あなたは、わたしではない。
このことが、恋愛という現象において、最大の難関であると同時に、最良のしあわせであることを、映画『潔く柔く』は伝えてくれる。
「わたし」の想いは送信された。そのような描写から、映画がはじまる。ハルタ(高良健吾)の想いは送信された。彼の静かなうめきと吐息だけがあたりに沈殿していくこの場面はけれども、その一点において、少しも悲痛ではなく、むしろすこやかな安堵とともに、わたしたちのそばにいる。
「わたし」の想いは送信された。それを受け取るかどうかは「あなた」次第であり、「わたし」は決して関与することはできない。なぜなら、あなたは、わたしではないから。けれども、あなたは、わたしではないから、わたしは、あなたに恋をしている。
カンナ(長澤まさみ)が走っている。そのことを祝福するように、タイトルが出現する。慎ましく優しく。
ひとは走ることで、自分の鼓動を知る。そして、いま呼吸していることを感じる。
吸って、はいて、また吸う。わたしたちは、それを心臓が停止するまでつづける。恋するものならだれでも想うだろう。できることなら、「あなた」を吸って、「わたし」をはきたいと。つまり、「あなた」を理解したい、「わたし」をわかってほしい、このふたつが、呼吸という行為のように、ともにあってほしいと。
多くの場合、ことばはそのように取り交わされる。「あなた」を理解するために。「わたし」をわかってもらうために。だって、あなたは、わたしではないのだから。
つまり、ことばは、願いであり、祈りである。わたしの知らない「あなた」に届きますようにと、ことばは送信される。もちろん、わたしはあなたを少しだけ知っている。けれども、ちょっぴり知っているだけの「あなた」に、ことばが送信されるわけではない。わたしの知らない未知の「あなた」に送られるからこそ、ことばを紡ぎ出し、それを口にすることに、どきどきするのである。そう、ときには、どこかにある落とし穴に足がすくむほどに、どきどきする。
送る=贈る。生まれることばはすべて、贈りものでもある。わたしからの、わたしの知らない「あなた」への贈りもの。その贈りものが、いつ開封されるか、わたしにはわからない。あなたもわからないのかもしれない。ただ、「わたし」の想いはもう送信されている。
「カンナは自分を知らないんだ」。愛の告白であるにもかかわらず、決してそうは聞こえない真山(中村蒼)のことばに導かれるように、カンナは四人のときには着なかった浴衣を着る。このひとは、わたしの知らない「わたし」を知っている、のかもしれない。その微かなブレと、不確かなときめきは、八年後、赤沢(岡田将生)に出逢ったあと、リフレインされる。しかし、かつてとは、違うかたちで。「知ってる。わたしは自分の気持ちを知ってる。知ってるのに、初めて、自分の耳で、他人の声で、聞いた。どうして、このひとは、わたしの気持ちを知っているんだろう」。カンナのモノローグは、八年かけてようやく辿り着いたものである。それは八年前の自分に対する答えであり、同時に、たったいまの自分への問いでもある。「想い出はあげませんよ。わたしのものです」と彼女は言った。「ひとつ違えば、違うことばを返すでしょ。少しずつズレができて、違う未来になる」と彼女は言った。そんなカンナに、最新のカンナが答え、そして問いを発している。
これは、多くのラブストーリーで描かれる不器用なふたりの物語ではない。ほとんどの恋愛映画の主人公たちは、男女いずれかが、あるいはふたりとも不器用なキャラクターに設定されている。不器用だから、すれ違う。すれ違うから、邂逅したとき、よろこびが生まれる。そんな定型に充足している。『潔く柔く』の非凡な点は、カンナと赤沢が実は不器用ではないという描写にある。
ひとは、恋をすると不器用になるわけではない。自分の想いを伝えることがいかに困難かということに直面し、あなたは、わたしではない、そのことに気づく。だから、戸惑う。この映画は、こうした本質的な普遍を、誠実に丁寧にみつめ、けれども、ちっとも説明的ではない。観客を信頼している。そう、わたしたちも決して不器用ではない。
「今日は来てくれてありがとう」。ひととひととが向き合うとき、もっとも必要なことばを発することのできる赤沢は、その分、痛手を負っている。これは、多くのラブストーリーで描かれる不器用なふたりの物語ではない。赤沢は、不器用ではなく、それなりにこなれているからこそ、無防備でナイーヴな自分を手ばなせないでいる。だけど、彼はそれを手ばなすべきなのだろうか。人間のパーソナリティは、そのひとがもともと持っているものだろうか、それとも過去に体験したことに由来するものだろうか。いずれにせよ赤沢は赤沢だからこそ、相手に聞こえるのか聞こえないのかわからなくても、「大丈夫。君は悪くない。ゆっくり休め」ということばを放つことができる。聞こえなくても、ことばは放たれる。なぜなら、それは願いであり、祈りだから。そして、わたしは「わたし」の声を聞くことができる。きっと、これは、カンナのモノローグに対する、赤沢の返信だ。ふたりはきっと、意識をこえたところで、こころのことばをやりとりしていたのだ。
朝美(波瑠)に「カンナ、あんた、まだ十五歳だね?」と言われたとき、「ばれた?」と応えることができるカンナもまた、社会性を身につけている。なにかを失って、その失ったものを守るために、鎧をつくりあげている。皮膚をさらすことができない自分を知っているからこそ、その都度その都度何かにフタをするように、あるいは電源をオフにするように、自分だけの鎧を着る。折り合いのつかない自分を、何とか「いま、ここ」の世界と折り合いをつかせるための、とりあえずの鎧。
似たような過去を持つカンナと赤沢は、けれども決して傷を舐め合ったりしない。似ているようで、似ていないことを、ふたりは知っている。罪悪感についての考え方、感じ方だって、やっぱり違う。涙をめぐるやりとりにあらわれているように、カンナは赤沢ではないし、赤沢はカンナではない。あなたは、わたしではない。だから難しい、だから素晴らしい。
柿之内愛実(池脇千鶴)の娘、睦実(大滝愛結)がしゃべりだす奇跡に、ふたりは立ち会うことになる。睦実の「はじめて」に遭遇したわたしたちは、この映画がやはりことばをめぐる物語だったことを知る。
「ありがとう、いま聞けてよかった」とカンナは清正(古川雄輝)に伝える。いま、ようやくハルタの想いは受信された。ことばは、いつ、だれに届くかわからない。けれども、ことばはこれからも送信されるし、贈られつづけるだろう。
あなたは、わたしではない。だから、わたしは、わたしのキスをする。あなたは、あなたのキスをするだろう。キスをするとき、キスをしたあと、たぶん、ことばはいらない。笑いながら、照れながら、坂道をおりていけば、それでいい。
あなたは、わたしではない。けれども、手をのばせば、届かなくても、近くなる。「ひとりにしたくないです」が「ひとりにしません」になる。
あなたは、わたしではない。でも、だから、「ふたり」になれるのだ。