たましいのおもさ 05
墓石の前で、アリッサはじっとしていた。
今まで、アリッサが来たいと言い出したことはなかった。朝親始め岡野一家も、アリッサに言い出せずにきていた。
土の下に、エリの遺体があるというわけではない。墓石も、ただの目印でしかない。だがアリッサは1人静かに、何を伺える様子も無い表情で、じっと立ち尽くしていた。
夏休みに入ってから、更にその数を増やしたセミの鳴き声があちこちから聞こえる。人工芝から微かに立ち上る熱気もあったが、朝親もまた黙ってアリッサの傍について待ち続けた。
「チカ」
「はい」
「ママに、会えたわ」
「……そうですか。それは、何より」
首だけで朝親を見上げて、アリッサは続ける。
「たくさん思い出したの。ママと一緒に居た頃のこと」
「例えば、どんな?」
「うん。ロンドンで、ママとダブルデッカーに乗ったこととか」
「ああ、あの2階建ての」
「あとは、ママの生まれた町に行ったこととか。1度でいいから、おじいちゃんとおばあちゃんに、会いたかったなって話をしたわ」
エリの両親は、早くに亡くなっているという話を聞いたことがあった。エリもまた、天涯孤独の身であっただけに、アリッサこそが最大の救いだったのだろうという事が容易に想像出来る。だからこそ結果、離婚をしてしまい、自分が死ぬことで娘にまで同じ思いをさせるとは想像もしていなかった筈だ。
「行きましょ、チカ」
朝親が思索に耽りそうになっている所に、アリッサからそんな声がかかった。
意外に思いながら、肩を竦めて見せる。
「もういいんですか?」
「うん。ママは、わたしの中に居るもの」
感慨深げに、何かを噛み締めるように、アリッサは瞼を閉じて自分の胸元に手のひらをそっと添えた。
「死んでなんて、いないわ。人は死なないの。わたしが憶えてる間は、ママはわたしの思い出の中に、生きてる。少しだけ、胸が重いけどね」
「そうですね。その通りです」
「1度知り合った誰かと、別れることなんて、ぜったいにないの。出会った誰かは、ずっと思い出に残るでしょ? それがわたしのママなら、消えたりなんてしない」
微笑み、アリッサはそう締めくくった。
思い出の中に生きている。
言ってしまえば、ありふれた台詞なのだろう。小説や映画で、使い古された台詞に過ぎない。芸術として挙げれば、誰もが陳腐と鼻で笑う。だがアリッサ・ノールという少女が、胸の内から大事そうに語ったその言葉は、どんな至言金言よりも、朝親の心を揺り動かした。たった9つの少女が、母の死を形として受け入れ、笑う。不憫だという感情は既に無く、ただただ気高い存在として、視界を滲ませた。
「……チカ? 泣いてるの?」
「あ、いえ、ちょっと」
「大きな体なのに、カッコ悪いわね」
「あはは、すみません、嬉しくて」
「嬉しくて?」
「立派なレディになったものです、ミス・ノール。エリさんも、手を叩いて喜んでるでしょうね」
「まだまだ。これから背も大きくなるし、もっとキレイになるわ」
「末恐ろしいことで」
朝親が目元を雑に拭うと、アリッサはその手を握ってきた。
堅く堅く握り締められていたのであろう指先が、真っ赤になっているのが、朝親の目に入った。
エリの墓参りの後、お決まりの散歩をという事で、公園に寄った。アリッサはこの公園を散歩するのが好きである。9歳ならもっと色々とやっても良さそうなのだが、彼女の感受性や価値観はこうした行為にこそ意味を見出すらしい。エリの方が、よっぽど雑多な趣味を持っていたりした。
朝親が木陰のベンチに腰掛けると、アリッサは花壇をじっくり観察したり、人工池を泳ぐカルガモを眺めたりと、優雅なひと時を過ごす。
聊か傾いてきた太陽がほんのりと空に赤みを持たせ、セミの鳴き声が徐々に静まってきていた。風も優しく出始めて、平穏を実感する。日頃の疲れもあってか、陽気の良さに少しばかり眠気を誘われ始めていた。
「チカ。眠いの?」
声に振り返ると、いつの間に背後に回っていたのか、アリッサが顔を覗き込んでいた。眠そうな顔をしていたのだろう、顔を見てアリッサは小さく噴出し、隣へ腰掛けた。
「いつも大変だものね」
「有り難い事ですよ」
「明日も、手伝ってあげるわ。ウェイトレスがいるでしょう?」
