compound bow


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 クリスマスを経て、年末になり、壱は帰省した。その折りには咲の両親にも紹介され、恐縮する程の歓待を受けてしまった。1人娘が男を連れてきたという状況にそぐわないと思ってしまう程友好的な咲の両親は、流石と言うべきか彼女の両親であった。
 恋人は元気で明るく、自分も問題など何も無い。順風満帆というやつで、それが逆に不安の種になったりもするが、概ね壱の人生は良いものだと胸を張れるものである。
 1月2日、まだまだ世間は正月で浮かれている。夜中に降った雪が微かに田舎街を白く染めている中、壱は咲と共に買い物に出て来た。彼女が福袋を買ってみたい、と言い出したのである。
 時刻は昼過ぎ、デパートのある駅まで電車で数分揺られ、到着。
「もう無いんじゃね」
「お前到着してからそれ言うの!?」
「いや、すげえ浮かれてるからつい」
「いやあ、なんかあるでしょ。ラッシュの福袋とかもあるらしいよ」
「ああ、あのめっちゃ匂いのキツいお店」
「左様。あれ苦手?」
「酔う」
「解る」
「でも行く?」
「イキマース」
「オッケー」
 想像通り、ファッションブランドの福袋などは元旦に全て捌けてしまったらしく、通常のセールで昨年の秋冬ものが捨て値になっている程度である。
「やっぱダメか」
「まあ、ね。来年に期待しましょうや」
「なんで鬼が笑うんだ?」
「怖い鬼すら爆笑ものの遠大過ぎる話だからでしょう」
「あたまいいな」
「まあな」
「うーん……あ、香水見たい」
「いいっすよ」
 女性向けブランドの詰まったフロアを上がると、化粧品や腕時計、貴金属などが並ぶエリアに出る。特にアクセサリーの類を持ち歩く習慣の無い壱だが、何か拘りを持ってこの手の代物をつけている人を見ると、多少憧れたりはしたものだ。
 人入りは流石に多く、あまり並んで歩いてばかりいると擦れ違う事すら難しくなるので、時に2列に、時に1列になりながら咲のオプションパーツのようにして壱は続く。
 香水を広く取り扱うショップに足を踏み入れると、咲が店先の一角を指さした。
「ふくぶくろ」
「そうだな」
「……どう思うよ壱ちゃん?」
「いや、香水って好み別れるから難しいんじゃないすか?」
「どさっと買って、その中から好みを見つけるプレイ」
「成る程」
「というわけで咲ちゃん1個お買い上げ。壱は?」
「俺はどうしようかな……香水つけたこと無いですし」
「え、めっちゃいい匂いするのに」
「バカな」
「ほんとほんと」
「咲さんだっていい匂いしますよ。シャンプー?」
「普通のシャンプーだけどなあ」
「ま、俺は今回はパスで。他に何かもっといいのあるかも知れないし」
「ふむ、ならば私は会計してこよう」
「はいさ」
 咲がレジに並んでいる間、混み合う店内から出て、辺りを見回してみる。目の前の時計店が必然的に視界を埋めるので、とりあえずガラスケースに寄ってみた。
 精巧さが売りのスイス製から、壱もよく知るブランドのものまでずらりと並び、なんとなくその総額を暗算して気が遠くなりかける。
「お股」
「藪から棒だな君ィ」
「エヘヘ」
「かわいい顔するんじゃない。次はどこ行くんすか?」
「うーんとね。服は全滅だし、アクセもこの有様だし……少し休憩すっか?」
「ですね、ちょっと小腹空きました」
 よくよく物を飲み食いするカップルだな、と他人事のように思いながら、人の波に押されないよう手をつないで更に上のフロアへ。いわゆるレストラン街というやつで、喫茶店か専門店までが軒を連ねている。
 そのうちの1つ、甘味を売りにしたカフェへ入ると、時間帯が微妙であるせいか余裕のある席へ通された。人いきれという程ではないが、これだけ客が出入りしている中を歩いた後とあっては冷たいおしぼりが気持ち良く感じる。
「ふんふふーん」
「おい家に帰るまで我慢出来んのか」
「出来ん」
「そうか……」
「何が出るかなー、お、まずはブルガリー」
 前触れ無く福袋を開け始めた自由な彼女を止める手だても思いつかないので、好きにさせる。
「グッチもあるな。おお、シャネル! ……のテスターじゃねえか」
「いくらだったんすか、それ?」
「1万円」
「微妙だなー」
「なー」
