奨学金問題続き。色々面白いご意見をいただいております。
・狂った日本の奨学金制度:大学卒業のために「720万円の借金(利子付き)」を背負うのは自己責任?
・やっぱり、奨学金問題は自己責任ではない:ご意見に反論いたします
努力は「恵み」の産物
@ld_blogos @IHayato 奨学金は自己責任です。 自分は、4年間新聞奨学生で働きながら学費を稼ぎました。 新聞業務と学校と課題で睡眠時間が3時間くらいで、遊ぶ時間も日曜日の夕刊が無い時くらい。 それだけの苦労を他の奨学金借りた奴らはしてるのか?と疑問に思う
— れぽた@黒の契約者 (@repota_cbr) October 11, 2013
この種の「苦労」「努力」にまつわる議論もたくさん見受けられました。奨学金を貰うほど貧乏なヤツは、努力してそれを乗り越えるべきだ云々。
大前提として、努力というものは「余裕」がないとできないものであることを認識すべきです。今、みなさんが何かについて「努力」できているとしたら、それは相当、金銭的に、人的に恵まれていると思ったほうがいいです。
大学の話と関連づければ、ぼくは高校時代、塾にも通わず、教材もネットで無料のものを調達するようにし、かなり低コストで早稲田政経に合格することができました。ぼくはかなり「努力」したと自分でも思います。
…が、それはぼく自身が金銭的に恵まれていたからできた「努力」であることは、まず間違いありません。振り返れば、ぼくは中学入学時に、当時25万円以上するPCを、親に買ってもらいました。あの当時は常時接続もなかったので、通信費も毎月1〜2万円払ってもらっていたはずです。ぼくが育った家庭は、その程度には裕福だったのです。
さらに振り返ると、ぼくが「努力」することを覚えたのは、吹奏楽部での経験でした。友人、教師に恵まれ、「自分は努力すれば上手くなるんだ」という事実を、肌身で知ることができました。部活というものはお金が掛かりますから、中には、家庭の経済的事情でアルバイトをしなければならず、途中で退部していく仲間もいました。ここにおいても、うちの家庭は十分に裕福だったのです。
ぼくは塾に行かなかったので、かなり孤独な受験生でした。低偏差値の高校だったため、ハイレベルな大学を受験する仲間も見つかりません(高校創立以来、早稲田政経に受かったのはぼくが初めてでした。マーチレベルでも大喝采)。ぼくが孤独に耐えることができたのは、安心して過ごすことができる家があり、自分を認めてくれる仲間、親たちに恵まれていたからです。もっと振り返ると、孤独に耐える力は、今は亡き祖父がぼくをたっぷり愛してくれたからなのかな、とも思います。詩的にいえば、死んだじいちゃんは、今もぼくのなかに生き、心の支えになっています。
というわけで、ぼくはとても恵まれた人生を歩むことができたので、こうして日々努力することができています。ホントに、運がよかったです。
努力とは、運や成功体験に恵まれて、その後にはじめて「できるようになる」ものです。健全な努力の背後には、「私はこれを達成できるんだ」という強い自己肯定感がある、ということです。それは生まれながらに持っているものではなく、時間を掛けて育まれるものです。
@IHayato なんで「最も努力しない人間」でもシアワセに暮らせるような仕組みを作らなきゃいけないのよ。そんなの破綻するに決まってる。 こういう学生が生活保護とか受給するのかなぁ。 なんで真面目に働いてる者が、人並みに努力してきた者が、そんなのを支えなきゃならんのよ?
— にぃと☆先生 (@2110_) October 11, 2013
その意味で、この人の言葉を援用するのなら「最も努力しない人間」を「ちゃんと努力できる人間」に育てていくことを、社会として目指すべきです。「こいつは努力できない人間だ」と切り捨てるような社会の方が、よほど破綻に近いとぼくには思えますね。
努力できない人がいたら、それは彼らが「恵まれてこなかったから」と考えるべきです。その裏、自分が努力できていると思うのなら、それは自分が「恵まれてきたから」と考えるべきです。それがほんとうの話ですから。
「オレは努力できた、だからお前らは怠けている」という凶暴な論理は、その人がどういう「恵み」を受けて育ってきたかを100%無視しています。
また、これは、その人なりの努力を一方的に評価する論理でもあります。「オレは努力できた、だからお前らは怠けている」と語る人は、自分が正しく、相手が間違っていると確信している人です。
他人に努力を押しつけ、怠惰を罵る人は、二重の意味で傲慢といえるでしょう。
「オレは努力できた、だからお前らは怠けている」という論理は、「恵み」の循環を断ち切るものであることも指摘したいです。
「オレは努力できた、だからお前らは怠けている」と考える人たちは、恵まれない他人のために、自分のリソースを割くことがありません。だって「努力」は自己責任ですから。なんで怠け者の面倒を見なくてはならないのでしょう?
一方で、自分が享受してきた「恵み」に自覚的な人たちは、自分が受けてきた「恵み」と同じもの、それにもっと価値を乗せたものを、未だ恵まれない人に与えようとします。自分が脈々と続く「恵み」の循環のなかに存在していることを、彼らは自覚しているのです。
これは人生観の問題です。
冒頭で引用した方も、「それだけの苦労を他の奨学金借りた奴らはしてるのか?と疑問に思う」と語るのではなく、「自分はたまたま運がよくて苦労を乗り越えられたから、乗り越えられない人たちを助けようと思う」と語ることはできます。
日本は豊かな国ですから、多くの人が「自分は恵まれてきて、今の状態に達したんだ。だから、恵まれない人たちに対する義務があるんだ」と感じることができるようになれば、すぐに社会はよくなると思うんですけどねぇ…。