引き続き たましいのおもさ
「チカ、これは?」
「いやそれは、なかなか入手困難で」
「じゃあこっち」
「あ、それも実はレアリティが非常に高い代物でしてね」
「……もう、片付かないじゃない」
定休日、暫く時間がとれずにサボっていた家の掃除を始めた。ついつい物を溜め込む癖のある朝親の自室は、アンティーク趣味も相俟ってちょっとした物置小屋のような様相を呈している。中でも多いのはレコードで、廃盤から海賊版まで幅広く揃っていた。これらを失うのは、朝親にとって死刑に等しい。
だがアリッサからすればちょっとボロボロの紙に挟まったペラペラの古臭い円盤にしか見えないので、先ほどから捨てる捨てないの問答が続いている。
「チカは何でもとっておきすぎなのよ。捨てる勇気も必要でしょ」
「それは重々承知しているんですけどねぇ……」
「なのに、また新しいものも買うし。いつか抜けちゃうわよ、この床」
「怖いこと言わないで下さい」
ひとまず家具の類――これも、朝親は好んで古い物を買ってくる――を動かしながら、溜まった埃を掻き出し、拭いていく作業に入った。掃除機だけで済ませたい所だが、フローリングもたまには磨いてやらないと傷みが激しくなってしまう。
アリッサは家具移動の際に中身を出し、隣の部屋へ運ぶという役割である。その時、捨てられそうな物は捨ててしまおうと言い出したのは朝親なので、自分の仕事に誇りを持ってやっているアリッサからすれば甚だ不愉快なのだ。とはいえ、自分の持ち物に拘ったり、他人からすれば首を捻る程の愛情を傾けたりするのが朝親の癖であることをよく知っているアリッサは、仕方ないわねと言いつつも丁寧に手入れをしてくれる。
「う」
出窓に丁度繋がるような高さのチェストを動かした所で、朝親は妙な声を上げてしまった。
「どうしたの?」
「いえ、それはもう巨大な蜘蛛が……」
「どんな?」
朝親の脇の下からひょっこりと顔を出すや、アリッサは大きな大きなため息を吐いた。
「チカ。これはね、アシダカグモっていうの。確かに大きいけれど、チカにとっては益虫なのよ」
「え、益虫?」
「うん。台所に、時々出るでしょう? 黒いのが」
「アイツですか」
飲食業を営む朝親にとって、台所を我が物顔で縦横無尽に走り回り、時にその油っぽい体を見せつけては建築物の構造上の隙間にすら入っていく黒いアイツは、最強と言っても過言ではない正に怨敵である。そもそも虫が苦手な朝親にとって、その中でも特に嫌われる通称「G」は、百害あって百利マイナスと言えよう。
「そう。アイツが主食なの、アシダカグモ」
「……それは、また」
「追い出す? 追い出すなら、わたしがやってあげるけど」
「いや……どうなんでしょう。巣を張られたりすると、困りますし」
「巣は張らないわ。あととっても臆病だから、こうして姿を見るのも稀なのよ」
アシダカグモについて無闇に博識なアリッサを唖然と見つめると、彼女はぷうと膨れた。同時に、アシダカグモは静かに2人の視界から消えて行く。
「そんな顔されるなんて、心外だわ。教えてあげただけなのに」
「す、すみません。いや物知りだなと思っただけで」
「うそ」
「本当ですって」
「……ねえチカ?」
不意に膨らませていた頬を戻し一転、アリッサは見るものの腰を砕きそうな程の笑顔を作って朝親を見上げた。
まずい、と朝親は反射的に思ったが、今回は非が自分にあるので内心諦める事にする。つられた笑顔も微かに頬が引きつるのが解った。
「……なんでしょう、ミス・ノール」
「アリッサ、明神屋のクレープが食べたいなぁ。バナナにチョコレートがたくさんかかっててね、アイスをちょこんと乗せて、その上にカラフルなスプレーチョコレートが、ぱぁって散らばってるの。美味しそうでしょ?」