 次々にテーブルに並べられる香水の1つを手に取って鼻を近づけてみる。紙箱の上に、更にシュリンクまでついているのに、微かに漂う香水らしい香り。
「すっげ匂う」
「な。ええと、あ、ランバンはテスターじゃないや。これはちょっとお得」
「普通に買うとどのくらい?」
「8000円くらいじゃないかな、50mlだし」
「おお、勝利者!」
「今年もラッキーな年になりそうだ」
 注文した飲み物と、2人でシェアしようと決めたクラッカーが運ばれ、それに手をつける。広げていた香水を咲も片づけて、一息。
 ポケットの中で携帯電話が震えた。取り出してみると、表示されたのは楡原薫子の名前。
「すいません」
「うん」
 ちょっと頭を下げて通話ボタン。年始から何事だろうと思わなくはない。
「もしもし」
「ああ、黒沢君。あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます」
「年始早々申し訳ないわね、私は今日からあちこちに顔を出す必要があって」
「とんでもないです。お忙しいようで」
「悪いことではないわね。そう、ちょっと話があるのよ。仕事の話」
「俺にですか」
「実は来週末、ニューイヤーコンサートというものをやるのだけどね。サックスが1人欠席になってるのよ。貴方に頼めないかと思って」
「え……いや、でも」
「腕の心配をしているなら無用な事よ。いつも通り貴方の演奏をしてくれればいい。曲数はいくつかあるから、受けてくれるのなら譜面はすぐに届けさせる」
 一瞬考え、咲の顔を思わず見てしまう。彼女はそんな壱の小さな表情の変化を敏感に感じ取ったのか、微かに身を乗り出して首を傾げて見せた。
 何か、それだけで壱は心が軽くなるのを覚える。
「やります。やらせて下さい」
「……そう、解った。正直、ありがたいわ。このタイミングで空いた穴なんてそう簡単に埋められるものではないから」
「そうなんでしょうね」
「じゃあ楽譜は秋乃に届けさせるわ」
「あ、今実家に居まして」
「なら、ご実家に。速達でいいわよね? 秋乃に会いたいなら届けさせるけど」
「や、それには及びません……」
「冗談よ。細かいことは……そうね、明日連絡するわ」
「解りました。よろしくお願いします」
「堅くならないで。別に試金石というわけでもない。私は貴方を買っているからね」
 それじゃ、と短く言って、薫子の方から通話は切られた。思わず深い溜息。
「壱?」
「咲さん来週末暇?」
「ん、お、おう。暇だと思う」
「シン・ド・アリッサってレーベル。俺がお世話になってる所。そこのニューイヤーコンサートがあるんすよ」
「おい、まさか」
「出ろって。サックスに穴があるから」
「凄いじゃない、本当に?」
「ええ」
「年始早々いい兆しじゃない。ああもう、凄いな。嬉しい」
「そんなに」
「だって壱が出るんでしょ?」
「俺が代打になるくらいですから大した事ないとは思いますよ」
「でも、演奏して、お金を貰う立場になるんだ。立派なものだよ」
「あ、そうか。いくらくれるんだろう?」
「大事な事だぜ、金勘定って皆嫌がるけど」
「ですね」
「それにしても」
 壱の手を取って、咲はまじまじと顔を覗き込んでくる。幾度も近づけあった顔だが、こうして見るとやはり照れくさいような気に壱はなった。
「素敵だなあ。誇らしいよ、私は」
「序の口ですぜ」
「違う違う。最初の一歩だ。しかも大股の」
 確かに、薫子との話ではレコーディングにおいてスタジオミュージシャンとして下積みを、となっていたのである。それに対して不満があるわけではなかったが、一足飛びにコンサートで演奏となったのは、運の良い事だ。正に、大股での第一歩と言っていいだろう。
「そうですね、確かに」
「はあ、なんかあたいがドキドキしてきた」
「何それ可愛い」
「壱は?」
「今から緊張するほど繊細でもないっす、当日はどうか解りませんが」
 再び電話が震える。机の上でバイブレーションががりがりと騒がしい音を立て、思わず身が竦んだ。
 また薫子か、と思ったが、今度は母である。咲が興味深そうに顔を寄せたので、母からだ、と断ってから、通話。
「はいよ」
「ああ、壱。今日は夜どうするの?」
「そうだった、ごめん、ちょっと待って……咲さん今夜は?」
「うん? 特に何も決まってないけど」
「良かったらうちへ来ませんか。俺も家族に紹介したいし」
