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  自殺した藤圭子と「お母さんに会いたい」と歌った宇多田ヒカル

                                          2013年09月01日  15:24

       


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  藤圭子と宇多田ヒカル 

 十五、十六、十七と
 私の人生暗かった

 藤圭子の名作「圭子の夢は夜ひらく」のワンフレーズだが、このフレーズがぼく
 には忘れられない。藤圭子という、当時無表情な美少女が歌うと、何とも言い
 難い哀愁があったものだ。

 『人生、暗かった』と歌いながらも、まだ15〜17歳と期間を限定しているところ
 に、かすかな救いがある。
 そして、この詞から、次の十八からの人生はどうだったのか、もしくはどうなるか
 を想像させる・・・・・・何かドラマの続きでも夢見させてくれるような刺激を持つ
 歌詞だ。

 
● 30代の男性と6年同居
 この曲の作詞家は石坂まさをさん。
 以下、週刊文春9月5日号に藤圭子の自殺の周辺に関して、詳しい記事が出た
 ので、抜粋しながら、書いていきます。

 藤圭子は、石坂さんのもとで、18歳でデビューすることになる。彼女のキャッチ
 フレーズが「演歌の星を背負った宿命の少女」。少女で18歳というのもなんだ
 かなということで、一つ年をごまかして十七歳ということにしたという。

 石坂氏とともに藤圭子のデビューを手がけた音楽プロデューサーの榎本襄氏は
 こう語る。
 「初めて会ったとき、藤圭子は石坂さんの家で、短パン、ノースリーブ姿で麻雀
 をしていた。痩せてて子供みたいでさ。ところが唄わせるとリッチな低温でドス
 の利いた圧迫感のある声を出す。これは凄い歌手になるとすぐに判った」

 1969年に「新宿の女」でデビューした藤圭子は、瞬く間にスターダムを駆け上が
 る。ファーストアルバム「新宿の女」からセカンドアルバム「女のブルース」まで、
 オリコンで42周連続1位という空前の売上を記録した。
 当時の彼女は70年代を体現する歌手として、圧倒的な存在感を放っていた。 

 その藤圭子が自殺した。(本名・阿部純子 享年62)
 「ドーン」
 8月22日午前7時、西新宿の高層マンション前の道路で喧騒を切り裂くような
 異様な音が鳴り響いた。

 「驚いて路上を見たら、痩せた白髪の女性が倒れていました。頭のあたりには
 5〜60センチくらいの血だまりができていた」(住民)

 藤圭子が亡くなった現場のリポートによると、以前は黒髪が印象的だったが、
 白髪になってすっかりやせ細り、以前とは別人のような容姿になってしまった
 という。そのため、30代後半の知人男性M氏と約6年同居していたにもかかわ
 らず、藤圭子に気づいていた住民はほとんどいなかったという。

 同居していたM氏も、藤圭子の心の痛みを救うことはできなかったのか。
 単純に考えると、宇多田ヒカルという大活躍の天才シンガーソングライターの
 母親なのだから、幸せの中に居てもいいように思えるのだが、逆に心の病
 を抱えてしまったようだ。

 同居していたM氏を知る芸能関係者が語る。
 「M氏は三十代後半で体格はいいけれど物静かな人間です。元々は藤圭子
 担当のマネージャーでした。藤さんは目を患っていて、一人では歩行が困難
 で付き添いが必要だった。彼女に気に入られていたM氏が付き人として一緒
 に暮らすようになった。藤さんの自殺の一報を聞いて、M氏は泣きじゃくってい
 たそうです」

 近所に住む70代女性は「2人は男女の関係ではありません。母と息子ほど
 年が離れていましたから。藤さんの介護をしていたようです」と説明した。 

 藤さんはM氏を家族のように信頼していたようで、元夫の宇多田照實氏(65)
 から世話を頼まれていたとの情報もある。男性自身も警察に「恋人関係では
 ない。寝室も別」と話している。

