人情演劇「佐賀にわか」を芸術的に確立した第一人者の筑紫美主子(ちくし・みすこ、本名古賀梅子〈こが・うめこ〉)さんが、10日午前7時7分、肺炎のため佐賀市の病院で死去した。92歳だった。通夜は11日午後7時、葬儀は12日午前11時から同市東佐賀町6の21のリバース典礼殿東佐賀で。喪主は長男秀恒さん。
亡命ロシア人の父と佐賀出身の母の間に北海道旭川市で生まれた。4歳の頃から踊りを習い始め、14歳で日本舞踊の師匠に。夫の故・儀一氏の指導を受け、しゃれや滑稽を身上として佐賀弁で掛け合いながらアドリブで進める演劇、佐賀にわかの道に入った。
1941年に自ら座長を務める一座を結成。戦況が厳しくなり一時解散したが、敗戦後に一座を再編。九州各地のほか、東京、名古屋でも興行し、人気を博した。