compound bow


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 冬を迎えて、ようやく吹奏楽部も落ち着いてきた。
 コンクールの結果は大きな賞にこそ結びつかなかったものの悪いものでは決してなく、学内での地位向上という面だけでみても十分なものを得ることができた。何より、その内容に対して壱はここ暫く感じていなかった充足感を味わう事が出来た。
 そして、秋の学園祭においても、同じものを披露し、喝采を受け取った。たった5人での再出発というのも、学生達に対して訴えかけるものがあったものか、普段あまり言葉を交わさないような生徒にまで声をかけられて誉められたものである。環境の方から、吹奏楽部に対して、良い影響を作り出すようになっている。
 年内にはもう大きな大会も無く、今は適当に楽譜を拾い集めては演奏をしたりする程度の部活内容ではあったが、ただ楽器に携わっているだけでも、壱はもとより部員達にとっても充実したものはあるようだ。
「先輩、あたし次あたり違う楽器やっちゃおうかなって」
「ほう、希望はあるのかい」
「うーん……サックスで先輩解らせるのもいいんすけど、ここは敢えてクラリネットとか」
「サックスでこの俺を凌ぐ事は許さんが、そうかクラリネットを」
「なんでもいいっちゃいいんですけどねー。鶴岡先輩はどう思います?」
「……別に、好きなのを、やったら?」
「冷たい!」
「いや、お鶴さんのあれは至極真面目に考えてくれた結果だと思うぞ」
「そうね」
「ははー」
「咲ちゃんホント器用だしね。チューバやる?」
「チューバかっけーんですけど、あたしが持ち運べるかどうかという大きな問題があります」
「遠回しに私をパワーキャラ扱いしてない?」
「してないっすよう?」
「管楽器ならなんでも、って感じなのかな咲ちゃんは?」
「ってわけでもないんすけどね。折角の吹奏楽部ですから」
 言葉通り、咲は打楽器も触れたり、いくつかの曲が演奏できる程度にはピアノを嗜んでいたもする。器用というより単純にハイスペックなのだ。
「強いて苦手を言うなら歌とか」
「あら、意外……でもないか。鶴岡も歌嫌いだもんね」
「……」
 大きく頷く可奈子である。歌が苦手というよりも、大きな声を出し続ける事が単純に体力的な理由で辛いのかも知れない。フルートでなら問題なくいくらでも吹いていられるのだが、その辺りもテクニックである。
「歌ならわたし頑張れるのになあ」
「じゃ、若菜には年明けのコンクールで歌わせよう」
「ひどい!」
「でも声楽って事になるとそんなに簡単なものでもないですからね。カラオケ上手なのと、声楽に携わってるのとじゃ、全然違うらしいっす」
「そうなんだ?」
「うちのお姉ちゃんは音楽理論で音大行きましたけど、なんか……すごい難しい事言ってました」
 声楽、というものに話題が移り、壱は尊敬する先輩の顔を思い浮かべた。忘れていたわけではないが、夏に赦されて以来、1度も連絡を取っていないことが引っかかってはいる。
 彼女の方から、心情を吐露されて、しかしそれに明確な返事をせずに戻ってきてしまっていた。
 結局の所、鶴岡可奈子はコンクールを挟んで楡原薫子の手によって戸籍を移動する事となり、今は書類の上では来須という姓へ変わっている。だから、というわけではないが、それほど可奈子と極端な接触をする事も無くなり、また必要以上に自分から近づく事は可奈子に対して引け目を作らせかねないという判断から、今までと関係性に変化は起きていない。
 強いて言えば可奈子に遠慮が無くなった事くらいは、喜ばしい。彼女も薫子の目に留まっていた事もあって、今後頼りにされるであろう事を考えれば、望むところですらある。
