DXMメモ

生まれたからには、生きて再び生まれねばならぬ。このブログは更新を終了しました。

前日の閲覧数
137PV
+SHARE
Twitter Facebook RSS メール

生成論3

存在論を作用として捉える日本人独自の生成論が西田哲学には貫かれている。しかしどうしても観念論の系譜であり、時代がかった存在論に引きずられている。そこに西田哲学の限界がある。もっと日本人の独自の思考にフォーカスしていたならば、ポイエーシス的という表現者の行為に限定すること無く広く日本人の心に共通する作用原理を結晶化できていたかもしれない。もしかしたら西田はドイツ観念論を誤解していたのかもしれない。ヘーゲルは基督教社会から見たらば、ギリギリ非異端であるが、限りなく汎神論に近づいている。日本人の考える普遍は地上の事であるが、キリスト教の考える普遍は神であり地上ではない。地上は滅ぼされるものであり、地上の善き行いは神の国にゆくための準備である。だから汎神論のスピノザは完全な異端だ。

日本人は山、川、海に神を見出すが、基督教社会から見たらそれは原始的な異教にすぎない。神は愛という名のもとにそのようなものたちの棲む土地を滅ぼすため再来するというのがキリスト教だ。

西田哲学の自己自覚の底に普遍を見出す精神には、存在を自己再生作用と見ている日本人独特の思考が深く関係している。

日本人はよく個人の領域を超えて内なる世界の境界を設ける。それによって内と外を区別して世界を構築している。すなわち日本人にとって再生され続けているのが内(ウチ)であり、再生が及ばない領域が外(ソト)すなわち恐ろしい八百万の神々や祖先、怨霊、霊の棲む自然の世界である。

西欧で発展した錬金術はアルコールなどの純粋物を抜き出す方向で発展した、そこがいかにも中東以西の文化らしい。日本では蒸留酒が発展しなかったが、錬金術に代わって発酵術が発展した。味噌醤油、酒にかぎらず、火薬原料からフグ肝の毒抜きまで発酵で解決した日本人の固有の洞察力は生成論に関係する。因果論に囚われる限り、純粋な原因に遡ることに学術は発展するが、変化誘導には発展しない。日本人の感性は見事に変化誘導に適している。

日本人が考える自然や存在は伝統として再生作用と常に関係している。日本人にとって正月が特別なのも、桜が特別なのも延長された内なる世界の再生に関係している。神社を拝んだり寺院をめぐるのも過去との縁を切りあたらしい境地で生まれ変わるためである。再生される内なるものは、家の中に満ちているエネルギーのようなもので、先祖から頂いたものであるという感性は、現代人の心のなかにもある。
ジャンル:
ウェブログ
キーワード:
愛という名のもとにドイツ観念論

あわせて読む

人気記事ランキング

  1. 生成論
  2. 生成論3
  3. 203高地の日
  4. フェースブック
  5. 落陽
  6. 誘導する力
  7. 分散化でかえって休めなくなる
  8. 映画「桜田門外ノ変」
  9. ステファニー・ジョアン・アンジェリーナ・ジャーマノッタ
  10. 薄汚い近臣

この記事のツイート

コメント

1年前の記事