「ああ、それは僕だけじゃなく、お客さんも喜びそうですね」
「でしょ」
足をバタつかせながら、アリッサは嬉しそうに色々と語った。ひまわりを群生させている場所が綺麗だったとか、野良らしい猫がまとわり付いてきて困っただとか、散歩中の犬を触らせてもらっただとか、そんな平凡な事だ。
「チカも、一緒に来ればいいのに。いつも座ってばかりね」
「普段から立って仕事をしていますからね。どうしても」
「だから背が伸びるのかしら?」
ベンチから降りると手を伸ばし、アリッサは座ったままの朝親の頭の辺りに手の平をかざす。それでも背伸びをしなければならない程、朝親の身長は高い。
「まあ、これから嫌でも大きくはなりますよ」
「そうしたら、ママの服も着られるかしら」
「貴女はエリさんの娘ですからね。当然でしょう」
「楽しみだわ。ママはキレイな服をたくさん持ってるから」
「まあ、出来れば好き嫌い無くなんでも食べられることです。トマトもふくめて」
「……それは、考えとく」
「期待してます」
朝親が苦笑すると、アリッサは不貞腐れたような顔を作って見せ、それから同じように笑った。
「そろそろ、行きましょうか」
「うん。夜は何?」
「白身魚を使おうかと。カルシウムを取れば、それだけ身長も伸びますしね」
「じゃあ、頑張って食べるわ」
「では、美味しく作らないといけませんね」
並んで歩き出す。空の赤みが強い。
「あっ」
ふと、アリッサが足を止めた。正確には、朝親を腕ごと引き止めた。
「どうしました?」
「見て、チカ」
木の根元。セミが、足を丸めて転がっていた。アリッサは何の前動作もなくそれをそっと掴み上げ、手の平の器に乗せる。
「チカ、持ってみて」
「え」
「あ……虫、きらいなのよね」
しょうがないわね、などと言いながら、アリッサはちょっと微笑んだ。朝親としては、頭を掻くしかない。
「セミって、死んじゃうと、すっごく軽くなったような気がするの。知ってた?」
「そういえば、そうですね」
「きっとね。魂が、体からはなれたからよ。魂の分、軽くなってるの」
「……」
「わたしの胸が、今ちょっとだけ重いのは、ママの魂があるからなのよ。これが、ママの魂の重さなの。こんなに嬉しいことはないわ」
言って、アリッサはセミの亡骸を木の根元へ戻した。両手を払って、再び朝親の手を握る。
魂の重さ。
いつか、彼女の両肩にかかる重さを、軽くしてやれているのだろうかと考えたことがあった。だがそれが、どんなに無駄な気遣いなのか、思い知らされたような気になった。
重みは重みで、あれば良いのだ。当人が、それをきっと歓迎するから、重くても抱えて立ち続けられるのである。
今のアリッサは、そんな心の重さも含めて、大きく成長したのだと思えた。そう思うと、途端に朝親は嬉しくなった。
「アリッサ、お願いがあるんですが」
「なに?」
「抱き上げても良いですか?」
キョトンとするアリッサの前にしゃがみこみ、視線を合わせる。すると、彼女は笑って両手を差し出してくれた。
肩車である。190センチ近い朝親の更に上の視界は、アリッサに喜びの声を上げさせた。
「わぁ。ふふ、久しぶりね、チカ」
「もう嫌がられるかと思いまして」
「そんなことないわ。チカに肩車をしてもらうのは好きよ。ちょっと恥ずかしいのは、あるけどね」
流石に9歳にもなるとかなりの重さではあるのだが、朝親はそれも含めて喜びを噛み締めた。アリッサの、魂の重さでもある。
「でもね、チカ」
「はい」
「アリッサって呼ぶのはダメよ」
「残念です」
「チカがわたしの旦那様になったら、許してあげる。それまでは、わたしはミス・ノール」
「……」
「照れてるの? かわいい、チカ」
頭越しに体を曲げて、アリッサは朝親の額にキスをした。なんとも言い返せず、笑いが零れる。
「だから、大きくなるまで待っててね」
「かしこまりました」
「きっとよ」
「はい」
とりあえずリザーブのかかってしまった自分が、この先別の人間と交際をするのは許されないのだろう、と考えた。
一先ず、アリッサが16歳になるまでに別の誰かと付き合うようになってくれることを祈り、そうならないことを願いながら、公園を後にした。
[END]