたんだよ」
「へえ、そんな事が」
「そういえば、あの時だけ皆ネクタイ取ってたねえ」
「ベースとドラムの人も乗ってくれてね。あれソロやってたけど、あんな予定無かったんだ」
「じゃ、アドリブで?」
「全員ね。凄いと思うよ」
「流石だなあ」
満足げに頷く咲と、それを見て笑う翠。中々に気が合っている2人らしい。
「そういえば、父さん達は?」
「あ、今社長さんにご挨拶」
「そうなのか。色々手回して貰ったしね」
「もうすぐ来るんじゃないかな。ご飯一緒に食べに行こうって」
「もうそんな時間か」
17時に開幕したコンサートはあっという間と感じていたが、気付けば20時に近い。
アナウンスが流れ、退席する客への注意事項などが聞こえてきたのと、両親が控え室へ入ってきたのは、殆ど同時だった。
ホールを出て、都内のちょっとしたレストランで食事をすると、翌日があるからという事で両親と翠はいくらか急ぎ足に帰っていった。咲が残った事に対しても特に何も言われず、かえってそれが気恥ずかしくもあった。
電車を乗り継いでアパートへ向かう間、取り留めもなくコンサートの話などをしたが、どこかやりきってしまった充足感のせいか、上の空になってしまう。それを指摘されて謝りながら、部屋へ。
「お疲れさま」
入るなり、咲に1日を改めて労われた。溜息混じりに笑ってベッドへ腰掛けると、隣に並んでくる。
「疲れた」
「だろうさ」
言いながら、帰りしなに買ってきた飲み物の封を切る。酒でも飲みたい所だが、流石にそれは避けた。今はこの疲れも愛しい程である。
「あたい頑張らないとな」
「学校ですか」
「そ。刺激された、とまで言わないけど、もっと頑張る余地は沢山あるような気がしてきたよ」
「そうですか。俺は歌の方は全然解らないですけど」
「難しいのさ、中々。やる気だけじゃどうもね」
いつに無く弱気な台詞で、思わず顔を覗き込んでしまうが、咲の表情は普段と変わらなかった。
「なんか、壁にぶつかってるんですか」
「壁なんか常にあるもんだ。だから頑張り甲斐もあるってもんよ」
「頼もしい限りすなあ」
「だろう」
いつもの軽妙さも足りないように思えて、思わず壱は咲の髪に手を伸ばした。殆ど抵抗無く指の間を落ちていく黒髪。
「ん?」
「いや」
「あたいの着替えどこだっけ?」
「ああ、そっちの引き出しに仕舞いましたけど」
「使った?」
「使わないよ! 中身の方が大事だよ!」
「言うじゃないか」
シャワーを借りる、と言って、抜け出すように咲は服を脱ぎながら脱衣場へ入っていった。首を傾げ、それからベッドへ仰向けに倒れ込んだ。瞼が重く、まどろんだ。
ほんの一瞬だが眠ったらしく、目を開けると咲がバスタオルだけを身につけて覆い被さるようにしながら顔を覗き込んでいる。
「眠い?」
「ちょっと」
「寝ちゃう?」
「ん、シャワー浴びたいっす」
「行っといで」
「はい」
咲に見送られ、熱いシャワーを浴びると、流石に頭もはっきりしてきた。タオル1枚で居る自分の恋人を放置出来る程、壱も枯れてはいない。
居間に戻ると、咲は変わらない格好でテレビをぼんやりと眺めていた。
「お帰り」
「はい」
「疲れたろ。おいで」
上掛けをまくりあげての手招きに、壱は特に何も言わずに従った。並んでごろ寝をして、特に興味も無いバラエティ番組を見る。
「今日はこのまま寝てもいいかい?」
「そりゃ構いませんぜ」
「必要なら抜くけど」
「いいよ別に!」
「そうか?」
笑って、咲は壱にしがみ付いてくる。これで今夜はお休みとは酷い話であるが、彼女にも色々と思うところはあるのだろうと納得して、受け入れるに留めた。
咲も大学の冬季休みが明ける。そうなれば、ここ1ヶ月のような会い方はし辛くなるだろう。それを思うと、つまらない、と素直に思うのだった。
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