井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その6
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〈日本人と酒と女(1938年6月2日)〉
僚たちは皆二、三年兵の古参者で、引率責任者の私が一番新参者である。彼らから見れば、私は初年兵なのだから、誰一人私に気がねをする者はいない。夜もふけて私が用足しのためちょっと席をはずしているあいだに、どこかへ雲がくれしてしまった。私は引率者としての責任上、ホテルの前に立ち夜明け近くまで彼らを待ったが、その夜は誰一人帰ってはこなかった。
翌朝、寝ぼけマナコで帰ってきた彼らの語るところによると、市内に十間房(じゅっけんぼう)という朝鮮人の遊郭があり、彼らはそこへ泊まってきたのだということであった。このように、旅に出ると必ず酒と女をあさって歩くのは、私たち日本人の悪い習慣である。それも仲間をさそって集団でくりだすために、最近、世界各国、とくに韓国や東南アジア諸国でしばしばひんしゅくを買っているが、大いに反省しなければなるまい。もっともひとごとではない。私もそのなかのひとりなのだが、今にして思えば恥ずかしいかぎりである。(92頁)
〈憲兵の給料(平壌にて)(1938年6月)〉
この町の商人たちの習慣はちょっと変わっていて、私たち憲兵隊の者にかぎり飲食代も日用品代もすべてツケで、給料日になるとゾロゾロと本部経理室へ集金に集まってくる。ある上等兵が「おい○○上等兵、給料を支給するから一円五十銭持って経理室へ来い」といわれ、しぶい顔をして出かけていった。はじめての私は、憲兵隊では給料を渡すのにつり銭を払わせるのかと思ったら、これは飲みすぎつかいすぎで、今月の給料では一円五十銭だけ足りないのだった。
私も憲兵隊へはいってはじめての給料袋を渡された。月をこえて着任したのだからあるいは日割り計算かと思っていたら、案に相違して一ヵ月分まるまるの百十八円が支払われた。私としては生まれてはじめて手にした高額の月給だった。本俸は四十九円九十銭、あとは憲兵加俸と在外手当、それに詰めきり料だった。衣と住のすべてを無料で支給されている私たちの百十八円は、朝鮮道庁に勤めている部長級の給料二百五十円に相当する額だった。(95頁)
〈憲兵としての初任務地である南通では住民の信頼を得ることが先決だった(1938年7月18日)〉
この時点では憲兵隊をのぞき町には一兵も日本軍の姿は見えず、町の内外にはかなりの数の中国側諜者や謀略工作員が潜入していたことは事実であった。こうした状況下であったし、四月上旬徐州作戦のため北上した日本軍将兵が戦勝軍の特権のように掠奪、強姦、放火などの暴虐行為をほしいままにして通過した町だったので、一般住民が全面的に憲兵隊を信頼したとはいえなかった。こうしたなかで町の平和を確立し住民の信頼をかちとるために、兵力の少ない憲兵隊は筆舌につくしがたい配慮と努力をはらった。(102頁)
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