まだまだ たましいのおもさ
くるくる回るレースの日傘を見るに、随分と気に入ったのだという事がよく解る。
残暑厳しい、8月も終盤。日傘を差したアリッサと、朝親はレコードを仕入れに駅前まで出ていた。あまり大きくない駅ビル内の楽器店と併設されているレコードショップには、中々に古臭い代物も多くて気に入っている。アリッサは陳列棚の前で朝親が固まるのであまり好きではない様子だが、それでも一目ぼれをした日傘を手にしたこの日は、終始機嫌が良かった。
「ミス、あまり人の多いところではそう回さないで下さいよ」
「わかってる」
一切止まる気配の無いレース柄から「わかってない」という返事を貰ったが、ともあれ笑顔が喜びで染まっているのでそれ以上は言わない事にした。
駅前国道から市外へ入り、エメラルドへ。
「チカ、水遣りは?」
「いえ、まだですが」
「じゃあわたしがやってあげる」
言うが早いか、アリッサは如雨露を持って外へ駆け出していく。珍しい、と思ったが、日傘も一緒に持って出て行ったので、成る程その為かと口元が緩んだ。
昼は外食で済ませ、この日は正午から開店の日だった。変則的なタイムテーブルは朝親の意思としてあまり好ましくないのだが、流石に私生活に関わる部分を押してまで喫茶店をやるわけにはいかないし、アリッサの相手をするのも大切な事なので、こうした休み方も必要となっている。
アルバイトを雇ってはどうか、という意見を両親から最近頓に聞かされていた。最初はそれもどうかと思っていたのだが、流石にこう忙しさの余りに嬉しい悲鳴ばかりが出ているのでは、必要なのかも知れないとも考えている。
窓の外では、プランターに並ぶ昼顔がアリッサの撒く水に礼を言うかのように葉にしたたる雫から光を照り返し、アリッサもまたそれを受けて日傘を器用にくるくるしながら全てのプランターを回る。
「ご機嫌ですね」
「うん」
「気に入ってもらえたようで何よりですよ」
「大事にするわ。チカからのプレゼントだもの。昔貰った、小さなおもちゃの指輪だって大事に取ってあるのよ」
「それは嬉しい」
アリッサが、自分の「たからばこ」に色々な物を溜め込んでいるのは知っていたが、あんな物まであるのかと少し驚きながらも言葉通りに喜びが胸を占める。そういえば、休みの日にたからばこを開けては、中の物を丁寧に手入れしているのを、何度か見かけた事を思い出した。
「そういえば、ミス」
「なに?」
「アルバイトを雇ってはどうかと、両親が言うんですが、貴女はどう思います?」
「アルバイト? どんな人?」
水遣りの手をぴたりと止めて、アリッサは食いかかる様な口調になった。本人は気付いていないようだが、多少不機嫌になりつつあるらしい。
慎重に言葉を選びながら、朝親は続ける。
「いえ、まだ募集もかけてませんよ。あくまで、僕が両親にそう言われているだけの事で。最近、お客さんも増えましたし」
「ふぅん」
「どうです?」
「チカが大変なら、そうすれば?」
「また、にべもない」
「わたしには関係ないもの」
「そんな事は。むしろ、だからこそ貴女にこうして相談しているわけでして」
「だから、チカが必要だと思うのなら、そうしたらいいのよ」
ほぼ完全にヘソを曲げてしまったらしいアリッサは、ふんだ、などと言いながら如雨露を乱暴に空にして、さっさと店内へ戻ってしまった。少女の心は難しいものである。
「朝親君、痴話喧嘩かい」
「や、これはお恥ずかしい」
「女性というのは、難しいねえ」
「正しくそう痛感しておりました」
通りがかった、エメラルドによく来る顔見知りの老紳士に茶化されて頭を掻きながら、とりあえず店を開けなければと思い、朝親も彼女に続いた。
アスファルトが跳ね返す熱気は相当なもので、流石に汗をかいた朝親は一旦着替えに住居へ戻った。シャワーを急いで浴び、クリーニングから戻って来たばかりのワイシャツに着替える。スラックスも折角なので新品に履き替えて、髪型を整えると再び店舗へ。
丁度、客が入って来た。女性ばかりの3人組。エメラルドでは、その間取り上5人以上の客が同席するのは難しい為、かなりの「団体客」と言って良い。殆ど1人で回している店だけに手狭な事を嘆きはしないが、こう同時注文は重なると、流石に忙しさを感じずにはいられない。
「ようこそ」
声をかけてテーブル席へ案内し、手荷物の類をワゴンを引いてそちらに預けさせながら手拭を用意。アリッサが状況に気付いたらしく、素早く店内へ入ってくると、水をトレーで運んでくれた。ありがとう、と女性客達の礼を受けて、恭しくアリッサは頭を下げつつメニューを置いてテーブルを離れる。
如何に不機嫌でも、こういう手伝いは別物として割り切れる、年齢不相応なアリッサの精神を見上げるような気持ちになりながら、注文が来るのを待った。
「すみません」
「はい、お決まりですか?」