 コンクールの結果やその他相談した内容について、桐田咲へ報告するべきだろうと考え始めたのは、自分の体が本当に空いてしまったからだというのもあるが、単に彼女の声を聞きたいと、熾き火が細い煙を上げるように思い始めたからだ。元々、壱は恋愛感情も含めた上で咲が好きなのである。それは吹奏楽部の誰に向ける「好き」という感情とも違っていて、何か濃く分厚いもののようにして厳然と存在していた。
「先輩もカラオケいきましょーよ」
「あ、黒沢君の歌って聞いた事ないね。聞いてみたいなわたし」
「確かに興味あるわ」
「あ、何カラオケ行く話になってんの?」
「そうっす、連休近いですし」
「そんなガッツリ行くの!?」
「鶴岡は?」
「私も、歌は。でも、黒沢君が歌うのは、面白そうね」
「だ、そうだよ黒沢君」
「歌なら今だって歌ってやるぜ?」
 流暢なドイツ語で喜びの歌の出だしを歌うと、全員が真顔になった。
「ドイツ語は凄いのに歌は普通だ」
「やめて咲ちゃん、結構傷つく」
 それからも誘われたりはしたが、自分に踏ん切りをつけるためとして、壱は今回はという条件つきで誘いをパスした。
 結局、冬休みまではいくらか間はある、肌を冷たい風が刺すようになってきた11月の連休を利用して、壱は実家に一度戻る事にした。今回は不意の帰省ではなく連絡を入れておいたので、兄の拓が駅まで車を回してくれていた。
 拓は隻眼だが、これで運転は上手い。近所を回る程度なら並の運転手よりすいすいと進む。
「悪いね」
「いや、買い物ついでだしな。肉と白菜の鍋」
「あ、いいね。1人で暮らしてると鍋なんか本当に縁無いし」
「だろうな。で、今回はなんで帰ってきたんだ?」
 隻眼である都合、いくらかオーバーに体を動かしての左右確認をしながら、拓は言った。今は何の心配も無いと、折りに触れて伝えてあるので、かつてのような探り出すかの如き口調ではなく、雑談らしい柔らかさである。
「うん、その、桐田先輩に会いたくなって」
「……なんか、本当に変わったな、お前」
「なんで」
「いや、そういう率直さって、元々持ってたものなのかな。いい経験したな壱」
「皆のお陰だよ」
「そう思える所がさ」
 嬉しそうに笑う拓の横顔を見て、壱もどことなく嬉しくなる。
「付き合うのか?」
「どうだろ」
「いいと思うな。俺は好きになれそうにない女だったけど」
「え、そうなの?」
 意外な事を聞くものだった。拓が人の好悪を口にするのも、ましてその対象が桐田咲であることもだ。
「いや、だからってお前が気後れなんかしなくていいんだからな、勿論。単に俺に似てるような気がしてさ」
「あー……」
「わかるだろ、なんとなく」
「多少は」
 咲の頭の良さと、拓の頭の良さは、また別種のものだとは思うが、人に対するスタンスや物の考え方などは、近いところはあるかも知れない。確かに妹の翠と出会えば楽しく喋るところは想像できるし、父母に対した時にどんな応対をするかも目に見えるようではあるが、拓とだけは馬が合わないかも知れない。
「まあ気にしないけどね!」
「それでいいさ。俺のは勝手なグチだ」
 そんな話をしているうちに、実家へ。車を停め、いくつかの荷物を手分けして運び、勝手口から母屋へ。
「あら、お帰り。勝手口からなんてやめなさい壱」
「ごめん、ただいま。近いからついね」
「お、なんだ壱帰ってきたのか?」
「お帰りにーにーず」
 口々に出迎える家族に笑い返し、一度表玄関へ回って靴を脱ぐ。
 夕食までまだ少し待てとの事だったので、壱は自室に入って小さな自分の手荷物を広げた。
 携帯電話を取り出し、どう切り出そうか考えて、それから何も身構える必要などもう無いのだと思い、コール。4つ、5つと電子音が続き、諦めようかと思った6つ目の半ばで繋がった。
「もしもし」
「あ、どうも咲さん」
「やあ、あれっきりじゃないの。冷たいやつだ」
