引き続き たましいのおもさ



 ここ暫くの売り上げや商品の推移纏めが終わり、ぐっと背伸びをした。目と二の腕が随分と重苦しい。
 有り難い事に今月も黒字を迎える事が出来た喫茶店エメラルドである。別段何かへの信仰心は無いのだが、古ぼけてきた家計簿に、朝親はなんとなく両手を合わせてみた。
 夏休み中盤を迎え、アリッサは学校のプールへよく友人と連れ立って泳ぎに行くようになった。朝登校し、放課後は殆ど寄り道もせず真っ直ぐ帰ってくる事が多かった頃の彼女からすれば、随分と闊達になったものだと思う。勿論それまでも沢山の来店客はアリッサの闊達さを知っているが、どちらかというとそれは営業的なものなのだという事を、この夏に朝親はとくと思い知らされたのは記憶に新しい。「そうあるべき彼女」と、「彼女の自我」のせめぎ合いは、朝親に色々と考えさせたものだった。
 時計を見ると、午後2時を回っている。もうそろそろ帰ってくる事だろうと思い、お腹を空かせているに違いない彼女のために、簡単な食事の用意を始めた。
 夏場といえば、アリッサはビシソワーズをよく食べたがる。言ってしまえば冷たいジャガイモのポタージュなのだが、彼女は「食事と喉の渇きが同時に潤せる至高の料理だ」と言って憚らない。何か違う気はするのだが、それでも喜ぶので、朝親は準備を進める。
 ジャガイモをいちょう切りにし、玉ねぎはみじん切りに。鍋にバターを溶かし、玉ねぎがしんなりするまで炒める。そこへジャガイモを加え、更にさっと炒めた。コンソメ、水を入れ、塩胡椒で味付け。
 荒熱をとりミキサーにかけてボウルに移し、作っておいた氷水で冷やす。スープだというのに冷やす、という行為が、料理をする人間からすれば中々に新鮮で面白い。冷蔵庫から牛乳を取り出して注いで軽くかき回し、受け皿へ。
 スープの受け皿は見た目にも涼しい透明なガラスのディッシュ。それを氷を敷き詰めた、同じく透明な器に乗せることで、温度が迂闊に温くならないよう心がける。料理も珈琲も、基本は相手を思ってやる事だ、というのが朝親の哲学だった。
「ただいま!」
 そこへ、アリッサ大きな声が玄関から聞こえた。それから、慌てたように靴を脱ぐ音が鳴り、次いで廊下を小走りに駆けてくる足音。水泳用具の入ったバッグを放り投げながら、台所へ駆け込んでくる。
「お帰りなさい」
「ただいま、チカ」
 匂いに気付いたのか、朝親のエプロンを掴みながら背伸び気味にその手元を覗くと、アリッサはパッと顔を輝かせる。
「ビシソワーズ!」
「ええ。お腹は空いてます?」
「うん、もうぺこぺこ」
「じゃ、荷物を洗濯に出して、シャワーでも浴びてきたらどうですか? もう出来ますから」
「わかった!」
 行きと同じく小走りにバスルームへ向かう後姿をちょっと嗜めようと思ったのだが、ああもビシソワーズだけで満面の笑顔を見せられてしまうと弱い。この所、母のサラもが朝親はアリッサに対して甘すぎる、と叱るのだった。
「チカー!」
「はーい?」
「髪ー!」
 アリッサもこの年代の少女としては随分と朝親に甘える事が多い。お前が甘いから甘え上手になるんだ、というのは父朝幸の台詞だが、確かにその通りかも知れないとは思いつつ、しかし岡野朝親はミス・ノールの言いなりだった。
 ビシソワーズにラップをして冷蔵庫に入れ、手を洗ってからバスルームへ。頭の上にタオルを乗せ、インナーキャミソールだけのまま、まだ湿った髪の毛先を気にしながら待っていたらしいアリッサの後ろに立つ。彼女の腕や技術では、キチンと全体を乾かすのに多大な時間を要してしまうのである。
「そろそろ、切ろうかしら」
「切ってしまいますか?」
「長いほうがチカは好き?」
「いや、そういう意味ではないんですけどね。長い髪が好きだと言っていたでしょう」
「ママがそうだったから。で、チカはどっちがいい?」
 どちらも好みですよと答えて、呆れたように溜息を吐くアリッサに苦笑いを返しながら、ドライヤーを取り出してスイッチ。傷めないよう、なるべく距離を取って髪の中腹から乾かしていく。
「どうでしたか、今日は?」
「ちょっとした、レースみたいな事をしてたわ」
「へえ、参加を?」
「ううん、わたしはあんまり速くは泳げないから。なにか、コツみたいなものってあるのかしら?」
「うーん……僕も運動全般はそんなに得意ではないので、何とも」
「チカはインドア派だものねぇ」
「なんだか随分傷ついたような気がしますが」
「だって、折角外へ行ってもベンチにいるじゃない。ひどいときは本まで読むし。遊園地で読書をする人なんて初めて見たわ。暗いから止めた方がいいわよ?」