 
● 圭子よりも金魚
 藤圭子の家計は目が弱く、母親も盲目で長年付き人と生活を共にしてうた。
 兄の三郎氏も加齢とともに視力が弱くなったといい、藤圭子も同様だった。
 宇多田ヒカルの「光」という名前は、圭子が娘の眼にいつまでも光があるように
 との願いを込めて付けたものだという。

 ところで、藤圭子は何度も結婚と離婚を繰り返している。
 1971年の人気絶頂の中、前川清と結婚したが、1年後に離婚した。
 「じつは結婚前から藤圭子は『前川は二人でいても金魚ばかりを見て話をしてく
 れない。結婚をやめたい』と、悩んでいた。1年も続いたというのが、逆に意外
 でした」

 『前川清は、藤圭子よりも金魚のほうに興味があったのか?』
 と、思うと何だかおかしい。もしくは、
 「金魚にだんなを取られてしまった?」
 まあ、そんなことはどうでもいいが・・・・・・。

 藤圭子(当時28)が引退を宣言したのは1979年10月17日。
 記者会見で藤は「やめる理由はあくまでも私の内面の問題」と説明して、「まっ
 たく歌をやめます。間違ってもカムバックすることはありません」と決意を語った。

 前川清との離婚スキャンダル以降、人気が下降気味だったとはいえ、年収は
 5000万円以上。不可解な引退宣言に、阪神の小林繁投手との熱愛、事務
 所とのトラブルなどさまざまな噂が流れた。

 
● 二人の仲を引き離そう
 所有していたマンションを売却し、億単位の金を持ってニューヨークで生活を
 始めた。そのころに出会ったのが、宇多田(照實:てるざね)氏。
 1982年に藤圭子と照實氏は結婚する。当時の照實氏は翻訳やガイド業を
 細々と行う男性だったという。
 翌83年に長女、宇多田ヒカルが誕生する。

 藤圭子と母親は強い絆で結ばれていたが、宇多田照實氏の存在が母娘の間
 に亀裂を生じさせることになったという。
 藤圭子の兄で元歌手の藤三郎氏が語る。

 「母親は途中から宇多田氏を良くは思わないようになっていましたね。きっかけ
 は宇多田君の金銭問題だった。宇多田君は借金があったようで、おふくろに
 「金をくれ、ないんだったらマンションを売って手配してくれ」といいい、難色を示
 すと「マンションだって圭子が稼いだ金で買ったんだろ!」
 と怒鳴る。

 すごい喧嘩になったのです。姉なんて、宇多田君に突き飛ばされた。
 結局、おふくろはマンションを売って、三千万ぐらいを宇多田君に渡したのです。
 一方で宇多田君は圭子に「お前は母親に金を取られている」、「お母さん、
 本当は目が見えているぞ」等と吹き込んで。二人の仲を引き離そうとしたので
 す。

 「圭子が宇多田君と上手くいかなくて、おふくろのところへ逃げ帰ってきたことが
 あったんです。その後、圭子は体調を崩して入院した。そこに宇多田君が現れ
 て、連れていこうとしたけど、離婚して身内じゃないからと追い返されたんです。
 そうしたら、今度は勝手に籍を入れた上で、「亭主だから」と圭子を病院から連れ
 出しアメリカに帰ってしまったんです。

 二人は何回も離婚をするけど、すぐに宇多田君がお金に困り圭子のところに戻っ
 てくる。それの繰り返しだった。」

 
● 娘の歌手デビュー
 同じころ藤圭子は小学生のヒカルを連れて、音楽関係者を巡るようになって
 いた。藤圭子はヒカルの歌声が入ったデモテープを聞かせ 「ヒカルは天才なの。
 CMとかで使えない?」と相談を持ちかけていた。 