「すいません、色々立て込んでて」
「ってことは、もういいのかな?」
 流石に打てば響くと言うべきか、咲にはあまり多くを語る必要が無い。こういう所も、拓が自分に似ていると表する所以だろう。
「ええ。お礼がてら、飯でも食いに行きませんか、明日」
「ん、こっち帰ってきてるの?」
「ついさっき」
「……そっか。うん、会いたいよ」
 率直な台詞が照れくさいのは、意味の裏を取る必要が無いだけに心に伝わるからなのだろうか。咲の言葉は、言葉にしがたい程に、嬉しい。
「ええ。俺も、会いたくなって」
「ふふん、可愛いな本当に。明日ね、大丈夫。全然大丈夫」
「有り難う御座います。時間どうします?」
「じゃ、お昼からどうよ? 美味しいパスタ食わせてくれる所があるから」
「いいですね、じゃ、そこ連れてって下さい」
「ん。駅の近くだから、駅に……12時だと混んじゃうから11時半にしよっか」
「その方がいいでしょうね」
「それじゃ、明日な」
「はい、それじゃ」
「あ、ええと」
「はい?」
 咲にしては珍しく言い淀むのが、離しかけた携帯電話から聞こえてくる。
「うーん……いいや、寝付きのために聞いておこう。期待してもいいんだよね?」
 一瞬言葉に詰まったが、壱は1度頷いた。頷いてから、声を出す。
「俺も同様です。会ってもらえるわけだし」
「しまった、逆に寝れなくなりそうだ」
「はっはっは」
「笑うな笑うな。そんじゃな」
 それで、通話は終了となった。顔が暑い。窓を開けて、冷たい風の舞う、遠目に見える山と紺色の空を、少しだけ眺めていた。



 実家で、しかも休日ということもあり、壱は普段よりいくらか寝過ごしながら朝を迎えた。デートを控えて緊張して眠れない、などとなる程咲に対しては身構えていないが、流石に心は弾む。
 朝食は軽めのものをつまみ、昼はいらないと母に伝えて、余裕をもって壱は外へ出た。風が昨晩から出ていて微かに手足を襲う。駅までは、歩いて10分かからない程度の距離だ。時間は11時を少し回る頃で、今からならぼうっと立ち尽くしていられるだろうと思う。
 だが、いつも先回りをするのが彼女だった、と壱は思い返した。バスロータリーの隅にあるモニュメント時計の元、豊かな胸の下で腕を組むのは紛れもなく桐田咲その人であった。グレーのジャケットにインナーはブルーのシャツ。オフホワイトのミニスカートに黒いタイツ。ロングブーツはまだ秋仕様のブラウンで、大人しいまとまりである。こうして公衆の面前にいると、小柄な事もあって意外な程目立たない印象なのだが、中身を知っているだけにそんなギャップが少しだけおかしかった。
 考え、思い直し、小走りに咲の傍まで近づく。途中でこちらに気付いた咲が、ちょっと困ったように笑った。
「おはよ」
「おはようございます」
「なんかね、もう、何も言う事無いね」
「そう思います」
「さて、折角早く行動開始になったんだ、とりあえずお店行ってみようか」
「はい」
 自然に並び、自然に咲は壱の手を握ってきた。一瞬だけ驚きかけたが、これが桐田咲だったと思うと、握り返す力も緩く入る。
「そうだ、何よりも先に言わないといけなかった。咲さん、ありがとうございました」
「ん……おお、そうか。アドバイザーだったね私は」
「大丈夫か」
「問題ない」
「俺の感動とか落ちた鱗はどこへ行けばいいんだ」
「焼いて食えそんなもの。動いたのは自分だろ?」
「そうですね。咲さんならそう言うと思いました。けどまあ、1度だけ」
「受け取った」
「はい」
 壱を見上げ、咲が微笑んだ。この笑顔を、1度は握りつぶしかけたのだと思い、それを見透かしたように、咲の手がぎゅっと握り込められた。

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