お知らせ1 創建と沿革川合玉堂は、明治6年(1873)愛知県生まれで、四条派の親しみ深い作風と狩野派の品格とを合わせ持ち、詩情に満ちた自然観察によって、日本的で穏健な風景画を描いた日本画家として知られています。大正4年(1915)には東京美術学校教授に就任、同8年(1919)帝国美術院会員となり、さらに横山大観らと「淡交会」を結成しています。 川合玉堂が、富岡に訪れたのは、この地の旧家である斎田家の娘が玉堂家に行儀見習に出ていたのが縁で、玉堂が一目でその景観を気に入り、土地を購入した事に始まると言われています。建物が建てられた正確な年代は不明ですが、大正6年(1917)とする文献もあります。また、建物は斎田家の斡旋で古い農家を移築したものとする説もあります。(「川合玉堂と神奈川〜その頃の鵠沼と富岡は〜」宮野力哉/かながわ文化財第90号/神奈川県文化財協会より)。もし建物の創建が大正6年とすれば、玉堂が40歳前半の壮年期に建てた別邸という事ができます。なお園庭は、創建時からの庭師のご子息である大胡周一郎氏(植周造園株式会社代表取締役)へのヒアリングによれば大正9年頃(1920)整備したものだといいます。 その後川合玉堂は、この別邸を夏冬の画室としてよく活用したとのことです。邸内に枝振りのいい2本の老松があったため「二松庵」と名づけられたといいます。画室から見える風景や周辺の人物や景色を描いたといわれる作品も多いと言われています。 大胡氏へのヒアリングによれば、京浜急行の開通や飛行機の騒音を嫌い、昭和6、7年頃には玉堂はあまり来なくなったとの事です。 その後、玉堂は昭和19年、現在の東京都青梅市御岳に疎開をし、御岳での画生活に入られました。そして昭和32年6月、御岳にて息を引き取ります。 2 概要旧川合玉堂別邸の敷地は、京浜急行富岡駅近くの丘陵地に位置しています。駅から別邸に向かうアプローチ道路は急勾配の坂となり、その突き当たりにまず表門が見え、門をくぐると丘陵に抱かれるように主屋が置かれています。 敷地は約8千m²あり、富岡の丘陵地の高低差を取り込んだ変化のある地形となっています。北側が丘陵となり、南に向けては勾配のある斜面となり、主屋は丘陵の裾に建てられています。主屋からさらに表門まで下る斜面となっています。この変化に富んだ敷地には澤や池、主屋からの眺望等に配慮した植栽が施され独特の作庭がなされています。 主屋は木造平屋で、寄棟の茅葺き屋根ですが、一部入母屋の造りとされています。南面して建てられており、画室部分が庭に突出して雁行した間取りとなっています。表門は二脚門で寄棟の茅葺き屋根とされています。このほか、後世のものと思われる使用人居宅(木造平屋)が表門の西側にあります。 主屋は玄関、控室、茶室、画室などの前面諸室と台所、浴室などの背面諸室、西側に付属する書生部屋等からなり、諸室を幅広の廊下が区切りそれぞれの独立性を高める造りとなっています。基準尺は、基本的に田舎間ですが、廊下等は柱一つ分広くされており、ここだけ京間が採用されたと見る事もできます。
3 川合玉堂について(1873〜1957)
二松庵でかかれたのではないかとされる作品
二松庵を訪れ、画室から見える風景や周辺を散歩しながらスケッチした人物や景色が、作品の中に描かれている作品
問合せ教育委員会 生涯学習文化財課 TEL:045-671-3279 FAX:045-224-5863 e-mail:ky-bunkazai@city.yokohama.jp |