たましいのおもさ 04



「そうでしたか、そんな事が」
「……今まで無かっただけに、ショックで」
 アリッサは、過剰な発熱から半日程眠り続けたが、時間の経過と共に熱が下がっていくのを確認して、朝親は心底ほっとした。
 だが目を覚ましてから、アリッサは決して朝親の顔を見ようとはしなかった。汗を拭いたらどうだという提案をしても、イエスともノーとも答えずにただ布団の中に隠れるばかりである。体調は殆ど回復しているのでそこまで心配は要らないのだが、かといって今のアリッサに強制的な何かを口に出来る程、朝親の精神は成熟してはいなかった。
 ゆえに、旅行先の母に、連絡を取った。
「アリッサは今、どうしているんですか?」
「横になっています。流石に半日近く眠り続けていたので、眠れはしない様子ですが」
「ナイーブになってるのでしょうね。女の子ですもの」
 サラは、常に敬語を使う。朝親の父、岡野朝幸(おかのともゆき)との結婚を決め、日本に移り住むようになってから日本語を勉強した彼女は、どうせなら丁寧な言葉を、という事で敬語・尊敬語・謙譲語だけを習得したのである。だから息子に対しても先の通りで、朝親はその影響を強く受け継いでいた。
 時にわがままを口にしていたかつてのアリッサに、丁寧で流暢な日本語を使う英国人の中年女性という絵は、どこか童話めいて見えたのを朝親はよく憶えている。
「朝親さんは? お店はどうしたんです」
「あ……それが。臨時休業を」
「いけませんよそんな事では。アリッサが心配なのは解りますけど、社会人としてはノーグッドです」
「すみません……」
「ともあれ。そんな言葉がアリッサから出てきましたか」
 台詞とは裏腹に、サラは嬉しそうに言った。そして事実、「喜ばしいことですね」と続ける。
「どうしてですか。アリッサは、何かきっと抱えてて、それで」
「エリアノーラさんが亡くなった頃を、憶えていないのですか。泣きも喚きもしなかったアリッサの顔を」
 言われて、朝親は目を瞑った。
 飛行機が海に落ちた。国際線、モスクワ行き。エリの乗った飛行機と同じ行き先だな、とは思った。そして航空会社も一緒だと、気付いた。次いで、報道される便のナンバーを何十回も何百回も確認しなおした。
 乗客に日本人は居ませんでした。そう、ニュースキャスターは告げた。だから何だというのか。だから気にするな、という事なのか。
 何か理不尽に、体の一部を奪い去られたような気分になった。ほんの何時間か前に、空港でちょっとしたジョークを言い、愛しげに娘を抱き締めていた人の親が、何を以って消えてしまうというのか。
 報道ヘリは墜落現場周辺を舞っている。ブラウン管には藻屑の欠片がそこかしこに見え隠れしている。
 乗客に無事な人間は確認されなかった、というその日の夜の報道を以って、朝親は遂に滂沱の涙を流し、震え続けた。エリが、消えてしまったのである。
「泣いてる貴方の代わりに、私がゆっくり時間をかけて説明しましたね。貴女のお母さんは、天に召されましたと」
「よく、憶えています」
 そして、アリッサはついぞ泣くことをしなかった。その日から暫く口数が減った程度で、以降は昨晩までと殆ど変わらない。
「朝親さんは、自分が死ぬ時の事を想像したことが?」
「は……まあ、何度かは」
「それで、想像はつきましたか? こうなるだろうな、というような物でも」
「いえ……」
「私もそうです。何度も考えましたが、結局自分を納得させられるような想像は出来ませんでした。アリッサよりも、貴方よりも長く生きている私が、私自身の「死」すら理解出来ないというのに、たった8歳の女の子が、母の「死」をどうして理解出来ますか」
「……じゃあ、あの頃から、やっぱり」
「そうでしょうね。心境の変化か、或いは何か別の要素があったのか、ともかくアリッサは今、エリアノーラさんが居ないという異常に気付き始めているという事でしょう。だから、朝親さんに「パパじゃないのに」なんて言葉を発した」
 反射的に「アリッサ」と呼んだと同時に、彼女が叫ぶように「やめて」と言ったのを思い出した。
 アリッサと、朝親は普段呼ばない。ミス、ミス・ノール。最初は冗談のような口約束だったが、朝親にとってはそれが普通となっていたし、アリッサもまたそうせよと口煩かった。それは或いは、彼女にとっての防衛線だったのかも知れない。
「朝親さんは、アリッサのパパではありません」
「はい」
「だから、何です。今こそ、だからこそ、朝親さんはアリッサを抱き締めてあげなければ。アリッサは頭の良い子でしょう。パパでもママでもない誰かが、それでも彼女を大事に思う気持ちを、きっと理解出来る筈ですから」
「……」
「そうしたら「優しい珈琲」の話をしてあげて下さい。私が昔、貴方にもしてあげた、あのお話を」
 ね、とサラは笑って、看病の間にうつってしまったかも知れないから、風邪の予防はしなさいと告げて、電話を切った。
 受話器を置き、暫く考えて、朝親はキッチンへ向かった。









