「家入一真流・メール返信ライフハックがヒドいけど素晴らしい」に続いて、家入一真論をもう少し。
「自由」な家入さん
家入さんには「自由」というキーワードが紐づいています。ご本人も「もっと自由に働きたい とことん自分に正直に生きろ。」という著書を出版なさっていますし、「Liverty」という組織も運営しています。印象としても、なんだか自由な人だなぁ、と観察している人も多いでしょう。
しかし、自由であるということは、ご存知のとおり困難なことです。「自分は自由である」と断言できる人は、経験上、そうそういません。
家入さんは自由について、このようにツイートしています。
思考や行動を他の何かに依存せず、そしてまた自分も依存されないこと RT @999Tyo: @hbkr 家入さん。自由って何ですか?
— 家入一真 080-4443-1800 (@hbkr) June 28, 2013
自由とは「依存」という概念と結びついているということですね。何ものにも依存しなくなったとき、人は自由になれる、と。
倫理感がないと、自由になれない
ぼくは、多くの人が自由になれないと嘆くのは、健全な倫理観を育てることをしてこなかったからだ、と考えます。
この話をするときにいつも例に出すのは、里親制度をつくるきっかけを与えた、菊田医師という「犯罪者」の存在です。
様々な事情から人工妊娠中絶を求める女性を説得して出産させる一方で、地元紙に「赤ちゃん斡旋」の広告を掲載し、生まれた赤ちゃんを子宝に恵まれない夫婦に無報酬で斡旋した。
1973年に告発される。出生証明書偽造で罰金20万円の略式命令、厚生省から6ヶ月の医療停止の行政処分を受ける。
しかし、この事件を契機に、人工妊娠中絶の可能期間が短縮され、1987年には養子を戸籍に実子と同様に記載するよう配慮した特別養子制度が新設された。
菊田医師は子どもの命を守ることが正しいと考え、自ら望んで法を犯しました。外部的に与えられる道徳=法に依存せずに、自分の倫理観に従って行動し、それによって世の中を変えたわけです。この態度は、まさに家入さんの言う「自由」に該当するように見えます。
菊田医師に見るように、ぼくらは本質的に「法を犯す自由」すらも持っている、自由な存在です。
それこそ、ぼくらは人を殺すことだってできます。実際、殺人事件は日々起きてますよね。「犯罪者」の一部は、自ら「法を犯す自由」を享受することを決意し、覚悟した「自由な」人々です(多くは、そういう覚悟なしに罪を犯しているように見えますが)。
しかし、「法を犯す自由」があるとはいえ、ぼくらの多くは「法を犯す自由」を享受することはありません。ぼく自身も、特段この自由に手を付ける必要性を感じていません。
それは「”法律があるから”悪いことをしない」というよりは、自分の倫理観をもって善悪を判断して行動した結果、自然と行為が法律の範囲で収まっている(「”悪いことをしないから”、法律を守る」)、という順番です。
何が善くて何が悪いのかを自律的に判断できるようになれば、人は自由な存在になれます。周囲の人がなんと言おうとも、法律でどう決まっていようとも、自分が正しいと信じることを貫徹できれば、その人は「自由」に一歩近づきます。
逆に、何が善くて何が悪いのか、という判断を「外注」する人は、ご想像のように決して自由になれません。空気を読んで生きることになるでしょうし、理不尽なルールも盲目的に厳守することになり、空気やルールを違反する人に私刑を下すようになります。
対談のなかでも話したのですが、家入さんはちょっと見ると「倫理観のないアナーキーなおじさん」に見えますが、それはまったく逆で、強い倫理観を持っている人です。何が善くて何が悪いのかを、自分の頭で考えつづけている人です。そうでなければ、あんなに自由に振る舞うことはできませんから。
自由になりたいという願望を抱く人は、倫理観を磨いてください。「なぜ人を殺してはいけないのか」や「うさぎを狩って殺して食べた話をブログに書くのはいけないのか」などなど、答えのない問いに向き合ってください。そうした修行によって、人は「思考や行動を他の何かに依存」しないようになります。
自由のフロンティアが広がっている今だからこそ、倫理観を磨くトレーニングをすべきだと、ぼくは思うんですよね。この夏大量発生した冷蔵庫に入る若者たちは、まさに自由と倫理の境目であえいでいる人たちとも取れます。彼らに健全な倫理観があれば、安易な過ちを犯すことはなかったでしょう。
関連本は池田晶子。この本には、こういった話がふんだんに書かれています。
この校則は破るしかないと決めたなら、それだけの覚悟と責任でもって、破ればいい。なぜなら、それが、君が本当にしたいことだからだ。君が君の人生で本当にしたいことを、君の自由で決めたのだから、規則を破ることの報いとしての、「罰」を受けることにだって、決して悔いなどないはずだ。