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井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その5

〈憲兵学校について(1938年2月15日)〉
 
 
 二月十五日、午前中に形通りの入学式が行なわれ、いよいよ憲兵の教育がはじまった。学校の正式呼称は東京陸軍憲兵学校教習隊である。教習隊長は長友次男憲兵中佐で、第一中隊長が岸銀次郎憲兵少佐、第二中隊長が徳田豊憲兵少佐、私たちの内務班長は一色千太郎憲兵軍曹、班付下士官が高野守憲兵伍長であった。この学校は昭和十二年七月三十一日、勅令第三百七十一号陸軍憲兵学校令第三条および第七条にもとづき開校されたもので、憲兵上等兵および憲兵下士官に必要な学術を修得させるのが目的であった。学生はすべて教習兵と呼ばれ、学習期間は本来一年ということになっていた。しかし戦局の進展が急を告げていたためか、私たち第一期生の教育期間はわずか三ヵ月ということで、一年分の教育量をこの間につめこもうというのだから、その教育は猛烈をきわめた。   
 
 学校形式の教育を受けるようになったのは私たちが最初である。それ以前の憲兵上等兵教育というのは、各連隊から選抜した憲兵候補兵をもよりの憲兵隊へ丁稚小僧のようにしてあずけ、教育したものらしい。進級の遅い憲兵科では、通常上等兵を六、七年も勤めなければならなかった。このため、定年までに准尉まで進級できればオンの字だった。もちろん下士官から将校へ進級する制度はあったが、これをパスするのは至難のわざであった。むしろ甲種学生といって他兵科の将校が現階級のまま転科してくる制度を利用するものが多かった。こうした連中もわずか一年間の憲兵教育をうけただけで実務の経験は皆無、したがって各分隊では分隊長である中、大尉より経験の古い准尉や古参下士官が中心になって隊務をきりまわしているのが実情だった。   
 
 憲兵は一人一人が個々に陸軍大臣に直属し、他兵科とはその制度において一線を画していた。憲兵伍長以上はすべて陸軍司法警察官という身分をもち、独立して捜査権を執行する権限をあたえられていた。したがって、軍隊としての統制上の階級はあるものの、司法警察官という権限においては、将校下士官を問わずすべて同格ということになっていた。また憲兵は、必要ならば陸軍のみならず海軍にまで捜査権を行使することができた。戦時中は内務省警察や外務省に属する領事館警察にいたるまで指揮下に入れ、対戦国の国民にまで警察権を執行した。もちろんこのように絶大な権力をもつ兵力を無制限に増強することは、弾圧政策に利用されたり、あるいは革命の原動力となる危険が潜在していた。そのため昭和十二年の前半までは日本全軍の憲兵兵力は九百九十九名以内と定員を制限されていたのである。しかし侵略政策を遂行しようとする一部軍首脳、とくに陸軍軍閥は大陸戦線の拡大を口実に憲兵兵力の急激な増強をはかったものと思われる。そしてその第一陣が私たちだった。   
 
 さて、入学式を終えた私たち国内および全在外部隊から選抜された総員約六百名ほどは、翌二月十六目から言語を絶する猛訓練を受けることになった。毎日の教育は、午前中は柔剣道、拳銃操作、馬術、捕縄術、体術(合気道と空手を合わせたようなもの。捕縄術は犯人逮捕術)、午後は憲法、刑法、刑事訴訟法、裁判所構成法、陸、海軍刑法、軍法会議法など、民法と商法をのぞくあらゆる司法関係法規を教育された。午前中の武術教育でクタクタになった体で、午後は耳なれぬ法律用語でむずかしい講義をきくのだから、まったく血の出るおもいだった。私は午前と午後の教育を入れ替えたほうが合理的だと思い、なぜこのような不合理な教育方法をとるのか、班長の一色軍曹に尋れてみた。すると、少しぐらいの披露での回転がにぶるようでは憲兵として役にたたないので、学校では意識的にこの方法をとっているのだということだった。   
 
 このような短い期間に、法律ばかりではなく諜報、謀略から礼儀作法まで教えこもうというのだから、どんなにむずかしい講義でも、二度とくりかえして教えることはなかった。そのため、講師の言葉を一言でもききもらすことは許されず、内務班内へ帰ってからの復習には骨身をけずる思いだった。   
 
 学校とはいえ軍隊のことだから、兵器の手入れ、メシ揚げ(食事当番)はじめ内務班内の雑務が多く、教習兵の一日は初年兵教育に輪をかけたような忙しさで、私たちは日夜を問わずきりきり舞いをしていた。夜九時の消灯時間までではとても勉強時問がたりないので、教習兵たちは小さな懐中電灯を買ってきて、毛布にもぐって復習をしていた。ところがこれが週番下士官に見つかって、私たちはこっぴどく油をしぼられ、以後これができなくなってしまった。仕方なく私はうすぐらい便所の終夜灯を利用することにしたが、誰でも同じようなことを考えるもので、これもやがて満員の盛況となって発見され、この方法も禁止となった。   
 
