シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】

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第5話「商人の才覚を活用」

信長と楽市楽座

武士たちは戦国時代にリーダー学を身につけた。家名をいかにあげるか、鋭敏な観察力と幅広い洞察力を磨き、まず勝つために専念した。しかし、やがて人心をつかむ正しい振る舞いを学ぶようになる。

戦国武将たちはまず戦う集団を組織した。信長はその典型で「桶狭間の戦い」では情報戦に力を入れ、今川義元の本陣深く入り込み、勝利を挙げた。その背景には秀吉が仕組んだ謀略があった事が次第にわかってきている。「長篠の合戦」で武田軍を破ったのは鉄砲をいち早く手に入れ、訓練を積んでいた成果である。

信長は天下を取るに連れ、世事に通じ、経済がわかる商人たちを重用し始める。「楽市楽座」の呼び名で始めた市は全国からの物資の到来を呼び、町に賑わいをもたらした。商人たちの才覚が人々を集め、暮らしを豊かにすることを知っていたからに他ならない。

商人たちも武士たちに伍してリーダー学を学ぶ必要を感じ始めていた。建前としての身分はともかく、経済や経営を熟知している豪商は見識、教養でも武士と同等以上のものを身につける必要があった。単なるビジネスレベルから経世家としての見識を迫られたといってもよい。

商人を活用した秀吉

秀吉は信長に学んだ。「本能寺の変」を経て、天下を握った豊臣政権について、みよう。

秀吉は1583年から大阪城と城下町建設に取り掛かる。

第一期は各藩の大名や武家の屋敷建設と国許からの商人の呼び寄せ、そして平野や堺など大阪近郊からの商人の移住。人口は20万人に上った。

ついで第二期は1598年、城内に堅固な要塞を作り、敷地内にあった町屋敷や寺を今の船場に移転させた。また、天満にいったんは誘致した本願寺を京都・堀川に移転させ、跡地に新市街地を創った。現在の天満である。

こうして城内、船場、天満をベースに天下の台所作りが進んだ。経済に明るかった秀吉は商人の力を利用することを前提に、ことを進めたのだ。『秀吉神話を覆す』(藤田達生著、講談社現代新書)によると、「秀吉の出自は百姓ではなく、差別を受け遍歴を繰り返す非農民である可能性が高い。このため伝統的な武士道徳からは自由だった」という。

家康も踏襲

1615年の「大阪夏の陣」以降、徳川幕藩体制は強固なものになった。この年、年号は元和と変わった。元和堰武(げんなえんぶ)と称し、武力をせき止め、平和が始まるという祈りをこめた。

国内から戦争は事実上なくなった。しかし、「大阪夏の陣」で戦場となった大阪の復興は商人の力を借りなければ進まなかった。しかも町年寄に事実上、自治を任せたから、商人たちの力はますます拡大した。仕上げは伏見城下にいた伏見商人を大阪へ移動させ、大阪商人とすることだった。

1619年、大阪城の再建がなると、夏の陣で中断していた道頓堀をはじめとして堀川の開削が進んだ。つまり開発で財を成した商人たちが生まれた。

先頭集団として武力を持つ武士の役割は建前としては残る。しかし、本音の部分では行政官以外は存在意義を失う。

しかも、米本位経済のもとで武士は米を俸給としてもらっているから、商人の手を借りて換金しなければならない。江戸には、旗本や御家人を相手にする米扱い業者で、実質的には金融業者である「札差」が誕生した。やがて米を担保に前借も始まる。

若干、時代が後先になる。家康は、1590年8月1日に江戸に入るや、15日には町年寄りに樽屋藤左衛門、奈良屋市左衛門を任命している。後に喜多村彦右衛門がこれに加わった。その役割は町奉行の下で調整一般、商人や職人の統制、町人の調査や紛争の調停などを担当した。これも秀吉に倣ったものと言えるだろう。

(誕生と系譜 第5話了、桐山)

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