わざわざ一人称を名前にしてみたり身振り手振りを加えてみたりと小技を交えながら、アリッサは映画「ロリータ」の少女ロリータが如く朝親のシャツを摘んで小悪魔を演じて見せた。作中のようにやれ官能的だのという印象とはかけ離れているのだが、これはこれで朝親に譲らせるのには十分である。
「かしこまりました」
「だから好きよ、チカ」
「エリさんが生きてらしたら、僕はさぞ怒られたことでしょうね……」
「それも面白そうね」
クスクス笑って機嫌を直し、アリッサはチェストから書籍の類を胸に抱えて隣の部屋へ出て行った。
掃除を再開。家具をどかして埃を払い、雑巾で磨く。立ったり座ったりが多いだけに中々の重労働である。リビングではアリッサが家具内に仕舞ってあったものの手入れと剪定を行っており、よく出来た人材配置といえた。時間にして2時間程度だったが、それでも当初の予定通り私室――朝親やアリッサが個人的な物を置いてある部屋であり、ここに入らない場合は寝室へ移動となる――の掃除は目処が立った。
空腹を感じて時計を見やると、昼を少し過ぎた頃。アリッサもお腹が空いていただろうに、きちんと付き合ってくれる辺りは流石にと思う。
「ミス、少し遅くなりましたけど、お昼にしましょうか」
「……」
きっと何が食べたいだのという答えが返ってくると予想していただけに、返事が無い事に朝親はやや拍子抜けした。どうしたのかとリビングを覗いてみると、ソファに腰掛けて小さな紙切れを見詰めるアリッサの姿が目に入った。
「ミス・ノール?」
「……あっ、な、何?」
「何というか、何を見ていたんですか?」
「別にっ」
声に気付くと、アリッサは慌てて見ていた物を後ろ手に隠した。揃って苦笑い。
「いえ、何を見ていてもとやかく言うつもりは無いんですけどね」
「ん……うん」
「お昼にしましょう。何を食べます?」
「えと、じゃあ、BLTのTなし」
“Bacon,Lettuce,Tomato”のTなし、すなわちトマト抜きである。
「T少し、でよろしいですね」
「……わかった」
思ったより簡単に引き下がられたので、成る程アリッサも、彼女なりに後ろめたいものを感じているのだろう。見ていた物が何であったにせよ、勝手に中身を漁るような真似をしてしまったという事に、責任を感じてはいるらしい。
店へ降りてキッチンへ。BLTサンド程度の材料ならば、エメラルド内の冷蔵庫とキッチンを使う方が効率が良い。カウンター席の一番端はプライベート時のアリッサの指定席で、彼女はそこに腰掛けると朝親の作業を見守る体制に入った。
トーストをオーブンへ放り込み、微かな匂いと共に狐色に焼きあがるのを見届けながら、スライスしたレタスとアリッサの分は薄くしてあるトマトの準備。フライパンへ油を敷いて火にかけると同時にチンという間抜けなアナウンスが鳴り響き、マーガリンを塗りながらベーコンを軽く炒める。トースト、レタス、少量のマヨネーズ、ベーコンと乗せ、トマトで少し重石。もう片面もトーストで挟み込んだら、アリッサが食べやすいサイズにカットして出来上がりである。
「お待たせしました」
「いただきます」
小さく口を開いて、サクサクと音を立てながら食べるアリッサを眺めた。
この所、自発的に英語を勉強し始めている彼女は、小学生とは思えない程の語彙を見につけつつある。とは言え、幼少期を長く日本で過ごしすぎた為か文法がひどく苦手で、時折繋がらない文節だけで喋ろうとする事すらあった。
とはいえ流石は英国人といったところか、発音は見事なものである。会話力さえ身についてしまえば、後は見た目通りの印象を周囲に与える事だろう。
「勉強は、どうです?」
朝親の問いかけに少しだけ上目を遣ってから、アリッサは口の中の物を飲み込んで頷く。
