井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その4
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〈著者が見た中国人女性について(1937年12月)〉
ある日、小隊長から[君たちは明日にも国へ命をささげる身だ。初年兵だからといって遠慮することはない。ちょうど北京にいるのがさいわいだ。生きているうちに冥土のみやげに一度は女を経験しておきなさい」といって各自二個のサックを渡された。その翌日、千葉県出身の同年兵、塚本平造一等兵が「いい女を世話してやるから俺についてこい」といって私を誘ってくれた。誘われるままあとについていくと、彼は収容所のかたすみにある棒球(ポンチュウ)場(野球場)の見物席の最上段へのぼり「見つからないうちに早くこい」と手招きしながら、みずから先に立ってこわれたレンガ塀へよじ登った。
二人は壊れたレンガ塀をのりこえて外の民家の屋根へとびうつった。「おい塚本、これではまるで脱走兵じゃないか。いったいこれからどこへ行くんだ」ときいても、彼は「文句をいわず黙ってついてこい」と答えるだけである。ヒョイヒョイと屋根伝いに二、三軒先の民家へとびわたりある家の庭へとび降りて、「ここだここだ、早く降りろ」と私をうながした。彼は親しげなようすで入口の扉をたたき、一人屋内へはいっていった。やがて二十七、八歳と見える女をともなって顔を出し「よく話してあるからよろしくやれよ。俺は隣りの家でやってくる」といって一人この家の門を出ていった。女は巡査部長の女房だということだった。
「警察官の妻がなんでこんなことをするのか」ときいてみれば「丈夫(チャンフー=夫)の給料は月十五円です。これで生活できないことはないが、たまにはないしょのムダ遣いもしたいので、小遣いかせぎにときどき客をとるのです」といっていた。料金はわずか五十銭ではあつたが、初休験というものはあっけないもので、どこがいいのかわからないまま、ものの一分とたたないあいだに終わってしまい、大きな夢を見ていた期待に反して、むなしさだけが残った。
当時中国上流階級では、娘の純潔を守るということは非常に重要なことで、出生と同時に阿媽(アマ=乳母)をつけ、成人して結婚するまでの長いあいだ日夜をわかたずつき添って監視したものであった。
これに反して下層階級のあいだでは、妻女というものは金品をもって売買するもので、独身の男たちは女房を買う金をたくわえるために心血をそそぐ努力をしていた。こうした習慣があったため、貧乏人が娘を生み育てることは、貯金をしているのに等しく、市街地に住む貧乏人は男の子を生むことをきらっていた。とくに美しい娘は別として、一般には娘一人の値段は百〜二百円とのことだった。当時の中国における二百円は、現在の約七〜八百万円にもあたり、これだけあればちょっとした家が一棟買えたものである。なかには兄弟合資で一人の娘を買い、一ヵ月交代で女房にしているという変わりダネもいたが、はなはだしい例では一ヵ月いくらという契約で、友遠の女房を借用している者さえあったという。(59-60頁)
〈口実をつけての慰安所通い(1937年12月)〉
小隊には浴場があったのだが、どこから工面をつけるのか、小隊長の粋なはからいで、私たちには一日五銭の割合で入浴料が支給された。五銭あれば市内どこの銭湯でも大いばりで入浴できたが、それよりありがたいことには、当日衛兵勤務でもないかぎり、入浴に行きますといえば早朝から日夕点呼(にっせきてんこ)までのあいだ、時間にかまわず衛門を自由に出入りできた。こんなわけで「入浴行き」の言葉はそのまま外出証にかわるようになり、慰安所通いに利川する不心得者も少なくなかった。(66頁)
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