「ほんとか、行く行く、行っちゃう」
「やかましい……あ、母さん? 悪いんだけどもう1人分食事用意してくれない?」
「あら、お友達?」
「ううん、彼女」
「まあ。でも年始早々いいの?」
「彼女の方は」
「なら、ちょっとは良い物用意するわね」
「ありがとう。時間は6時くらいでいい?」
「そうね。そのくらいが丁度良いわ」
「じゃあそうする。急で悪いけど」
「何言ってるの。楽しみにしてるからね」
 それで通話を終えて、咲に向き直る。
「6時くらいに家に」
「そっか……じゃ、ごめん、少し早めに戻って一旦着替えていい?」
「そんな気にしなくても」
「気にするさ、第一印象って大事だぞ」
 今日の咲は、お気に入りらしいダウンとデニムのラフな格好である。これでも問題無いだろうと壱は思うが、彼女からすれば初対面の人間に会うのだ。
「解りました。つーか、それなら俺も一緒に咲さんちまで行くんで、そのまま俺の家に」
「いいね、そうしよう」
 軽食を片づけ、またショップを見て回り、15時を過ぎる頃になって家路についた。日が傾いて寒さも増してきた中を手を繋いで歩き、一旦咲の家へ。
「んじゃ、着替えてくるから、悪いけど」
「はい」
 彼女の家族も在宅していたので、ついでとばかりに挨拶していく。桐田家の棟梁たる彼女の父は、19の娘が居るとは思えない程に若々しい。自分の父と比べると歴然とする程である。
 炬燵に入って酒と肴を前にテレビを見ていた彼に向かって頭を下げた。
「あけましておめでとうございます」
「おう壱君、頭ぶつけんなよ。あけおめ。元気か」
「お陰様で」
「うーんまだ固いなー、まあいいや、炬燵入れよ」
「お邪魔します」
 いつか咲に言われたような台詞と共に勧められるまま炬燵へ。
「飲みたまえ」
「え」
「固いこと言うなよ、な」
「は、では喜んで」
「よっしゃー」
 ぐい飲みに燗酒が並々と注がれ、ジョッキのように交わされる乾杯。
「いやあ、やっぱ息子欲しかったなー俺」
「咲さんは付き合ってくれないんですか?」
「あいつに酒飲ます時は気をつけろよ、結構酒乱だから」
「本当ですか」
「やばいよ、うちの嫁も超乱れるし。お袋の血なんだな」
「ははあ」
「壱君は? いけるクチ?」
「酔っぱらう程飲んだことないんで、なんとも」
「いい事聞いたわマジ。飲め飲め」
「祐輔君は何を騒いでいるのかな?」
「げぇっ、咲!」
 着替えを終えたらしい咲が居間に入ってくるなり一言。固まる父。不思議と言えば不思議だが、咲は父を名前呼びする。
「お母さんは?」
「新年会」
「寂しい男よ」
「寂しかったよ咲ちゃんお帰り」
「私今日壱の家で晩ご飯頂くから、1人でなんか適当に食べてね」
「追い打ちじゃねえか……何、壱君ち行くの?」
「はい。両親にまだ紹介させてもらってないんで」
「俺も行っていい?」
「え」
「駄目に決まってるでしょ。最低でも素面の時にしなさいよ」
「酷い女だよな」
「ははは」
 笑うしかない。桐田家の空気は基本的にこんなもので、彼女の母が仲立ちに入るとまた少し落ち着いたものになるが、それでも嫌われてはいないようで壱は安心している。
「お前も飲みな。挨拶に行くんなら景気付けに」
「いらない」
「これだよ。父は寂しいね」
「言いながら壱に注ぐんじゃない。壱も断っていいんだからな」
「苦しい立場ですわ」
「ま、とりあえずそろそろ出た方がいいんじゃない?」
「そうですね」
 時計を見ると、17時を半ば過ぎている。壱の家まで歩けば余裕のある到着になるだろう。
「じゃあ、すいません、失礼します」
「おう、よろしくな壱君」
「戸締まりと火だけ気をつけてね祐輔」
「心配すんな。行ってこい」
 もう正月特番に目をやり始めた父に小さく溜息を吐いて、咲は壱を促した。頭を下げて、辞去する。
「すまんね、おっさんの相手させて」
「いや、全然。なんでか歓待してもらえてますし、嬉しいすよ」
「ならいいんだけどさ」
「そういや、親父さんおいくつなんすか」
「えーと、38かな」
「え」
「私の年に私作ってるわけだ」
「なんかそう考えると凄いな」
「だろう。母はその5個上。紐のような親父よ」
「そんな」
「案外仕事はきちっとしてるらしいけどねえ」
