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特集/色と自動車

自動車の色の変遷、そしてこれからへの提言
川村 雅徳〔社団法人 日本流行色協会 広報部 課長〕

クルマの色と言えば…
 長く、クルマの色は「モノトーン」が人気色であると言われてきた。
 JAFCA(ジャフカ=社団法人日本流行色協会)が行っている国産自動車車体色調査98-99年版の結果でも、白、シルバーが占めるシェアは、それぞれ約30%、45%で、この2色を合計するだけで75%となるのである。しかも、1970年代半ば以降は、この2色のシェアは常に約50%以上を記録している(「図 国内向け国産自動車ボディカラーの変遷」参照)。
 実際には多くの色があるにもかかわらず、白、シルバーが選ばれているのはなぜなのだろうか。その理由のひとつには、モノトーンという色の性格が極めて柔軟性に富んでいること、変幻自在の色であることが挙げられる。
 色彩の専門用語では、白-グレー-黒といった色を色みのない「無彩色」と言い、赤、青、黄といった色を「有彩色」と言う。無彩色は色みがない分、少し色みが加わったときにカラーイメージの変化を顕著に感じさせる。明度が高ければ高いほど、つまり白に近い無彩色ほどその傾向は強く、塗装面積が大きいクルマのような製品の場合、わずかな色みの違いがそのクルマのイメージを大きく変える。
 また、無彩色は日本人の気質にも合致する。どうも日本人は、他との差別化や個性の表現といった場面でも「微差」を好み、事を収める傾向がある。「個性化が進んでいる」と言われる昨今ではあるが、依然、大勢は変わっていない。つまり、ボディカラーに対して、他との際立った違いを求めず、無難な色選びをしてきた結果が、モノトーン優勢という色模様をつくってきたひとつの要因と言える。
 しかし、実際にクルマという商品においても、“カラー”が活躍していた時代はあった。

カラフル志向を転換させたオイルショック
1)マイカー時代の幕開けとボディカラー
 終戦から10年過ぎ、朝鮮戦争特需もあって、戦後の復興期を経た日本が、高度経済成長期に入り始めたころの58年、「4人乗り・時速100km・リッター30km・25万円」を掲げた国民車構想の高いハードルをある程度クリアしたクルマとして、軽自動車・スバル360が発売された。このほか、57年の初代コロナ(トヨタ)、59年の初代ブルーバード(日産)、60年の三菱500、61年の初代パブリカ(トヨタ)と、さまざまなクルマが発表された。後に「BC戦争」と言われ、今日では大衆車として知られているブルーバードとコロナだが、59年の時点ではタクシー需要がほとんどで、マイカーの割合は5.9%にすぎなかった。
 この後の「マイカー時代」を代表する車が、66年に相次いで発表された初代サニー(日産)、初代カローラ(トヨタ)であった。56年の経済白書でも「もはや戦後ではない」と表明されたように、サラリーマンの平均年収(約100万円)の半分以下で憧れのマイカーを手に入れることができるようになった。
 その後、日本の自動車産業界は、ハイヤー、タクシー業といった法人需要中心から個人需要中心へと様変わりしていく。そして、その過程のなかでもボディカラーは大きな役割を果たした。それは、67年の3代目クラウン(トヨタ)、俗に言う「白いクラウン」である。この「白」によって個人需要が喚起され、法人需要の市場において圧倒的シェアを誇ったグロリア(日産)との形勢を逆転した。法人車カラーであった黒とは正反対の色である白をプロモーションカラーとして設定することで、個人需要開拓に成功したのである。

