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【Vol.4】
2005.01
ヨーロッパから見た「最初の日本人像」
−マルコ・ポーロ『東方見聞録』に見る日本のイメージ
教授 佐佐木 茂美
『東方見聞録』とは
マルコ・ポーロが書いた『東方見聞録』を知っていますか? 17歳のイタリア人少年マルコが、商人の父、叔父とともに故郷のヴェネツィアを離れて中国へ旅立ち、再びヴェネツィアの地に戻ります。その旅程と中国滞在の間の「見た事」「聞いた事」の25年間分を書きつけた著作(1298年作)のことです。
『東方見聞録』の中の「日本=黄金の国」は、ヨーロッパ人による日本についての最初の記述として有名ですね。また『東方見聞録』は蒙古(モンゴル)の2回の襲撃(文永の役と弘安の役)を、蒙古の支配下の中国(元)の国王クビライ・ハーンの軍が京都まで攻め上った等、中国側に有利な解釈になっています。(実際には九州北部の玄界灘で嵐に遭って退散しています。)
日本人は人食い人種?
マルコは、日本人の肌を色白とし、白人と理解したようです。そのうえ日本人は「人食い人種」、「人間の肉」が「最も美味」と賞味する、と記しています。もちろんマルコは日本に来たわけではありませんから、当時の執権・北条時宗が言う「神風」(嵐をたとえた表現)に追い返された中国人たちの気持ちがこの表現になったと受け取れるでしょう。
「日本人=人食い人種」としている文献はない、と言われています。この点、歴史家もマルコ・ポーロの研究家も沈黙を守っています。この部分は、敗戦のモンゴル人たちの「噂」(流言)を採用したマルコの生きた証言、と採るべきではないでしょうか? その噂には、本当らしさプラス情熱的な言説、つまりリヴェンジが含まれていた(王侯や政治家とその周辺の証言により成り立った「歴史」は片手落ちだ、と考えてもよいでしょう)。マルコは母語イタリア語、当時の国際語フランス語はもちろん、トルコ語、モンゴル語、中国語を操ったらしいのです。傍らにいるモンゴル人たちの話を、興味深く聞き取ったとしても不思議ではありません。
「最初の日本人像」誕生の背景
フランス国立図書館所蔵の『東方見聞録』では、黒人(インド人)たちが犬の顔と頭をもった「人食い人種」の姿で描かれています。
Bibliothèque Nationale de France, f. fr. 2810, fol. 76, v
白人で「人食い」、「人肉」を「最高に美味」とする未開な蛮族、残忍な人種という<最初の日本人像>が出来上がるためには、ヨーロッパ人としての視点も考えられます。
じつは、ギリシャの古い言い伝えに<不思議なインド>という思考パターンがあります。ヨーロッパから東の地の果てはインド、その南東の孤島に残忍な人食い人種が住むとして、この好奇心をかき立てる遥かな東方を「インドの驚異」と呼びました。
『東方見聞録』の中世のある有名な手書き本(下記写真参照)は、イラスト付きで、黒人(インド人)たちが「人食い人種」の姿(犬顔、犬頭)で描かれます。この14世紀初めの手書き本は、彼らに衣服を着けさせ、胡椒栽培者として描いています(胡椒はインドの特産物)。
インドより東の地理が明らかになるにつれ、それまでの<不思議なインド像>を真似て、「日本の驚異」という新しい思考パターンが発生します。「黒い人食い=インド人」と区別し、「黄金の国」に住む「白い人食い」がこうして<最初の日本人像>として西方に発信されたのではないでしょうか?