たましいのおもさ 03



 その昔、朝親は鳥を飼っていた。文鳥である。
 大層可愛がっていたのだが、当然人より長生きが出来る筈も無く、朝親が小学生の頃に息を引き取った。
 動物は死期を悟ると言われている。己の命が果てる頃、猫であればふらりと姿を消すし、犬であれば残りの命を懸命に消費しようと、恩人たる飼い主の為に変わらず尻尾を振って愛想を振りまく。群れを作る野生動物は、自らが囮となることもしばしばだ。朝親が飼っていた文鳥もまた、死期を前にしてひどく大人しくなっていたのを憶えている。
 そうした「動物」と並べてしまえば良い顔はしないだろうが、エリは自分の死期を悟っていたのだ、と明確に朝親は認識していた。
 仕事柄、英国だけに留まらず世界各国を飛び回ることの多かった彼女は、少しだけ苦い顔をして岡野一家にアリッサを預けていった。最初はアリッサも、母と別れるのを随分と嫌がったもので、それを朝親の母であるサラがなだめるのが、空港でのお決まりのやり取りだった。
 そんな生活にアリッサを始め岡野一家も慣れ、エリがむしろ寂しい、などと漏らし始めた頃。エリは、最後――彼女の乗った飛行機が海へと消えた日に、こんな言葉を残し、妙な感慨を朝親に抱かせた。
「アリッサを、お願いねチカ」
「はい」
「……戻ったら、私の部屋の金庫を開けて。番号は、私とアリッサの誕生日を、足して割った数。すぐに解るわ」
「何故、そんなことを」
「あの建物の権利書が一式入ってるのよ。家を空けておくと、朝親が居ると言っても昼はお店だしで、不安になってね」
「そういう事なら、僕が責任を持って」
「ありがとう。アリッサ」
 柵と窓ガラス越しに、滑走路を眺めていたアリッサが、エリの足元へ寄る。その体を、エリは屈んで抱きしめた。
 心底愛しそう、というよりは侭愛しげに力を込めると、アリッサは困ったような嬉しいような笑い声を上げる。それは、傍目にはたまらなく幸せそうで美しい風景なのに、朝親は何か嫌なものを感じたのだ。
 例えばこれを風景として絵に納めるとしても、カンバスが破れ落ちるような不吉なイメージ。何を自分は考えているのだ、と嫌悪感すら抱いてみても、それは変わらない。頭を、軽く振った。
 そんな朝親の様子に気付くことなく、エリは娘に語りかける。
「ごめんね、こんなママで」
「ううん、大丈夫。わたしはガマンできるわ」
「チカの言う事、おじさんとおばさんの言う事を、キチンと聞く事。そうしたら、沢山お土産を買って帰るから」
「あは、楽しみにしてる」
 体を少し離し、エリはじっと娘の顔を見た。目に焼き付けるように暫くそうしてから、頬にキスをして、もう1度抱き締めて、辛そうに立ち上がる。
 アナウンスが響いた。天候により遅れる可能性が出ていたが、飛行機は予定通り飛ぶ、というものだった。
「じゃあ、行くわね、アリッサ。元気で」
「ママも」
「チカ。頼むわね」
「ええ」
「きっと私に似て美人になるわ。楽しみね?」
「はぁ」
 それじゃあ、と言い残し、タラップで1度だけ笑顔を振り向かせてから。
 エリは、2度と戻らなかった。









