時論公論 「生死を分けた学校の避難経路」2011年08月16日 (火)

西川 龍一  解説委員

東日本大震災から5か月がたちました。これまでに死亡が確認された15000人を超える犠牲者の中には、多くの子どもたちも含まれています。被害を踏まえ、学校の施設をどう整備するべきなのか、文部科学省の検討会議が先月、提言をまとめ、公表しました。今夜は、この提言を踏まえ、学校が子どもたちの命を守るための工夫、特に大きな被害を出した津波への備えはどうあるべきなのかを考えます。

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文部科学省の検討会議は、東日本大震災で津波の被害を受けて建物自体が使えなくなった学校は、再建にあたって高台に移転することや、公民館などほかの公共施設と併設することで、津波避難ビルとなるよう高層化することなど盛り込んだ緊急提言をまとめ、先月公表しました。
地震や津波による学校の被害は、岩手、宮城、福島の3県の公立の学校施設だけで、2000校近くに上りました。被害を踏まえ、学校の施設をどう整備すべきかを示しました。
震災で犠牲になった小中学生と高校生は、岩手県で78人、宮城県で310人、福島県で72人。中には、本来安心していられる場所であるはずの学校で命を失った子どもたちもいます。その一方で、提言が取り上げた学校の中には、震災の直前に見直された避難経路によって、子どもたちを津波の被害から救ったケースがありました。

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沿岸部が潰滅的な被害を受けた宮城県石巻市は、179人の児童・生徒が死亡し、市内にあるすべての学校が被災しました。中でも、もっとも深刻な被害が出たのは、児童の7割が亡くなった大川小学校です。北上川の河口から4キロほどのところにあるこの小学校は、2階建ての校舎の屋根付近まで津波にのまれました。108人の児童のうち、学校に残っていた70人が死亡。4人が今も行方不明のままです。当時学校にいなかった校長を除く11人の教師のうち、助かったのは1人だけでした。

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大川小学校がある地区は、壊滅的な被害を受けましたが、同じように地域全体が津波の被害を受けたところでも、学校で、これほど多くの子どもが犠牲になったところはほかにありません。
11メートルを超える津波が観測された岩手県大船渡市。三陸鉄道の三陸駅に近い越喜来小学校は、被災したもののすべての児童が助かった学校の一つです。海岸から200メートルほどしか離れていないこの小学校を含む越喜来地区は、地震発生から10分後には津波の第1波が観測され、その後押し寄せた津波によっておよそ500世帯が被害を受け、79人が犠牲になりました。3階建ての校舎も屋上の一部を除いて水没しましたが、当時学校にいた71人の児童は、全員無事に近くの高台に避難することができました。

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同じ岩手県の岩泉町にある小本小学校も地区が津波にのまれて校舎が水に浸かり、校庭は流されてきた車やがれきで埋まりました。しかし、校舎や校庭にいた86人の児童は、混乱することなく高台に避難して無事でした。

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実は、3つの学校は、立地条件が極めてよく似ています。いずれも河口に近い川に隣接した場所にあり、校舎は堤防から200メートルほどのところに建てられていました。さらに、3校とも川と反対側には、津波が届かなかった裏山や高台があります。岩手県の2つの小学校の児童や教師たちは、いずれもこうした場所に避難して無事でした。

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何が生死をわけたのか。
越喜来小学校の裏側に通路が残っています。校舎の2階から海抜20メートルほどの避難所に続く県道に直接出られるようになっています。去年11月に完成したばかりのこの通路を使って、今回、子どもたちは避難しました。通路ができるまでは、全員がいったん一階にある昇降口まで降りて川の方向に回り込んでいたため、校舎から避難所までの距離は今の2倍以上ありましたが、昇降口を通ることで、わずか3分ほどで避難を終えることができ、地震発生から15分ほどで、さらに高台にある公民館まで全員が移動できたと言います。
小本小学校も、学校の脇に高台に直接避難できる階段がおととし整備されたばかりでした。この階段ができたおかげで、いったん海側に向かってから国道に抜ける避難ルートが見直されていたのです。
2つの学校の関係者は、いずれも新しい避難経路が決まっていたことで、緊急時に余裕を持って判断することが可能だったと話しています。

一方、多くの犠牲者が出た大川小学校で起きたことを改めて振り返ってみます。石巻市教育委員会によりますと、地震発生の後、教師たちは校庭に児童を集めてから、これからどうするべきか議論を始めたと言います。裏山は、避難先として想定すらしていませんでした。裏山が安全だという声もあったということですが、斜面が急で上りにくいなどという意見が出て、断念。地震から40分もたったあと、水が堤防を越えてくることはあり得ないという意見に従い、児童たちが向かったのは、津波が迫る川の堤防脇にある高台の広場だったと言います。
大川小学校があった地域は、宮城県沖地震を想定した石巻市のハザードマップでは、津波の浸水区域ではありませんでした。それでも川が近いこともあって、一部の保護者の間から、万一の場合裏山に避難できるように通路を整備したらどうかという意見が寄せられていたということです。しかし、学校側から教育委員会に設置を働きかけるといったことはありませんでした。校庭が水に浸かりそうな場合に児童をどこに誘導するべきかもはっきり決まっていませんでした。すぐ近くにある最適な避難場所をいかすことができなかったのです。

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岩手と石巻の違いは何だったのか。学校の設備としては、階段や通路があったかなかったかだけの違いです。しかし、そこには、日頃から津波に備えるという地域を含めた学校の意識の差が如実に表れています。越喜来小学校も小本小学校も津波の想定区域の中にあり、避難階段などは、もともと地域の人たちの強い要望で設置されました。巨額の費用をかけなくても通路一つで子どもたちの安全確保につなげていたのです。
こうした違いが、被災後の学校の取り組みにも現れています。
越喜来小学校が授業を再開するため間借りしている大船渡市立甫嶺小学校。今回、津波の被害はありませんでしたが、越喜来小学校側の提案で、すぐに避難経路を見直しました。これまで、校庭に集合して、海側にある正面の校門から避難することになっていましたが、児童の出口を裏の昇降口に改めました。そして裏山に上る山道を避難路にすることを決めたのです。子どもたちが上りやすいよう市の教育委員会に要請して、木製の枠を使った階段も整備しました。費用は100万円ほど。夏休み明けには、これを使って津波を想定した避難訓練を計画しています。

厳しい財政事情の中、今ある学校でも子どもたちを守らなければなりません。被災地以外の一部の学校でも、避難マニュアルの見直しが始まっています。最適な避難場所となりうるところをどうすれば最大限に活用できるのか。不幸にして多くの犠牲者を出した学校と、一人も出すことのなかった学校。その違いを考えるなかで得られた教訓を、子どもたちの命を守る方策としていかしていくことが求められています。

(西川龍一 解説委員)