「英語の?」
「はい」
「うん、楽しい。勉強をしてるとね、そういえばママがこんな事言ってたなっていうのをよく思い出すのよ」
「それは楽しいでしょうね。エリさんは、例えばどんな事を?」
少しばかり喉の渇きを覚え、朝親は珈琲を準備する。アリッサが自分も、と手を挙げた。
「えっとね……うん。What are your plans for the future?(貴女は将来何をしたい?)」
「それに何と?」
「I said I want to become a bride(お嫁さんになりたいって言ったわ)」
簡単な文法なら、キチンと発言出来る。逆に言えば、難しい文法になっても習得さえしてしまえばまともに喋れるという事だ。自発的に始めたものとはいえ、アリッサの頭の良さには舌を巻くような思いである。
「貴女なら、さぞかし綺麗なお嫁さんになるでしょうね」
「何言ってるの、そういうお嫁さんと結婚するのよチカは」
「楽しみにしています」
「いっつも話半分」
もう、とため息を吐いて、いつもなら朝親の苦笑いを見た所で終わるのだが、アリッサは急に明かりを消したような暗い顔を見せた。整った顔立ちが故に、表情の変化も著しい。
「どうしました。トマトが多すぎましたか?」
「ううん……」
「ではどうしてそんな顔を」
「ねえチカ」
言葉尻を遮り、アリッサはカウンターに乗り出した。ブルーの瞳が真っ直ぐに朝親を射抜いてくる。
「あの女の人、だれ?」
「は?」
「あの……本棚に、写真があったの。ごめんなさい、勝手に見て」
「写真」
はて、と首を傾げる。あの本棚に写真なんて入れてあっただろうか。
「女の人ですか」
「うん……この人」
観念したように視線を逸らして、アリッサはスカートのポケットから写真を取り出した。先ほど見ていた物だろうそれを受け取り、同時に朝親は納得。
学生時代の写真である。そこには、少し若い自分と当時同じ学部に居た女性が顔を寄せて写っていた。
「また懐かしい物が出てきましたねえ」
「懐かしい? 恋人じゃないの?」
「友人ですよ。恋人なら、そんな写真を本棚に入れっ放しになんてしません」
「そ、そうなの……」
「今頃は、誰かと結婚しているんじゃないでしょうか? 僕の友人も、もう随分沢山の人が結婚しましたし」
そう朝親が言うと、またアリッサは考え込むような顔をした。年齢に似合わず、物事をよくよく考える癖のある彼女は、案外学者肌なのかも知れないとふと思う。
「ねえチカ、チカは結婚したい?」
「……は?」
「わたしは結婚してみたい。してみたい、というか……したら、きっと凄く嬉しいと思う」
「まあ、そうでしょうけど」
「チカの友達は、皆結婚したりしてるんでしょう? チカも、そうしたいんじゃないかと思って」
ただ「結婚したいか」と聞かれても答えはノーなのだが、アリッサの持つ、いわば「結婚観」のような物の前でそれは口に出来ないような気がした。
「結婚は作業ではありませんから。早ければ良いという物ではないでしょう?」
「そうだけど……」
「As for now, I’m not going to get married」
「え……? チカ、今の、なんて?」
ヒアリングは苦手なアリッサである。
「頑張って勉強して下さい」
「ズルい! 教えてくれてもいいじゃない!」
「僕にそんな気を遣ってくださるなら、早く立派な大人になって下さい」
非難の声にそんな返しをすると、アリッサは少しだけ硬直して、それから意味を理解したらしく、笑った。
果たしてあと10年近くの結婚禁止を言い渡されている自分はどうなるのか。
火にかけっぱなしだった珈琲から焦げ臭いクレームが来るまで、そんなおかしな事を考えた。
[END]