 ベッドの上でぼんやりと横座りをしていたアリッサは、朝親が部屋に入ったのを見るやすぐに顔を逸らした。
 構わず、朝親はベッドの傍へ腰を下ろす。
「体調はどうです。もう全快に近いのでは?」
「……」
「少し、味の濃いものを作ってみました。もうこの程度食べても平気でしょう」
 言いながら、トレイに乗せてきたスープとパンをちょっとだけ掲げて見せる。アリッサは変わらず、朝親を視界に入れようとしない。
「食べられませんか? 熱いうちに」
「要らないわ」
「……そういうわけにも。何にしたって、栄養を取らなければ」
「要らないの。ごめんなさい」
「どうして謝るんですか。こちらこそ、食事に対する配慮が足りず申し訳ないぐらいです」
 少し冗談めかしてそう言うと、アリッサは勢い良く、泣きそうな顔で振り返った。朝親は、なんだか久しぶりに顔を見たような気になる。顔色は悪くなく、しかし目元を真っ赤に腫らしたアリッサは、唇を噛んで朝親の手に乗ったスープへ視線を落とした。
「今のチカは、きらいよ」
「……」
「怒ってるんでしょう? そう言えばいいのに」
「怒る? どうして。申し訳ない気持ちは山ほどありますけど、僕が何故貴女を怒らなければならないのですか、ミス・ノール」
 背を曲げて顔を覗き込むと、やっとアリッサと目が合う。だがその間を、彼女の涙が遮った。ぽたりと落ちた雫は、ぎゅっと握られた小さな拳の上で儚く跳ねる。
 続けて2つ、3つと続く涙は、せせらぎのようにアリッサの頬を流れて行く。時に嗚咽に邪魔をされながらも何度も深呼吸をし、言葉を探そうとする彼女を、朝親は辛抱強く待った。
「あんな、ひどいこと、言った、のにっ」
「酷い事」
「パパじゃっ、なっ、って」
 小さな体を殊更小さく丸め、痙攣交じりに出てくるのは嘆きとも取れる言葉。
 あまりに、不憫だと朝親は思った。だから、遮る事にする。
「そんな事、もう良いんですよ、ミス。確かに僕は貴女のパパではないんですから。何も間違った事は言っていないでしょう」
「で、もっ」
「まあ……どちらかと言えば、睨み付けられた事が少しショックだった。でも、そうしたい気持ちが貴女にはあって、それを向ける相手が僕だった。なら、甘んじて受け入れようと、そう考えてます」
 涙を拭い、堪え、必死に、アリッサは顔を上げてくれた。水平になった視線を逸らさず、朝親は続ける。
「エリさんの事を、やっと思い出せたんですね」
「……」
「1年間。貴女の口から「ママ」という言葉を聞かなくなってから、1年間です。何か、あったんでしょう?」
「……セルマと、ケンカを、したの。そしたら、あの子、ママも居ないくせに、って」
 以前エメラルドの前までアリッサと共に姿を見せた事のあったブルネットの少女に、ほんのりと怒りを抱きつつ、朝親は言葉を待つ。
「ママが居ないの、なんて、わかってたわ。ママは、もう死んじゃったのよね」
「はい」
「死んじゃう、って、どういうこと? 居なくなってしまうのと、違うの?」
「……そうですね。こんなお話があります。僕が貴女と同じぐらいの歳の頃、母から聞いた話です」
 それから、朝親は訥々と語った。
 珈琲の中には、思い出が詰まっているのだという、御伽噺というよりは、子供向けの教訓めいた話である。それを、人間は皆、毎朝毎晩飲み干して生きていかなければならないのだと。
 殆どの人が、苦すぎるブラック珈琲を嫌がり、シュガーやミルクを混ぜてしまう。それも、悪くはない。思い出という優しい珈琲が、苦すぎてしまうのはいかにも辛い。だから、甘くしてみたり、ちょっと強すぎる香りを飛ばしてみたりする。
「僕は珈琲が好きでしょう。取り分け、ブラック珈琲が好きです」
「わたしには、飲めないわ」
「ええ。でもね、ミス。貴女も今は、ほんの少しだけですけれど、ブラック珈琲を飲んでいるんですよ」
 甘すぎる珈琲は、くど過ぎていつか飽きてしまう。そうなっても、結局人々は、朝となく夜となく、珈琲を飲んで生きなければならない。だからいつか、ブラックにして味わう方法を憶えるのだ。確かに苦いが、思い出の本当の味と香りを知ることが出来る。そこで初めて、「思い出は優しいんだ」という事に気付けるようになるのだ。
 ブラックで楽しむ余裕が、いつかは出来る。だからそれまでは、いくらシュガーを入れても構わない。でも最後には絶対にブラックで楽しむべきなのだ。それこそが、何物にも絆されない、本当の優しい思い出となる。
 そんなちょっとした話。解り辛い所もあったかも知れないが、アリッサは涙を流しながら一心に耳を傾けて、聞いてくれた。
「僕にも、辛い記憶や悲しい思い出は沢山あります。なるべく思い出さないように、シュガーを沢山入れて飲んできました。でも1度ブラックで飲んでしまうと、不思議と優しく感じるもので」
「ブラック、で」
「如何ですか、本当の味は。貴女にとって最も大切な思い出である、エリさんの珈琲です。確かに苦かったと思いますが、でも今、それをブラックで飲めるようになったのでは?」
 比喩が多すぎて、理解が追いつかないかも知れないとは思った。だが朝親が思っていた以上にアリッサは頭の良い子で、ゆえに母の記憶を無意識に封印する方法を思いついて1年を過ごしてきた。本当に彼女にとって大切な、唯一無二の思い出をである。
 だからこそ、ちょっとした喧嘩の際に母の事を告げられて、簡単に思い出した。それは誠に、正しい心の持ち主である事の証左だ。
 ずっと握り続けていた手を開き、アリッサは朝親の袖を掴んだ。そして今1度、涙し。
「チカ……ママに」
「はい」
「ママに、会いたい……」
 珈琲を、飲み終えた。

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