たましいのおもさ 02
くしゃみが出た。出てから、それが自分のくしゃみであると理解するのに、少しだけ時間を要した。
「大きなくしゃみね、寝ていたのに」
クスクスと笑い、アリッサは自慢の黄金色の髪を一房握って振って見せた。成る程これで、鼻をくすぐられたという事らしい。
「……ああ、おはようございます」
「おはよう、チカ。今日もいい天気」
言いながら朝親の両頬にキスをして、アリッサは部屋のカーテンを開け放った。差し込んでくる太陽に眉をしかめながら、朝親はようやく体を起こした。
喫茶店、エメラルド。岡野朝親は、そこの店主である。趣味が高じて本格的な珈琲を入れる喫茶店を始めてから、既に3年目である。その頃、アリッサはまだまだ朝親に警戒心を抱いていたのをぼんやりと思い出した。
そんな表情に気付いてか、アリッサは呆れた、というように瞼を閉じると、首を捻って眉を上げて見せた。こういう仕草は、本当によく似ている。
エリアノーラ・ノール。アリッサの母である。
1階が喫茶店で2階と3階は住居というこの建物は、エリアノーラことエリの持ち物だったが、現在の名義はアリッサへと移っている。つまり今目の前ではにかむ少女は、朝親にとって大家でもあるのが妙なものだった。
壁掛け時計を見やると、8時丁度を指している。開店まで1時間という、いつも通りの朝だった。
「チカ、早く支度をして。髪を梳かして欲しいの」
「解りました、すぐに」
指に金髪を絡ませながらアンニュイにねだるアリッサと共に、建物2階部分へ移動。外階段と中階段の両方から移動出来るので、3階を寝室、2階を生活空間として使っている。
顔を洗い、髭を落として髪を整える。アリッサは、何故か朝親がそうしているのを見るのが好きだ。
「オーケー?」
「はい」
朝親が体を屈めると、彼女は顎の辺りを撫でさする。剃り残しがあると、厳しい駄目出しが待っているので気が抜けない。今朝は満足らしく、アリッサは顔を綻ばせながら、朝親の手を引いてリビングへ。自分の椅子に腰掛けると、メイソンピアソンのブラシを手渡してくる。1本1万と少しという高級なそれは、アリッサ専用のヘアブラシだ。
ほんの少しだけ緩やかなウェーブを描きながら、彼女の両肩で別れる金髪。艶といい手触りといい、作り物ではないのかと思う程に綺麗なものである。
「お願いね」
「かしこまりました」
澄ましたような言葉に恭しく答えて、ブラシを通す。ブラシ自体が良いというのも然ることながら、梳かしてやる必要も無いのはと思う程、ブラシの黒い毛は金髪の合間を抵抗無く縫って行く。本人の手入れの賜物なのだろうが、それでも彼女はこうされるのを望むので、朝親としても悪い気はしない。
「はあ、明日からまた学校なのね」
「そういえば、学校はいつまでです」
「えっと……あは、あと2週間でオシマイ」
カレンダーに目を向け、嬉しそうに答えた。エリの手配により、アリッサは幼稚園の頃からイングランドスクールに通っていて、現在はそのまま小学校へ上がっている。彼女と同じように英国人の親を持つ子供や、国籍が英国である子供があつまる学校法人なだけあって、今の所何の問題も無く楽しい学生生活を送っていた。
「あと少しじゃないですか。頑張って下さい」
「うん。学校は嫌いじゃないもの」
「それは何より」
「でも、セルマが時々わたしをいじめるの」
「セルマ……ああ、以前一緒に居た。いじめる、というと?」
何気なく聞き返したつもりだったが、アリッサは答えない。不思議に思って顔を覗き込もうとすると、背けるように椅子から降りてキッチンへ向かってしまった。気紛れというか、こういう時に「女の子」の気持ちが解らずエリの存在を切望したりもする。
「チカはマーガリン?」
「……はい、お願いします」
トーストを取り出しながらそんな事を言うので、朝親は深くは突っ込まずにいる事にした。
ただ「いじめられる」という言葉を口にしたかっただけなのか、助けを求めてそう言ったのか。どちらにしても、朝親はふとした恐怖観念のようなものも相俟ってあまり深入りが出来ずにいる。
保護者ではあるが、アリッサの父ではない。
その一点で、2歩も3歩も躊躇うのである。
アリッサは確かに心を開いてくれてはいるが、どこか、本当に底の方では譲れないものを抱えているに違いなかった。そこを覗き込む事が、或いは出来るとすればそれはどんな時なのかと、トースターと睨めっこをする大家の背中に、心の中で問い掛けた。
昼下がりのラッシュタイムを終えると、エメラルドには束の間の休息が訪れる。食後の珈琲をエメラルドで、というのはこの辺りの嗜好品に拘る人々にとっては殆ど当然のようになっていて、朝親としては嬉しい悲鳴といった所だ。家賃を払い、光熱費を払い、アリッサに満足行く生活を提供して、尚聊かの貯金も出来るというのは、途方も無く有り難いことなのだと常々考える。
この日は朝の様子とは打って変わって、アリッサも精力的に手伝ってくれた事もあり、随分と仕事が捗った。カウンターに椅子が9つ、テーブルとセットになった1人がけソファが、向かい合わせに2組。13人で精一杯の店内とはいえ、朝親1人で軽食や飲み物を作り、運び、というのは大変な作業なのだ。
「お疲れ様です、ミス」
「ありがとう、チカ」
カウンターの椅子に腰掛けて休むアリッサに、アイスティーを出す。ストローでくるくると氷を回し、一口。
「今日は特にお客様が多かったわね」
「休日は貴女が居るのを、皆知っているからでしょう」
「だったら、夏休みはずっと手伝ってあげるわ」
「それは心強い」
朝親も自分に珈琲を入れ、カウンター内の椅子を引っ張って一休み。店内を流れるジャズにぼんやりと耳を傾けた。
「ねえ、チカ」
「はい?」
「サラおばさんは、どうしてるの?」
微かに聞き辛そうな響きを持たせて、アリッサはそんな事を問うた。サラというのは、朝親の母である。現在は朝親が自立したこともあって、夫婦で趣味の旅行を謳歌する日々を送っている。安泰な、絵に描いたような老後というやつだ。
アリッサにとって、サラは祖母のような存在である。日本へ越して来てから、まず最初にアリッサはサラに懐いたのだ。共に、英国生まれであるという事も理由の1つだろう。サラもまたアリッサを猫可愛がりするので、よくエリに窘められたりもしていたものである。
「ああ、そういえば昨晩電話がありました。旅先からでしたけど、元気にやっているようです」
「そうなの」
「声を聞きたがっていました。もう時間も遅いし、と残念がっていましたけど」
「わたしからかけてもいいかしら? サラおばさんの、声が聞きたいの」
「だと思って、今泊まっているホテルの番号を控えてあります。時差を後で確認しますから、声を聞かせてやって下さい」
「うん、そうする。ありがとう、チカ」
両手でグラスを抱えて、アイスティーを一気に飲み干すと、アリッサは以上、とばかりに椅子を立ってテーブルとカウンターを拭いて回った。
何か言いたい事がある時の、アリッサの癖だった。
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