たましいのおもさ 01



 物怖じしない。
 それは、美徳というか、子供としては立派な精神構造であると言って良い。
 また、安全であると確認出来るまでは決して警戒を解かないという慎重さもある。店に来る客を、彼女はじっと見ている事が多いのだが、「大丈夫だ」という折り合いが自身の中でつくと、気さくなウェイトレスへと姿を変えるのだ。それが密かな評判を呼び、最近では高齢者の客足が増えたりもしているのが嬉しい。
「ミス・ノール。そろそろ行きませんか」
 ファーストネームをアリッサ、ラストネームをノール。9歳になったばかりの彼女は、呼ぶ時には「ミス」とつけるようにと口煩い。迂闊にアリッサ、とだけ呼ぼうものなら、真っ白で皺1つ無い頬を膨らませてヘソを曲げてしまう。
 声に反応したアリッサは、しゃがみ込んでいた木の下からすっくと立ち上がって見せると、両手を器のようにしながら戻ってきた。
「チカ、見て」
 チカ――岡野朝親(おかのともちか)を見上げ、器の中身を晒す。鳥の雛だった。
「これは」
「あの木の下に居たの」
「傍に、巣があるかも知れませんね」
「探して。戻してあげないと」
「解りました」
 両手の中身を心配そうに見ながら、アリッサはまた駆け出して木の元へ。夏も目前だというのに、鳥の雛というのも珍しいものだった。
 アリッサの手招きに急かされ、朝親も木へ寄った。立派に下ろされた根、硬い皮と長い枝。生い茂る緑が時折太陽光を遮りながら、木漏れ日をそこかしこに作っている。
「どう?」
「ここからでは、ちょっと見えませんね」
 言いながら、木の周りをぐるりと歩いてみる。葉が生い茂りすぎていて、上の方までは見通せない。だが、満足に羽も伸びきっていない雛鳥が、自ら羽ばたいてこんな所まで来るとは考え辛いので、やはりどこかに巣があると見るのが正しいだろう。
「見つかりませんね」
「見つけるの」
「そう言われましても……」
「かわいそうでしょう。チカも男なら、ひとはだ脱ぐのよ」
 英国人でありながら慣用句を妙に使いこなすアリッサに苦笑を漏らしながら、足をかけられる場所を探した。こうなれば、登ってみるしかない。
 ふと、でっぱりを見つけ、そこに足を伸ばした。朝親自身背は高いので、後は楽なものである。
「ああ、ありました」
「本当?」
「ええ。他の雛鳥も居ます」
 少し体を持ち上げると、すぐにけたたましい程のさえずりの嵐が聞こえた。木の枝などを利用した巣は、しっかりと太い枝の股に据えられている。
 1度飛び降り、アリッサから雛を受け取ると、もう1度木登り。人間が来た為か、はたまた空腹の為か、一層大騒ぎをする雛鳥たちの中へ、そっと戻してやる。
「大丈夫だった?」
「ええ」
「良かった」
 本当に、心底からの「良かった」を顔中に浮かべ、アリッサは朝親の手を握った。
「帰るのよね?」
「ああ、少し買い物が」
「そう。じゃあ、わたしも手伝ってあげる」
「助かります」
 手を繋ぎ、日が傾き始めた公園を後にする。
 ひゅうと吹いた風に、反射的にワンピースの裾を押さえるアリッサを横目にしながら、立派になったものだと朝親は空に向かって頷いた。









「いや」
「我侭を言わないで下さい。体に良いんですから」
「いや」
「そんな事言わずに」
 皿を持っていくと、アリッサは真逆の方向へ顔を背ける。そちらへ寄せれば、やはり反対側へ。ほとんど条件反射のような拒否反応である。
「ちゃんと見張っていたのに、いつの間にカゴへ入れたのよ」
「まあまあ。決して不味い物ではないんですから」
「わたしを騙すなんて、ひどいわ」
「騙すだなんてとんでもない。貴女に食べて欲しいから、こうして料理をするんです」
「……」
 トマトである。
 アリッサの天敵にして生涯の敵、地上より消え去るべき植物かつ、彼女の中では7つの地獄と8つの炎を受けるに相応しい悪魔の如き存在。それが、トマトだ。
 要するに、ただの好き嫌いだった。アリッサは、どうしてかトマトを好かない。
「野菜は体にも美容にも良いんですよ」
「こんなの、野菜じゃないもの」
 言いながら、アスパラガスを口へ放り込む。トマト以外の野菜は何でも食べるのに、この赤くて水っぽくてやや酸っぱい野菜だけは口に入れようとしないのである。朝親には想像もつかない程の恐怖を、過去に味合わされているのだろう。偏食というのは、存外成長してからも後を引くものだ。
「残念です。きっと食べてもらえると思って懸命に作ったんですが」
「……いやなものは、いや。理屈じゃないのよ」
「また小難しい事を。ほら、一切れだけでも結構ですから」
「もう。しつこい男は、きらわれるわよチカ」
 保護者として、このまま彼女に極端な好き嫌いを継続させるのは良くないと朝親は考える。だが、色々と理由を探しながらトマトの襲撃をなんとか回避しようとするアリッサを見ていると、それはそれで良いかも知れないなどと思う事もあった。父性とは、かくもトマトの皮より弱々しいものでもある。
 軽く煮詰めたトマトに、自作のドレッシングをかけた物。味見もしてみたが、トマトらしい味はかなり薄まっているので、食べても問題は無い筈なのである。が、アリッサにとってトマトを口にすることは「敗北」にも等しいのだろう。子供の意地とは、往々にして自身の範疇を飛び越える。
「では、この一切れを更に半分にしたものでどうです」
「……本当に、それだけ?」
「はい」
「約束よ。嘘を吐いたら、もう口をきかないから」
「では、尚更嘘は吐けませんね」
「じゃあ、その半分。きれいに、半分よ。かたよったら、小さい方を食べるから」
「はいはい」
 この日は、なんとか食べてくれる気になったらしい。ちなみに、通算成績は3対7ぐらいで負け越しである。とはいえ、以前は本当に見向きもしなかったのだから、大躍進なのだ。
「どうです」
「トマトだわ」
「そんなに解るものですか?」
「トマトスープなら食べられるのに。トマトの味が、濃すぎるのよ」
「うーん……結構薄めたつもりなんですけどね」
 首を捻りながら、朝親も一口。トマトらしさは殆ど無い。
 今度は形を解り難くしてみようかと考えながら、恙無く夕食を終えた。
 食後、テレビに夢中なアリッサの背を時折見ながら、「しつこい男はきらわれるわよ」という言葉を思い出し、どこか気持ちが遠くなるような錯覚を覚えた。早いもので、もう1年が経過して久しいのである。
 アリッサとこうして暮らすようになって1年と少し。
 彼女の母が、永眠してから、1年と少し。
 たった9年の人生しか背負っていない、少女の小さな肩は、この1年で少しは軽くなったのか。問うてみたいような、確認してみたいような、そんな気持ちがいつも朝親の心にはある。だがいみじくもアリッサと、その母が口にした「しつこい男は嫌われる」という言葉を前に、いつも心へ仕舞い戻す事にしていた。

[NEXT]