 私は窮余の一策で、隣接する輜重(しちょう)兵第一連隊の厩舎(馬小屋)へしのびこみ、十五、六ワットのうすぐらい終夜灯の光を利用して、夜半まで復習した。ここまでは誰も思いつかなかったとみえて、仲間は増えなかったが、それもぞのはず、これが見つかれば、脱柵の罪で重営倉(一週間以上の留置場入り)退学はまちがいないのだから、誰もこれはどの危険をおかしてまで勉強しようとするものがあるわけはない。だが学歴のとぼしい私は、人一倍の努力をしなければ追いつくことはできないと思い、あえてこの危険をおかして勉強した。   
 
 しかし他部隊の厩舎に侵入していて、そこの週番司令にでも見られたら万事休すなので、私はずいぷんと神経を使ったものである。厩舎のすみに積んである新しい馬の寝ワラに体をうずめ、顔と手だけ出して勉強した。少しでも足音らしいものがきこえるとあわててワラをかぶり、亀の子のように息をころして足音の遠ざかるのを待ったが、しばしば床をける馬のひずめの音にキモを冷やしたものだった。   
 
 これほど忙しい教育にもかかわらず、日曜日は班内にとどまることは許されなかった。午前八時になると教習兵たちは校庭に整列し、憲兵学校の学生としての体面をけがさぬようきびしい服装検査を受けたのち、昼食の弁当として各自アンパン二個を入れた袋を渡され、好むと好まざるとにかかわらず門外へ追いだされた。この目的は、週に一度はゆっくり頭を休めることと、社会見学を充分にしてくるようにとのことだったが、私たちは教官や班長の目をぬすんで六法全書などを持ちだし、電車のなかはもちろん道路を歩くあいだも時問を借しんで読みふけった。   
 
 こうしたことを防ぐためか、学校側ではその日の行動や見聞事項を帰校後日記に書いて提出させた。映画館や喫茶店で暇をつぶしたと正直に報告する者は少なく、ほとんどが明治神宮や靖国神社参拝、宮城(皇居)遙拝などと、当たりさわりのないことを書いていた。しかし班長たちは私服を着て張りこんでいるらしく、その時間にお前は来なかったとか、参拝者の数がちがうとかいって大目玉をもらった。   
 
 三月下旬にはいると一週問ぶっ通しで前期試験が行なわれた。相変わらず午前中は馬術、柔剣道などの試験でクタクタに疲れたところを、午後は数科目ずつの強行試験がつづき、さすがに若く張りきっていた私たちではあったが徹底的に神経と体力をすりへらした。四月にはいるとさっそく班長の一色軍曹からおほめの言葉をいただいた。心血をそそいだ勉学努力がむくわれたのか、入学当初学歴の少ない私は乙班の尻の方へおかれていたらしかったが、前期試験の結果、一挙に甲班のなかばまで序列を上げられたということだった。しかし班長のいうこの甲・乙両班の区分けは正規のものだったかどうか、成績を知らされない私たち教習兵の知るところではなかった。そして数日たつと前期試験の成績が悪かった人たち(約五十名)が退学を命じられ原隊へ復帰していった。もちろん彼らの氏名は一般教習兵に知らされずまた、毎日の勉学にいそがしく、他人のうわさをする瑕もない私たちには知るよしもなかった。   
 
 四月にはいると、将来戦地へ派遣される憲兵のために、簡単な戦闘訓練と地形地物利用の方法などが教育されることになった。このとき私は、前期試験の成績と実戦の体験者だという理由で、この科目の助教に選ばれた。それでも月が変わると教育はますます専門的になってきて、ぼんくらな頭では吸収しにくくなったため、いよいよ復習に熱を入れなければならず、私の厩舎通いはその数を増していった。(80-82頁)
 
 
 
 
〈憲兵の試験で落第し、退学を命ぜられた者は原隊復帰となるが、それを恥と思い、原隊の名誉を傷つけたとして自殺するものが出る(1938年2月)〉
 
 
 前期試験で退学を命ぜられた朝鮮(現韓国)の馬山重砲兵連隊から来ていた西田という上等兵は、原隊復帰の途中、船上から対馬海峡へ投身自殺したということで、こうした事故を防ぐため、不合格者は原隊まで憲兵引率のもとに監視つきで送られることになるという話もきいた。(87頁)
 

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