それぞれがブレンドを注文してくれたので、まだ楽に済むと思いながら、カウンターへ戻る。これがバラバラな上にフロートなど注文されようものなら、またも嬉しい悲鳴が出てしまう所だ。
珈琲の準備をしていると、アリッサがエプロンを付けてカウンターに入ってきた。ドリップポットの準備を、何も言わずにこなしていく。次いで豆の計量を終え、再び住居へ消えていった。助かる事は助かるのだが、こうも風の様に現れて風の様に去られては、労いの言葉もかけ辛い。
仕方ない、と思いながら、彼女の準備してくれたものをそのまま使い、3杯のブレンドを入れ、テーブルへ。
「お待たせしました」
「あの」
「はい?」
テーブルから離れようとすると、控えめな声で引き止められた。3人組のうち、もっとも快活そうな女性である。
「何でしょう」
「アルバイトとかって、募集されてないんですか?」
「アルバイト、ですか?」
如何にもタイムリーな話題にちょっと驚いていると、女性は続ける。
「はい、あの、結構前から私達ここにお邪魔してるんですけど、雰囲気とか珈琲の味とか凄く良くて。それで、こんな所で働けたら素敵だなと思ったんです。見た所、マスターお1人で回しているみたいですし、ひょっとしたら募集してるんじゃないかなと思って」
ハキハキと、人に好印象を与える仕草と口調で語る女性には好印象を抱くのだが、ふと気になって朝親はカウンターに目をやった。
「……」
「……」
住居側から様子を伺っていたアリッサと目が合う。
合うと同時に、彼女は肩を竦め、顔を真横に向けた。
「どうですか? 私楠大なので、通勤費なんかも定期があるのでかかりませんし」
「成る程」
1つ頷いて、改めて女性客を見る。
所謂フロアスタッフをさせるのに、この快活さは必要十分と言えた。声をかける度胸もあれば、物事をキチンと話せるコミュニケーション能力も備えている。誰もが持っているようで欠けていたり、足りなかったりするものだが、この女性にはそれがしっかりと備わっていると言えた。
「あ、募集されてないんでしたら、結構なんです。勝手な事を言いまして」
「いえ、とんでもない。お店も褒めて頂きまして」
ちょっと笑って返すと、女性も照れたように笑う。他の2人も、釣られて倣う。
アルバイトは、確かに必要だろうとは思う。経理上、1人を雇うぐらいは可能だし、むしろそれによって回転率が上がるのならばより良い店作りにも繋がるだろう。
だが、と思って、再びカウンターを見た。既にアリッサは住居へ消えたのか、その姿は無い。
「今回は、お気持ちだけ、という事で」
「あ……やっぱりそうですか」
「いえ、そろそろお手伝いをして下さる方は必要かなと思ってはいたのですけどね。出来る限り自分でやりたいと思うのが、珈琲にかまけすぎる私の意地と申しますか」
苦笑いをして見せると、3人組も食い下がるつもりは無かったのか、揃って笑う。
「そう遠くないうちに、別の形で募集はするかも知れませんけどね。申し訳ありませんが」
「いえ、そんな。お話を聞いてもらえただけでも、ねえ?」
頭を下げる朝親に慌てながら、周りに話を振る女性。相槌をうつ2人を確認して、女性客はこちらこそ突拍子も無い事を、と頭を下げた。
それから30分程談笑をし、珈琲を飲み終えた楠大生一行は、また来ますと言い残して出て行った。
それを待っていたかのように、アリッサが店舗内へ入ってくる。
「どうして断ったの? 必要だったんじゃないの、アルバイト」
「いや、優秀なウェイトレスであり、優秀なキッチンスタッフである貴女が居るのでね」
無言で仕事をこなしてくれたのは、彼女なりの意思表示なのだと理解したのである。
あんな新人を使うくらいなら、自分が居る。
そういう遠まわしな表現を、アリッサがするというのには驚いたが、正しくそれなのだった。証拠に、朝親の言葉にふぅと大きな大きな溜息をついて見せてから、アリッサは両手を腰にやってやれやれと首を振る。
「気付くのが遅いのよ、チカは」
「誠に」
「でも、アルバイトはいずれ雇った方が良いと思うわ。わたしだって学校があるもの」
「貴女が居ない間は僕が、居る間は2人で、というのはどうですか」
彼女の前にしゃがんで手を取って言うと、アリッサは日傘を差していた時のような、正に太陽が出てきたかの如く、微笑んで、首に腕を巻きつける。
「だからチカが好きよ、わたし」
「はは」
「そうよ。夫婦でやるんだもの。大丈夫、わたしだってすぐに大きくなるから、毎日一緒に居てあげるわ」
笑いながらそう彼女が言うのと同時に、新たな客が入ってくる。
「ようこそ」
朝親よりも早くそう言って、アリッサは客をカウンターへ案内した。成る程、アルバイトはやはり必要無いかも知れない、と思いながら、朝親はエプロンを締め直して、メニューを取りに向かった。
この日、アリッサが居る間はアルバイトを雇うまいと、朝親は誓ったのである。
その誓いが破られるのは、これから40年も過ぎた頃の事だ。
[END]