 アリッサは、小さく首を左右に振った。
「それでは治るものも治りませんよ、ミス・ノール。飲み込むようにでも結構ですから」
「……けほっ」
「ほら。食事をしなければ薬が飲めない、薬が飲めなければ風邪が治らない、治らなければずっとこのままですから」
 今度は、頷いた。朝親も頷き返して粥を掬い直し、温度を確かめる。
 アリッサが、風邪を引いた。季節の変わり目というのもあるが、風呂から出てすぐには服を着たがらない彼女自身の責任もある。お陰で、真っ白な頬を赤くし、真っ青な瞳を潤ませ、アリッサは分厚い上掛けの下に大人しくなっていなければならなかった。
 薄味で作った粥をレンゲに掬ってやると、アリッサは大儀そうに口を開いた。実際、重い風邪となるとこの程度の運動でも辛いものがある。
「どうです」
「味がしないわ」
「まあ、味覚もおかしくなってますしね。食べられるだけ、食べてしまいましょう」
「うん」
 そんな調子で1口2口と食べ進め、半分程残してアリッサはギブアップを告げた。それでも、作った朝親に悪いと思うのか、最後の方は無理をしていたのが解った。そういう気の使い方は、する子である。
「さ、薬を飲みましょうか」
「にがいやつ?」
「いいえ。甘い、ジュースみたいなものです」
「なら、よかった。前、サラおばさんに飲まされたのは、にがかったわ」
「あれはあれでよく効くんですよ。でも、風邪を引いた時ぐらいは、何でも楽な方が良いでしょう」
 小さなプラスチックの容器に用量分を移してから、アリッサの背に手を入れて体を起こした。じっとりと汗を吸い取ったコットンのパジャマの感触がある。
「ひどい汗ですね。薬を飲んだら汗を拭いて、眠ってください」
「そうする」
 くっ、と一息で薬を飲むと、アリッサは重たそうにパジャマの上を脱いだ。元々肌が白い所為もあって、じっとり濡れた体中が可哀想なぐらいに紅潮している。それを真新しいバスタオルで拭ってやり、シーツを取り替え、再びベッドへ戻した。やはり気持ち悪かったのだろう、幾分表情も和らいだように見える。
「さ、眠って下さい」
「チカ、手を握って」
「はい」
「冷たくて、気持ちいい」
 片手を布団の中に引っ張り込また辛い体勢ではあったが、朝親は笑ってお休みなさい、と告げた。
 10分と待たず、寝息が聞こえてきたのを確認し、自分も部屋に戻ろうかと思ったのだが、ふと朝親はその寝顔を見つめた。
 まだ、たった9歳なのだ。母を失い、彼女からすれば外国人ばかりの国で暮らし、学校へ通っているとはいっても何だか問題も抱えている様子である。だというのに風邪でも引かなければ辛そうな顔1つ見せようとしないし、むしろ年齢相応以上の闊達さを見せ付けてくれる。
 言葉にしてみれば、人は口を揃えて「立派なものだ」と言うだろう。だが朝親からすれば、それは恐ろしい事だった。9歳。それが「母」という無条件に縋るべき代を持たないというのが、どれほど彼女の心に影を落としていることか。
 離れられず、また一心な信頼と共に力を込める手を放せず、朝親はベッドの傍に腰を下ろした。
 3時間は経った頃、アリッサが、スイッチが入ったかのように突然瞼を開いた。そしてじっと朝親を見据え、唇を噛み締め、眉間に小さく皺を寄せる。敵愾心とでも呼ぶに相応しい表情が作られるのを、朝親は唖然として眺めた。
 そんな朝親から手を振り払うと、アリッサはベッドから這い出る。まだふらついていて、明かりを落とした室内の色々にぶつかりながらも、出口へ向かおうとする姿に、呆気にとられていた朝親はやっとの思いで声をかけた。
「どこへ行くんです。安静に」
「放っておいて」
 手探りで室内の明かりを点けると、アリッサは壁で体を支えるようにしながら、ドアノブへ手をかける。
「まだまだ辛そうじゃないですか。ベッドへ戻ってください」
「いいから、チカはだまってて」
「そんなわけにはいかないでしょう、熱だってまだ下がっては……」
 自分の汗で滑るのか、或いは力が入らないのか、ごく普通のドアノブに苦戦するアリッサの肩に、朝親は手を乗せた。
 それと同時に、振り払われた。
「アリッサ」
「やめて!」
「……」
「チカなんか、わたしのパパでもないのに!」
 そう叫びながら振り返ったアリッサの顔は、憤慨に満ち満ちていたが、即座にそれは、怯えと悲しみが入り混じったような物に取って代わった。
 チカを傷つけた。
 アリッサの胸の内がその言葉だけに彩られているのが手に取るように解った。そのぐらい、申し訳なさそうな顔色に染まっているし、朝親もまた、自身思っている以上のショックが顔に出ているのだろう、と思った。
 そうして、アリッサは膝からくず折れた。慌てて抱きかかえると、熱がぶり返しているのか、体中が熱くなっていた。

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