 ざくざくと辛らつな台詞を並べ立てる彼女には、やはり苦笑しか出て来ない。
 なんとか時間を作って、アリッサの希望だった遊園地へ行ったのはつい先週の事だった。そこで、強烈な乗り物酔いを経験した朝親は、乗り物券を半分近く残した状態でベンチへダウンしたのである。アリッサも朝親の青ざめた顔を見て心底心配そうにしていたのが申し訳ない記憶だった。
 結局、アリッサは1人でアトラクションを楽しみ、朝親はその都度近くのベンチへ移動しながら、鞄に入れっぱなしだった本を読み進めていたのである。
「……まあ、向き不向きという物がありましてね?」
「チカのは鍛えられるわ」
「け、結構です」
「観覧車にぐらい乗れるようになるべきよ」
「それも、中々……」
 ちなみに高い所も苦手だ。
 アリッサは溜息。
「こんなにおっきな体なのに、わたしよりか弱いのはどうして?」
「僕も不思議でなりません」
「もう」
 またも呆れた、という様子で肩を竦めるアリッサの髪に手を入れて、湿ったままになっている箇所が無いかどうかを確かめる。問題無さそうだと判断してドライヤーのスイッチを切ると、アリッサがいつの間にか手にしていたブラシを受け取った。
「手先の器用さには自信あるんですけどね」
「それは認めるわ。大きな手で、よくあんなにキレイな料理を作るものだといつも感心してるのよ」
「綺麗な料理というのも妙な表現ですけど」
「そう? チカの料理はキレイよ。盛り付けとか、そういうのとは違って、美味しそう、っていうのがすごくよく解るの」
「成る程」
「だからお客さんも美味しそうに食べるわ。わたしはチカよりお客さんを見てるから、よくわかる」
 アリッサが、言葉通り客をよく見ているのだという事に気付くまで、朝親は随分時間がかかったものである。例えば水が足りない、珈琲の差し替えが欲しい、といったものを、心でも読んでいるのではないかと思う程的確に見極めて、客に勧めるのである。
 或いはそれは、アリッサが笑顔と共に「お代わりはいかが?」と問えば誰も断りきれないというだけの事かも知れないが、ともあれ彼女のウェイトレスぶりは評判が良く、顔見知りの客も随分と増えたのだった。
 ブラシを通し終え、髪にクセをつけないよう肩の辺りから払ってやると、アリッサは嬉しそうに微笑んで有難う、と言った。お気に入りの、シモネッタのスカートとシャツに身を包んだ彼女と、揃ってリビングへ。
 テーブルに付くアリッサの前にビシソワーズとロールパン、ざっとあつらえたサラダを出してやる。真っ白なスープの真ん中に振り撒いておいたパセリが鮮やかで、喜び勇みながらいただきます、と言ってから、アリッサはスープを一口。
「美味しい!」
「有難う御座います」
 何よりも解り易い笑顔と感嘆に満足し、朝親もまたスープへスプーンを入れた。味の加減はアリッサ好みのやや濃い味になっているが、ビシソワーズ本来の冷たさがそれを感じさせず、次々と腹に入る。
 ロールパンをちぎり、ジャムを塗りながら、アリッサはふと顔を上げて問う。
「やっぱり料理にも、コツとかあるのよね?」
「それなら、説明出来ると思いますよ」
「例えば、どんなコツ?」
「簡単な事ですよ。気持ち、心です」
「……ちっとも簡単じゃないわ」
「そうですか? ああ、じゃあ愛情という表現はどうでしょう。料理は愛情、とはよく言ったものでしてね」
 美味しく作りたいという思いは、美味しい料理を食べて欲しいという気持ちから来る。美味しく入れたいという思いは、美味しい珈琲を飲んで欲しいという気持ちから来るのだ。
 そう説明すると、アリッサは大きな目をぱちくりさせて、じっと手元のスープを見詰める。
「心」
「お客様に、まさか大して美味しくもない料理や飲み物を出したいとは思わないでしょう」
「なるほど」
「それが貴女なら、尚更愛情は篭る、というわけで」
 美味しくどうぞ、と言うと、アリッサは一瞬だけぼんやりし、それからかっと頬を真っ赤にして見せた。年齢相応の、少女らしい反応に、頬が緩む。それをまた、アリッサが照れ臭そうに咎めて、朝親はちょっと頭を下げるのだった。
「……」
「どうぞ」
 その隙にサラダから除けられた彼女のディッシュへトマトを戻すと、アリッサはなんとも言えない顔になった。あなどれない子になったものだと、朝親は内心彼女の母に報告するような気持ちで、苦笑いをした。
 後日、アリッサは珈琲を入れてみたい、と言い出すのだが、それはまた別の話となる。

[END]