写真4 サニー(ブルー)1965/日産
写真4
 JAFCAは65年より乗用車車体色調査を開始した。このころの結果をみると、グレー系とブルー系(写真4)を中心に、イエロー系、ブラウン系、オリーブ系、グリーン系など、ずいぶんとカラフルだったのである。塗装技術は、当然今日ほど発展しておらず、質感は貧しいが、今見てもなかなかいいものである。またメタリック塗装は、60年代にも高級車を中心に施されていたが、大衆車はソリッドカラーが大半だった。
2)高度経済成長期の色彩意識
 自動車保有台数は、67年に1,000万台を超え、4年後の71年にはその倍の2,000万台を超えた。大阪万博が開催された70年、4世帯に1台というレベルまでクルマは普及した。時代は高度経済成長期であり、「消費は美徳」とされた。新しい商品を購入することは美徳であり、誇示すべきものであった。50年代に「三種の神器」と言われた洗濯機・電気冷蔵庫・白黒テレビ、60年代半ばに「新三種の神器=3C」となったカー(クルマ)・クーラー・カラーテレビ。
 日本人はこれらの「憧れ」をわがものにし、近代的な生活を手に入れるためにひたすら働いた。
 こうした時代背景のなかでは、鮮やかな色、はっきりとした色、他人が持っていない色など、自分の消費活動を誇示しやすい色が好まれた。
 この傾向はクルマに限らず、ファッションやインテリア、家電といった、生活全般のモノに共通する色彩志向であった。

写真5 ギャラン・クーペFTO GIII(イエロー)1971/三菱
写真5
 鮮やかなイエロー、オレンジ、イエローグリーンは、高度経済成長期を象徴する色であり、好景気に浮かれていた消費者像とも符合する色だ。インテリア商品や家電に比べ、「購買」自体が目立つ消費活動となるクルマの場合でも、こうした意識は無関係ではない。カラフルさがピークとなった70-71年調査では、なんと80%弱が有彩色で、イエロー系(鮮やかなイエローから白っぽいイエローまでを含む)の割合が30%を超えているのである(写真5)。
3)公害問題意識とカラートレンド
 60年代半ばから、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくと、高度経済成長期のひずみが日本のあちらこちらで問題化し、成田空港建設反対闘争、日大・東大紛争、日航機よど号ハイジャック事件、浅間山荘事件と、70年前後は、一気に「負」の時代へと転換した。
 こうした背景のなかで、60年代に対する反省意識が芽生えていた消費者を襲ったのが、73年の第一次石油ショックであり、日本の高度経済成長期は終焉を迎えた。そのころクルマ業界は、日曜・祝日のガソリンスタンド閉鎖(73年)、東京モーターショーの中止(74年)と75年からの隔年開催、環境庁の「(昭和)51年排出ガス規制基準発表」(75年)…と、確かに逆風が吹いた。しかし日本の自動車産業界は、74年に輸出を含めた生産台数が前年を下回ったものの、その後は右肩上がりの成長を続け、80年には生産台数世界一の座についた。そして、15年間その座を守り続けることとなった。

写真6 5代目コロナ(カーキ)1973/トヨタ
写真6
 結果的には、日本自動車産業の努力が実を結んだ70年代だったが、日本人総体としては、第一次石油ショックを機に「消費は美徳」から、「節約は美徳」へと根本的な意識転換を余儀なくされた。こうした変化は、折からの反公害意識、反体制意識とも結びつき、自然回帰的志向を強めることになった。この流れはファッション分野でも、フォークロア調やサファリ調、ジーンズの流行を生み出し、カラートレンド面ではナチュラルカラー、アースカラーと称されるオフホワイト(生成り)-ベージュ-ブラウンや、豊かな自然をイメージさせるオリーブ-カーキ-グリーンを流行させた(写真6)。
 クルマのボディカラーにも、ファッションと同調した傾向がみられた。オリーブ系、イエローグリーン系をはじめとするグリーン系の色域の伸張が顕著になり、ピークの73-74年調査では約30%のシェア、その後はブラウン系の勢力が拡大し、77-78年調査では約20%となった。
 先にも述べたように、70年代半ばまで無彩色と有彩色の比は、有彩色のほうが多く、多彩なボディカラーの時代であった。そして色彩志向の変化を大きな流れでとらえると、明るい色やきれいな色を好んだ志向が、自然回帰という意識が強くなるに伴って、濁った色を良しとする志向にシフトしていった。また、このころはクルマの造形デザインも多様で、個性的であったように思える。クルマ漫画のヒットやスーパーカーブームも、その影響が大きいだろう。クルマの色と形、ともに個性を放っていたまぶしい時代である。



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