 疲れたように首を振る咲である。それでも、桐田家は良好な家族関係だと外から見ても壱にはよく解る。自分が1度家族というものに絶望している事もあってか、そういう空気を察するのは得意だし、それが暖かいものだと無性に嬉しくなった。
 高架下を抜け、国道から脇に入ると、すぐに黒沢家の敷地が見えてくる。広さだけはあるので、目には付きやすい。
「はぁ」
「どうしやした」
「緊張するんだ」
「嘘だぁ」
「なんでだよう。緊張するぞ、私だって」
「大丈夫すよ」
「ん」
 ジャケットの襟を寄り合わせ、マフラーの形を整える咲を待ってから、壱は先に立って家へ入った。
「ただいま」
 声をかけると、返事が1つ。それから、母が出てきた。
「母さん、この人が桐田咲さん。前の学校の時の2個上の先輩」
「まあ。初めまして桐田さん、お噂はかねがね」
「初めまして、桐田咲です。お招き頂きまして有り難う御座います。壱さんには、いつもお世話に」
「こちらこそ。寒かったでしょ、上がって下さい」
「お邪魔します」
 楚々とした、どこのご令嬢かと思うような、丁寧な挨拶に壱は暫し呆然としてしまった。数分前まで父親を名前で呼び捨ててボロクソに言っていた人物とは思えぬ変わり様である。
 後を追うようにして壱も上がり、居間へ。食事の支度はまだ途中なのか、母はすぐに厨房へ入った。
「もう少しかかりますから、ゆっくりしてて下さい」
「いえ、良ければ何かお手伝いさせて貰えませんか?」
「そうですか? じゃ、お願いしようかしら」
 壱の方をちょっとだけ見て、母は嬉しそうにそう言う。結果手持ち無沙汰となった壱はそのまま居間で待つことになったが、すぐに父、兄、妹が集まって来た。それぞれに、咲はやはり丁寧な挨拶をし、少なからず黒沢家中を驚かせた。
 兄の拓だけはやはり苦手意識があるのか、それほど饒舌ではなかったが、食事の空気も和やかなもので、咲の言葉もどこまで正しいのか壱には解らないほど綺麗な謙譲語で彩られていた。
「いい人捕まえたな」
 父が話の折りにそんな事を言ってくれた事が、何より喜ばしい。
 食事も終わり、9時を過ぎた辺りで、お開きとなった。その空気も、唐突になりすぎないよう咲が意図的に作ったもので、そういえば吹奏楽部の部長をやっていた頃から人の前に立って何かをするのが得意な人だったと思い返す。
「お疲れさまでした」
「緊張したあ」
 慇懃になりすぎない辞去の挨拶をした咲を、駅まで送る。
「驚きましたよ。何語だよってくらいの敬語で」
「まあ、最初くらいはせめてね」
「嬉しいっすよ。なんか。親父も言ってたでしょ、いい人捕まえたって」
「そう言って貰えれば、やった甲斐はあったわ」
 笑って、咲は頷く。
 高架をくぐり、駅前ロータリーに出た辺りで、立ち止まった。
「この辺でいいよ」
「そうすか」
「家まで送ったら、また祐輔に絡まれるぜ」
「確かに」
「コンサート、楽しみにしてるよ。細かい事決まったら、教えてな」
「はい」
「あ、でもチケットなんか取れないんじゃね?」
「いや、あの手のコンサートってのは基本的に空席があるんですよ。VIPの招待用に」
 いつだったか、薫子が雑談の中でそんな話をしてくれた事がある。
「そうなのか、なら、壱の伝手で入れるのかな?」
「その辺も含めて、また連絡します」
「うん。年始はいつまでこっちだっけ?」
「7日まで居ますよ」
「そうか、じゃ、また明日……ってわけにも行かないか」
「なんで?」
「え、毎日顔合わせてたらダルくね?」
「ダルいすか?」
「あたいは壱を24時間監視していたいけど」
「マジか」
「うん」
「そんな事も無げに。ダルいとか全然無いんですけどね」
「そうか、じゃあ、明日また適当な時間に遊ぼうぜ」
「はい」
「腰」
「はい」
 言われるままに屈んで、キスをする。ありふれたこんな行為が、どこまでも荒っぽいものを抱えた筈の壱の心を安らかにした。
「んじゃ」
「お気をつけて」
「へへ」
 壱の胸をぽんぽんと叩いて、小さく手を振って、咲は踵を返す。
 その背が見えなくなるまで見つめて、壱も家路についた。

 一夜明けて、またサックスを聞きたがった咲と共に、近くの森林公園へ足を運ぶ。森林公園と言えば聞こえはいいが、田舎特有の緑地の使い道に困った結果の産物と言ってもいい程度の作りである。楠白にある国営のものとは比べるべくもない。
 だが、それだけに思い切り演奏をするには人気も無くて丁度良かった。