 「せめてヒカルちゃんが中学を卒業するまで待ったほうがいいと諭した」
 (榎本襄氏)というほど、その売り込みは激しいものだった。

 1998年9月6日に日刊スポーツで、宇多田ヒカルの歌手デビューが記事と
 なっている。
 そのタイトルは、「藤圭子の娘 歌手デビュー」「日米同時に”夢は12月開く
 「15,16,17と私の人生明るく」 

 宇多田ヒカルは、記事のなかのインタビューでこのように答えている。
 「両親の音楽に対する情熱をずっと見てきました。母とは歌についてよく話して
 います。教えてもらったことは絶対に忘れない。世界のトッププロデューサーや
 アーティストと
 一緒に仕事をしたい」

 プロフィールには、「本名宇多田光。1983年(昭和58)
 7月19日生まれ。ニューヨークのハイスクール在学中。芥川龍之介、森鴎外、
 夏目漱石などが愛読書で、趣味は絵をかくこと。
 身長は158センチ」と、載っている。
 
 愛読書が、芥川龍之介、森鴎外、夏目漱石というのは、ずいぶん古典的な小説
 が好きなのだという印象が強いが、現在はどのような本を読んでいるのだろう? 

 藤圭子と照實氏が繰り返した結婚と離婚は計6、7回とされる。
 そのうち何回かは、宇多田照實氏が勝手に籍を入れていたこともあったと
 いう。
 娘の宇多田ヒカルは、2006年の6月にテレビ番組で両親について、
 「六回も離婚と結婚を繰り返して、ワケ分かんないですよ」と語っていた。

 
● 母の娘であることを誇りに思います
 宇多田ヒカルに「Be My Last」(05年発表)という曲がある。
 その中で「母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日が
 くるの?」と、何度も離婚する藤さんに訴えるように歌っている。 

 そんな、つらく寂しい思いは幼い頃からだった 。

 ニューヨークでの生活を安定させるため、日本で場末のキャバレーなど地方
 回りをして稼ぐ藤さんは、娘の知らぬ間に仕事へ出掛けていた。宇多田は
 「Letters」(02年発表)で「いつも置き手紙 ああ夢の中でも電話
 越しでもああ声を聞きたいよ」と歌っているという。


 宇多田の休業前ラストアルバムに収録されている「嵐の女神」(10年発表)
 は、タイトルそのものが藤圭子だ。

 嵐の女神 あなたには敵(かな)わな い
 と歌い始め
 お母さんに会いたい
 分かり合えるのも 生きていればこそ 今なら言えるよ ほんとのありがとう
 と、まるで今回のことが起こるのを恐れていたかのような歌詞もある。

 宇多田の周辺は「彼女はママのことが大好きで、歌手としても最も尊敬して
 いた」と語った。

 宇多田ヒカルは、8月26日、死去した母親の藤圭子さんについて、公式サイ
 トで「母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ち
 でいっぱいです」とコメントを発表した。

 藤圭子の死について、宇多田ヒカルがコメントしたのは初めて。 

 宇多田は藤圭子が長年「精神の病」に苦しめられてきたことを明らかにし
 「母が長年の苦しみから解放されたことを願う半面、最後の行為はあまりに悲し
 く、後悔の念が募るばかりです」と、つらい心境を語った。

 その上で「子どものように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、
 誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思うとき心に浮か
 ぶのは笑っている彼女です」と、生前の姿に思いをはせた。

 ぼくは、藤圭子に宇多田ヒカルの曲を歌ってほしかった。逆に、宇多田ヒカルに
 たとえば、「圭子の夢は夜ひらく」を歌ってほしかった。それを、母・娘で
 同時に出演して歌謡ショーでやってもらえたら、とひそかに願っていたのだが、
 それもかなわぬ事となってしまった。 

          

 参照:宇多田ヒカル「お母さんに会いたい」幼い頃から寂しさ
     週刊文春 2013年9月5日号
 関連:大金所持の謎・藤圭子の夢はいつ開く?
 
  
  


    





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