「うーん、カッコいいな、やっぱ」
「褒めるねえ」
「サックスっていうのもまた良いよな」
「ま、主人公補正のかかりやすい楽器ですよね」
「確かにね。ソロでもいけるし」
 風は相変わらず冷たいが、サックスを吹いているとそれも忘れられる。つくづく、自分にとって掛け替えの無いものだと思い知る。
「ん、携帯鳴ってない?」
「え……あ、ほんとだ。よく解りましたね」
「耳はいいのさ」
 カーゴパンツのポケットに携帯電話を突っ込んでいたので、振動に気付かなかったらしい。液晶画面には薫子と出ていて、咲が気付いてくれなかったらどうなっていたかというところだ。
「はい黒沢です」
「ああ、お疲れ様、黒沢君。ちょっと時間貰うわね」
 有無を言わさない言葉だが、不思議と薫子のそれには抵抗感が薄い。人に指示を出す立場の人間特有のものだろうか、と無関係な事を考える。
「はい、お願いします」
「じゃ、少し細かいからメモを取って頂戴」
「メ、メモですね。ちょっと待って下さい」
 言いながら壱が自分の鞄を漁ると、素早く咲が自分のものらしいペンと手帳を差し出してくれた。頭を下げて受け取る。
 それから、薫子はコンサートの概要か、正確な開始時間、そこへ至るまでの細かい指示などを口にした。
「楽譜は今夜には届く筈だから目を通しておいてね。と言っても、貴方には物足りないかも知れないけど」
「別にソロがあったりメインなわけではないんでしょう?」
「勿論そうよ。それなりに名前の通った奏者をお客様は聞きにくるのだから。黒沢君の番はもっと先の話ね」
「ちょっとホッとしたようなガッカリしたような」
「それだけ言えるなら十分よ。そう、うちの弟の後ろもやってもらうから」
「康臣さんのですか」
 途端に、心臓が跳ね上がった。楡原康臣のバックで演奏をするなどと、少なくともこの街で咲に出会った頃には夢にも思わなかった。何しろ、日常的にCDから音楽を聴いている対象でしかなかったのだ。
「それは、心します」
「固くならなくていいのよ。それじゃ、解らない事があったら、秋乃に連絡して。過不足もあの子に言えば大抵は事足りる筈よ」
「そうだ、1ついいですか」
「何?」
「彼女を招待したいんすよ。いや、出来れば家族も」
「ご家族皆さんと、彼女さん? 素敵な事だわ。お揃いなら5人ね?」
「はい」
「いい席を空けておくわ」
「あ、有り難う御座います」
「このぐらいは当然よ。無理を言いだしたのは私なのだから。じゃ、秋乃に手配させておくから、当日ね」
 慌ただしげに、薫子はそれで電話を切った。なんとなく、虚空を眺めて溜息を吐いてしまう。
「どうだった」
「おお、楡原康臣の話ってしたことありますよね」
「うん、壱の好きなジャズピアノの人だろ。CDも影響されていくつか買ったよ」
「その人の後ろでやるって」
「マジか」
「やばいっすわ、超高まってきた」
「益々素敵な話だなあ。頑張りたまえよ君」
「イエッサ」
 ベンチに座り直し、手元のサックスをまじまじと眺める。これを使って、プロと同じステージに上がるのだ。恐ろしいような気持ちと、捨て鉢に近いような高揚した気分がない交ぜになって、また1つ溜息として出ていく。
 不意に、頬に咲の手が触れた。彼女の表情は、何か慈しむような、見守るような、暖かなもので、こみ上げそうになるものをぐっと堪える。
「やりきって見せますよ」
「それでこそあたいの壱だ」
「席もいい所取ってくれたみたいっす。ちょっと窮屈かも知れませんけど、うちの家族と一緒に来てくれませんか」
「あ、え、その中にあたい入っていいのか?」
「勿論。つーか来て下さいよ。多分当日クソビビり野郎になってますから」
「はは、じゃ、気合い入れにいかんとだな」
「はい」
 頬に添えられたままだった手を取って、引き寄せて、なんとなく横抱きにすると、咲はちょっと身を捩って収まりよくなってくれる。
「すげえな心音」
「でしょ。話だけでこれですよ。しかも来週」
「私がついてるぞ」
「うわあ泣きそう」
「早い早い」
 頭を小突かれて、笑いあって、またいくつか曲を披露して、その日は日暮れに別れた。
 家には、30ページ程の紙束が、届いていた。

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